八、より良き呉のために


 連れていかれた先は渓谷であった。見下ろした先の谷の入り口には堅固な関所が築かれ、岩肌は穴が掘られて通路となっている。

 明らかに戦争を想定した軍事要塞であり、ここで諸葛恪は初めて呉が相対する敵の大きさを目の当たりにした。

 ただ畑や民家はあまり見えない。恐らくここはただの要塞であり、拠点は山中にまだいくつもあるのであろうことが伺える。


「ここは洪水の被害はなかったのか」

「上流に位置しているからな、荒れることは少ない。ただそれなりに被害は出てるさ」

「そうか」


 短い問答、あまり深入りはしない。こうして諸葛恪らは渓谷上部に位置する見張り台へ通され、そこから下へ進む。

 暗い階段を降りるとそこは先ほど見た岩肌のくりぬかれた通路であり、男達の喧噪や鉄を叩く活気のいい音が響いていた。

 しかしこの通路はどこまで張り巡らされているのだろうか。

 いざ戦闘になったことを想定しても、これでは容易く逃げられてしまうだろう。


「また登るのか」

「黙ってついて来い」


 しばらく歩いてまた階段を登る。楊甜は山育ちだからか意外に平気そうな顔をしていたが、顧承は階段を見て明らかにうんざりしていた。

 土埃の舞う岩肌の通路を抜け、再び地上に。すると視点の先には、山林の中に一軒の古びた家屋があり、小さな菜園場が傍らにぽつり。

 先程の軍事拠点と打って変わって、まるで仙人の住まう屋敷のようだと神秘性を感じてしまう。

 こうして一行は古びた戸を開き、その小さな家屋に立ち入る。そこには今まさに粥を作っているお爺さんが居た。

 

「長老、怪しき商隊を捕らえたところ、何やら我らと交渉をしたいと。そこでその長と一行を連れて参りました」

「…うむ、既に聞いておる」

「商隊の長"劉福"と申す。これは我が妾の"楊甜"、甥の"李金"です」

「商人で、名は福か。そっちは金、ね」

「名を覚えてもらうのは商家にとって重要な事。理に適っておりましょう」

「損得だけでものを考えると痛い目に遭うぞ。まぁ、座れ」


 槍を構える男はそのまま出入り口を塞ぐように立つ。

 諸葛恪らは蓑を脱いで土間に干し、老人に促されるまま長椅子へ並んで腰を下ろした。

 ことことと粥は鍋の中で煮え、竈はぱちぱちと小さく燃えている。

 腰の曲がった老人は火の様子を見つつ木べらで粥をかき混ぜ、諸葛格たちに目を向けることはなかった。


「その真ん中のが、落頭民か」

「そうだ」

「人と見てくれが変わらんと聞くが、なるほど確かに。あと女の美形ばかりとも聞く。噂は合っていたのだな」

「あ、えっと、すいません。僕、男ですぅ」

「ほぅ男の妾か、そりゃあいい」


 勿論この時代、男色は別に珍しい話ではない。


「目利きの腕は確からしいな、面白い商人だ」

「フン」


 老人は白く長い髭を撫でながらふぇふぇと笑う。

 そして小さな木の椀に粥をよそぎ、力無く震える手でその粥を諸葛恪らの前に差し出した。

 思えば雨の中を歩きっぱなしで、僅かとはいえ暖かな粥はあまりに美味しそうであり、思わず楊甜は生唾を飲み込んだ。

 しかし顧承は手を伸ばそうとする楊甜の腕を抑える。諸葛恪も椀に手を伸ばそうとはしていなかった。


「食わんのか。それとも、儂が信用ならんか?」

「信用とは互いに示してこそ初めて成り立ちます。我らは武器を取り上げられ、山中深くまで連行され、そこには我らを監視する殺気だった槍持ちが居ります。これ以上、まだこちらの誠意を望まれるか?」

「信用で飯を食う商人に問うべきことではなかったな。非礼を詫びよう」


 老人は鍋肌からこそぎあつめた粥を椀によそぎ、ぐいと飲み干して見せる。

 それを見た後、諸葛恪は深く一礼をして粥を啜った。

 ほのかに塩味を感じる粥である。喉から胃へ、冷えた体の芯に届く温かみがこの上なくありがたかった。

 その後に楊甜と顧承も続いて啜る。楊甜は涙を滲ませ、鼻先を赤らめながらホッと一息をついていた。


「さて、劉福とやら。あの荷台の品は貰っても良いのか?」

「貴方に会って話をするために用意したようなものだ、構わない」

「助かるわい。呉の締め付けが厳しく、綺麗な衣類や米は手に入りにくかったのだ。これで女や子供も笑顔になってくれるであろう」

「商人は本来、困っている者に必要とする品を渡すのが仕事だ」

「良い志だ。さぞ人々に慕われる商家なのであろう。しかし儂の耳に"劉福"の名は今まで聞こえてこなんだ。のぅ、貴殿は何者だ?」


 皺が寄り、瞼が開いているかどうかも分からない。

 諸葛恪はそんな老人と正面から向かい合い、ゆったりと居住まいを正す。


「私は呉の将"劉阿"と同族の出身です。武門の家柄であるため一族の人間の多くは軍事に関わりますが、私は見ての通り体も小さく非力。されど口が立つため商人として身を立てるよう勧められ、家を構えた次第」

「劉阿か、確か西の戦(夷陵の戦い)で功を立てていた将軍だな。つまりお前は呉人。何故呉に背き、我らに賭ける」

「将軍も既に没し、一族は衰える日々。更に商売とは富を持つ者が更に富を得る仕組みであり、これから小さき我らが名を上げるには大きな賭けに出る必要がある。幸い、軍事に関する情報をこちらは持っている」

「呉を裏切るのか」

「より良い呉を築くためです。今の呉は住みにくい」

「…ふむ」


 嚙みしめるように頷く。

 その後、老人は床几からゆっくりと腰を上げ、立てかけていた杖を握った。


「客人達よ、今日はゆっくりしていきなさい。詳しい話は明日にしよう。この屋敷のものは勝手に使ってもらって構わん」

「承知した。恩に着る」

「馬宗(ばそう)、引き続きお前が警護に当たれ。頼んだぞ」

「御意」


 こうして老人はおぼつかない足取りで戸を開き、外へ出て行った。

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