第02話「氷霜の騎士と契約使用人」
アレクシス様に連れられてやってきたのは、王都の一等地にある壮麗な屋敷だった。さすがは騎士団長様のお住まい。シンプルながらも気品のある調度品が並び、どこもかしこも塵一つなく磨き上げられている。
「ひとまず、客間を使うといい。何か必要なものがあれば、後で侍女に言いつけよう」
通された部屋で、アレクシス様は淡々とそう告げた。彼の周りは相変わらずの無色透明で、屋敷の中に入ってもそれは変わらなかった。外の喧騒から完全に切り離されたこの空間は、まさに聖域だ。
「あの……アレクシス様」
私は意を決して、彼を呼び止めた。このまま客人として保護されて、いつか記憶が戻ったということにして、私が出ていくことになったら?考えるだけでぞっとする。この安息所を失うわけにはいかない。
「なんだ」
振り返った彼の蒼い瞳は、やはり何も映していない。でも、もう私は怖くなかった。むしろ、その無感動さに心底安堵している。
「私を、ここに置いていただけませんか?ただ保護していただくのは心苦しいです。何か、私にできることはありませんか?」
「……ほう?」
初めて、彼の眉がほんのわずかに動いた。興味だろうか。いや、色は見えない。ただの生理的な反応かもしれない。
「記憶がないのだろう。お前に何ができる」
「家事なら一通りできます。料理も、掃除も、洗濯も。日本……いえ、その、いた場所ではずっと一人で暮らしていましたから。必ず、お役に立ってみせます。だから、どうか使用人としてここに置いてください!」
私は深々と頭を下げた。プライドなんて、とっくに捨てた。この平穏と引き換えにできるなら、何だってする。
しばらくの沈黙。顔を上げられずにいると、頭上から静かな声が降ってきた。
「……俺を前にして、物怖じしない人間は珍しい」
「え……?」
「大抵の者は、俺に恐怖するか、あるいは媚びへつらうかのどちらかだ。お前のように、ただ淡々と取引を持ちかけてくる者は初めてだ」
言われてみれば、そうかもしれない。街の人々は彼を「氷霜の騎士」と呼び、遠巻きに恐れていた。でも私にとっては、彼こそが救いの神様だ。怖いなんて感情、湧きようがない。
「アレクシス様は、私の恩人です。それに……」
私は正直な気持ちを、少しだけ口にした。
「あなたの側にいると、とても……心が、落ち着くんです」
私の言葉に、アレクシス様はわずかに目を見開いたように見えた。もちろん、彼の周りに色の変化はない。
「……面白い。いいだろう。ひとまず、仮採用として屋敷に置く。仕事ぶりを見て、本採用とするか判断しよう」
「本当ですか!?」
思わず大きな声が出た。やった!これでしばらく、この安息所にいられる!
「ありがとうございます!精一杯頑張ります!」
ぶんぶんと頭を下げまくる私を、アレクシス様はやはり無表情で見下ろしていた。
「部屋は使用人用のものを使え。案内させる」
それだけ言うと、彼は踵を返し、廊下の奥へと去っていった。その背中を見送りながら、私は大きく息をついた。彼の姿が見えなくなると、途端に壁の向こうや窓の外から、じわりと不快な色が染み出してくるような気がして、不安になる。
早く、この屋敷に馴染まなくては。アレクシス様にとって「必要な人間」にならなくては。
その日から、私の契約使用人としての生活が始まった。
案内されたのは屋根裏の小さな部屋だったけれど、清潔で居心地は悪くない。まずは形からということで、先輩侍女のエマさんから借りた簡素なメイド服に着替える。
エマさんは少しおしゃべりな人で、私にあれこれと屋敷のことを教えてくれた。
「それにしても、ミオちゃんは度胸があるわねぇ。あの氷霜の騎士様、アレクシス様に自分から雇ってくれなんて言うんだもの」
「そんなに怖い方なんですか?」
「怖いわよ!笑ったところなんて誰も見たことないんだから!いつも無表情で、何を考えてるか分からないし……。でも、お仕事は的確で、私たち使用人にも理不尽なことは言わないから、尊敬はしてるんだけどね」
エマさんからは、アレクシス様への畏敬を示す、澄んだ青紫の色が見えた。この人は、本当に彼を尊敬しているんだな、と分かる。こういう純粋な感情の色は、見ていても不快じゃない。
「アレクシス様は、ずっとあのような感じなんですか?」
「ええ。特に三年前の戦争で親友を亡くされてからは、ますます感情を閉ざされるようになったって聞くわ。まるで、心をどこかに置いてきてしまったみたいに……」
エマさんは少し悲しそうな顔をした。彼女から、同情を示す淡い水色が滲み出る。
三年前の戦争。親友の死。それが、彼から感情を奪った原因なのだろうか。でも、それにしたって、あそこまで完璧な「無」になるものだろうか。まるで、物理的に感情を抜き取られたみたいに。
考え込んでいると、エマさんが「さ、仕事仕事!」と私の背中を叩いた。
まずは屋敷中の掃除から。広い屋敷を磨き上げるのは重労働だったけど、無心で体を動かしていると、余計なことを考えなくて済んだ。それに、この屋敷はアレクシス様の「無」のオーラで守られているのか、外の世界の不快な色がほとんど入ってこない。それだけで、掃除をしていても気分が良かった。
一日中働き詰めで、夜にはもうくたくただった。でも、この心地よい疲労感は、日本にいた頃に感じていた精神的な消耗とは全く違う。
自室のベッドに倒れ込みながら、私は窓の外を眺めた。遠くに見える王都の街明かり。あそこには、今も無数の感情の色が渦巻いているんだろう。
でも、私はもうあの濁流の中にいない。
ここは、静かで、穏やかで、安全な場所。
「……明日も、頑張ろう」
無色透明な彼のために。そして何より、この安息所を失わないために。
初めて異世界で迎える夜は、不思議なほど穏やかに更けていった。
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