第32話「直交化(オーソゴナル)という分け」

 朝、窓に息を落とす。白は薄く広がり、音もなく消えた。

 昨夜の四行——みてた/ありがと/まだ/ごめん。

 “まだ”の手前で、今日は混ざる向きを直角に分けると決める。並行は引きずる、直交は干渉を弱める。


 ノートに見出しを書く。

 《今日の方針:**直交化(オーソゴナル)**で分ける/触れない/知らせない/視界で返す》

 ——縦と横、前と脇、仕事と私。


 時雨(しぐれ)が尾を一度だけ振る。四つ吸って、六つ吐く。



 午前の返却ラッシュが落ち着くと、影浦玲生(かげうら・れお)が手帳を掲げた。

 「外縁ログ。非常灯・区掲示は平常。……寄贈パソコンは誤点灯ゼロ継続。システム担当、『基準合わせ後は安定。あとは人の流れ同士が“並行に絡む”ところだけ』」


 私は頷く。「主観は良。息、深い」


 「距離は保とう。僕は風景だけ拾う」



 児童コーナーの掲示を貼る指を止めたとき、ポケットがひと拍だけ震えた。

 【下書き保存】——まざる

 【下書き保存】——わけろ


 “ボイスメモ”を開く。空調の底、そのまた下で足音の筋が二本、同じ向きに擦れ合う気配。

 【保存:南桜(みなみざくら)地下歩道・東口】


 「掲示の紙、切らしてて——」とだけ告げて外へ。玲生が目で外縁了解。


 東口の踊り場では、階段を降りる列と、曲がって入る台車の列が長手方向で絡み、小さな押しが続いていた。

 触れない。

 私は階段の三段下、視界が最も広い場所に立ち、両手で直角を作る——片手を前、もう片手を横へ小さく。

 先頭の生徒がその直角を拾い、半歩だけ横へ張る。

 押手は前のままではなく、横の帯を通ってから前へ戻る。

 動線が直交し、擦れ音は薄まった。

 震え。

 【下書き保存】——まがった

 【下書き保存】——とおった



 図書館に戻ると、玲生が透明付箋を足した。

 「外縁。東口、“横から入ると楽”の投稿。……パソコンは静穏」


 私はしらせるなの線を胸でさわり、短く頷く。



 昼過ぎ、ポケットが二度震える。

 【下書き保存】——ふたつ

 【下書き保存】——えらんで


 底の拍が違う。保存名が連続で埋まる。

 【保存:白妙(しろたえ)公園・ブランコ列】

 【保存:観潮(かんちょう)踏切・北側】


 直交が効くのは、前進と横入りが混ざる場——ブランコへ。


 ブランコ待ちの列は、空き席へ前に伸びる腕と、横から割って入る視線が平行でぶつかる。

 触れない。

 私は列の最後尾の外、地面に十字をつま先で描く。横棒は待つ帯、縦棒は進む帯。

 保護者がそれを視界の端で拾い、「横の帯で待って、縦に進む」と手のひらで示す。

 腕は横で収まり、縦だけが前へ伸びる。

 笑いは丸のまま続いた。

 震え。

 【下書き保存】——じゅうじ

 【下書き保存】——のこった


 踏切へ回る。赤の終わり、押手の視線と歩行の入りが同軸で絡む。

 私は時刻表ガラスの前で顎を半指落とし、視線を白線の内側に置いたまま、肩をわずかに横へ流す。

 押手が横へ一呼吸ずらし、縦の歩行と直交してから合流する。

 赤の尾と入りは干渉せず、すれ違いは滑る。

 震え。

 【下書き保存】——よこ

 【下書き保存】——いきた



 館内へ戻る途中、パソコンは黙って黒。

 机の「メンテ中」札は通路軸に正対していた。

 脇の書見台を足先で半歩だけ斜(はす)に寄せ、札の向きを通路軸と直交に支える。

 通りかかったシステム担当が「あ、軸を分けるですね」と自分の手で周辺の張り紙も通路と直交に揃え、視線の衝突を解いた。

 震え。

 【下書き保存】——わけた

【下書き保存】——のこす



 夕方、玲生が肩越しに言う。

 「外縁補足。公園、『横待ち→縦進みが分かりやすい』。踏切は『横に逃がすと早い』。……全体静穏」


 胸の石が少し丸くなる。



 ケトルが鳴る。灯りが一瞬だけ明滅し、時雨がソファの背で耳を立てる。

 来る。

 私は椅子に腰掛け、膝の上で指を組む。


 25:61。

 青い泡が三度、間を置いて湧いて沈む。

 既読:蒼真

 【下書き保存】——ならべるな

 【下書き保存】——たてとよこ

 【下書き保存】——さわるな

 【下書き保存】——ひがし/のぼる


 上流へ。今日いちばん薄い拍を“ボイスメモ”で拾う。

 【保存:朝島(あさじま)取水堰・観測桟橋(下手の縁)】


 上着を取り、時雨に「すぐ戻る」。彼は窓辺で耳を立てたまま見送る。



 桟橋の下手では、二人の長柄が同じ方向で面を取り、力が重なって滑っていた。

 触れない。

 私は欄干の十字の傷の外、ボルト列と流れの直交が見える位置に立ち、息で縦(流れ)と横(受け)を別々に置く。

 四つ吸って、六つ吐く——吸いで縦、吐きで横。

 片方の職員が縦の入りを受け持ち、もう片方が横の抜けを支える。

 力は直交し、面は掛け算で強く、引きずりは消えた。

 網の手前の草の束が縦にほどけて、横の受けで安全に流れへ戻る。

 水の音は二本なのに、混ざらずに低く揃った。

 震え。

 【下書き保存】——たて

 【下書き保存】——よこ


 踵を返す途中、舗装の白い「25-6-1」の脇に、排水溝の格子。

 縦と横の線が、水を穏やかに分けていた。

 私は近寄らず、四つ吸って、六つ吐く。

 並行の争いは、直交でほどける。



 帰宅。テーブルにスマホを置く。青い泡が遅れてひとつ。

 既読:蒼真

 【下書き保存】——みてた

 【下書き保存】——ありがと

 【下書き保存】——まだ

 【下書き保存】——ごめん


 私はスマホを胸に当て、目を閉じる。心の中で、仕事と私の視線に直角を置く。

 ノートを開き、今日をまとめる。


 《主観ログ・第三十二夜》

 ・地下東口:前×横の直角合流→「まがった/とおった」

 ・白妙公園:地面の十字で待ち(横)/進み(縦)分離→「じゅうじ/のこった」

 ・踏切北側:横逃がし→縦合流で干渉低減→「よこ/いきた」

・図書館PC周り:掲示の軸直交化→「わけた/のこす」

 ・堰下手:縦(入り)/横(受け)の役割分離→「たて/よこ」

 ・遵守:触れない/知らせない/鏡を増幅しない/“並べず、直角に置く”

 ・メッセージ:「ならべるな/たてとよこ/ひがし/のぼる/さわるな」「みてた/ありがと/まだ/ごめん」

 ・仮説更新:直交化は“やさしさの角度”。返すとは、同軸の争いを直角の余白へほどき、世界の干渉を弱めること


 灯りを一つ落とし、胸の前で小さな十字をつくる。

 前は前に、横は横に。

 それだけで、今夜の呼吸は楽になる。


 ——既読が、鳴る。

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