第14話 背筋を撫でるもの

村の広場の端で、ひとりの男が立ち尽くしていた。

狩りをする年齢の、日に焼けた腕。

帽子を握る手が落ち着かない。


「……すみません、村長。森の奥に、うちの犬が……」


村長の空気が変わった。

言葉は同じでも、密度だけが増える。


「今は入らないで」


「でも、あいつ……森が好きで、戻ってこないときが……」


男の声が震えた。

その震えが栞の胸に刺さる。


──大丈夫でいてほしい。

──あの子だけは、失いたくない。


男はまだ願っていない。

口に出していない。


村長が、男の肩に手を置く。

ゆっくり、逃げ道を塞がない速度で。


「探すのは、明るくなってから。

今は私の方で人を出す。あなたは家に戻って、待っていなさい」


男は反論しようとして、言葉を飲み込んだ。

村長の声には逆らえない“何か”がある。

男が、帽子を握りしめたまま言った。


「……帰ってきてほしいんだ」


その一言が、栞の中で熱を生んだ。

願いが、言葉になる前から胸を満たしている。

栞はそれを、止められない。


視界の端で、森の奥がほんの一瞬だけ淡く瞬いた。


止めようとした瞬間、

栞の頬を、勝手に涙が伝った。


次の瞬間だった。


森の方から、かすかな鈴の音がした。

草を裂く音。枝を踏む音。

誰かが走ってくる。


泥だらけの犬が、息を切らして飛び出してきた。

男の足元にぶつかるようにして、尻尾を振る。


「……っ!」


男が犬を抱きしめる。

肩が震え、声にならない息が漏れた。


「……よかった……よかった……!」


周囲がざわめいて、すぐに笑い声が混じった。

誰かが言う。


「ほら、見つかったじゃないか」

「よかったなぁ」


偶然に見える。

ただの幸運に見える。


でも栞だけは、分かってしまう。


今のは“森が動いた”んじゃない。

誰かの願いに触れて、何かが手を伸ばした。


栞は一歩だけ後ろへ下がった。

胸の奥の熱さが引かない。




それと同時に、背筋を撫でるような冷たさが走った。




その夜、栞は村の小さな宿に泊まった。

村長が「ここが一番いい」とだけ言って、手配してくれた場所だった。


古い木の匂い。

畳が少しだけ軋む音。

障子越しの月明かりが、薄く床に落ちている。


布団に入っても、眠気は来なかった。

昼間の熱が、まだ胸の奥に残っている。


犬の鈴の音。

男の震えた声。

“よかった”という息。

そして――背筋を撫でた、あの冷たさ。


栞は目を閉じた。

閉じたはずなのに、森の奥の淡い瞬きが瞼の裏に残っている。


(今日のは、偶然じゃない)


分かってしまう自分が、怖かった。

でも、怖さの底に、もっと怖いものがあった。


“代わりに”――と、頭のどこかが言う。


栞は息を吸う。

冷たい夜の空気が肺に入るはずなのに、胸の奥だけ熱い。


何度も寝返りを打って、やっと体が静まった頃。

遠くで、犬が一度だけ吠えた。


その声が、なぜか胸に刺さる。


(明日、聞こう)


村長に。

この村に。

森に。

そして、私の中に起きたことに。


栞はそう決めた。

決めた瞬間だけ、少し安心できた。


眠りに落ちる直前、

外の闇がひと呼吸ぶん、深くなった気がした。

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