第28話「帯域制限(バンドリミット)という選別」

 朝、窓に息を落とす。白は薄く広がって、跡形もなく消えた。

 昨夜の四行——みてた/ありがと/まだ/ごめん。

 “まだ”の手前で、今日は通すものと通さないものを決めると決めた。早すぎる揺れは拾わない。帯域を絞る。


 ノートに見出しを書く。

 《今日の方針:**帯域制限(バンドリミット)**で選ぶ/触れない/知らせない/視界で返す》

 ——細かいざわめきは通さず、ゆっくりだけを世界に渡す。


 時雨(しぐれ)が尾を一度だけ振る。四つ吸って、六つ吐く。



 午前の返却ラッシュが収まると、影浦玲生(かげうら・れお)が手帳を掲げた。

 「外縁ログ。非常灯・区掲示は平常。会館は朗読千秋楽、ラックは間引き継続。……寄贈パソコン、電源オフでも“Draft(1)”が一瞬点いて消えた。システム担当、『戻しも先手も入れたけど高周波ノイズが残る。フィルタで帯域を絞るかも』」


 私はうなずく。「主観は良。息、深い」


 「距離は保とう。僕は風景だけ拾う」



 児童コーナーの掲示を貼り替えていると、ポケットがひと拍震えた。

 【下書き保存】——はやい

 【下書き保存】——おとせ


 “ボイスメモ”を開く。空調の底、そのまた下で靴先の小刻みと台車の細跳ねが混ざりあって、言葉の子音をかき消す気配。

 【保存:南桜(みなみざくら)地下歩道・東口】


 「掲示の紙、切らしてて——」だけ残し外へ。玲生が目で外縁了解。


 東口は、踊り場手前で半歩刻みの急ぎが伝染している。

 触れない。

 私は階段の三段下、視界が最も広い位置に立ち、胸の前で大きめの円をゆっくり一周——低い周波だけを示す。

 先頭の生徒がそのゆっくりを拾い、踵の打点を半分間引く。

 押手は細跳ねをやめ、車輪を面で転がす。

 高いざわめきが落ち、会話の母音が戻る。

 震え。

 【下書き保存】——おちた

 【下書き保存】——とおった



 図書館に戻ると、玲生が透明付箋を一枚。

 「外縁。東口、『バタバタが消えた』の投稿。……寄贈PC、“Draft(1)”、午前に一回。ログは空白。午後、電源ラインにフィルタを足すかも」

 私はしらせるなの線を胸でなぞり、うなずく。



 昼過ぎ、ポケットが二度震える。

 【下書き保存】——ふたつ

 【下書き保存】——えらんで


 底で違う拍。保存名が連続で埋まる。

 【保存:白妙(しろたえ)公園・ブランコ列】

 【保存:観潮(かんちょう)踏切・北側】


 帯域が効くのは、速度が混ざる場——ブランコへ。


 ブランコ列は、小刻みな押しと大きな揺れが重なり、周囲の声が尖って聞こえる。

 触れない。

 私は列の最後尾の少し外、膝をゆっくり曲げ伸ばしして低いテンポを置く。

 保護者の一人が視界の端でそれを拾い、「いーち、にー」の間を伸ばす。

 早い押しが自然に抜け、揺れは大きいが遅い帯だけ残る。

 笑いが丸くなった。

 震え。

 【下書き保存】——まるく

 【下書き保存】——のこった


 踏切へ回る。赤の終わりに小走りが混ざり、白線際で細かい接触が起きかける。

 私は時刻表ガラスの前で顎を半指落とし、足幅を広めに取り、歩幅をゆっくりだけに見せる。

 押手が小走り成分を切り落とし、赤の尾と歩行の入りが低い帯で重なる。

 ぶつかりは起きなかった。

 震え。

 【下書き保存】——きれた

 【下書き保存】——いきた



 館内へ戻る途中、寄贈パソコンの黒い画面の隅で“Draft(1)”がふっと灯り、0に戻る。

 触れない。

 机の「メンテ中」札が目線の真芯で強すぎる。

 脇の書見台を足先で半歩だけ下げ、札を視野の低い帯へ移す。

 通りかかったシステム担当が「あ、強い成分を落とします」と言い、自分の手で電源配列の高周波フィルタを追加、LANの別経路を確実に切る。

 震え。

 【下書き保存】——しぼれ

 【下書き保存】——のこす



 夕方、玲生が手帳を示す。

 「外縁補足。公園、『テンポゆっくりで安全』。踏切は『小走りが消えた』。……会館は定刻、音響はピーなし」

 私はうなずき、胸の石が少し丸くなる。



 ケトルが鳴る。灯りが一瞬だけ明滅し、時雨がソファの背で耳を立てる。

 来る。

 私は椅子に座り、膝の上で指を組む。


 25:61。

 青い泡が三度、間を置いて湧いて沈む。

 既読:蒼真

 【下書き保存】——しぼれ

【下書き保存】——はやいのをすてろ

 【下書き保存】——さわるな

 【下書き保存】——ひがし/のぼる


 上流へ。私は“ボイスメモ”を開く。今日いちばん薄い拍。

 【保存:朝島(あさじま)取水堰・観測桟橋(中央より上手)】


 上着を取り、時雨に「すぐ戻る」。彼は窓辺で耳を立てたまま見送る。



 桟橋の上手は、細かい風のざわめきが水面をチリと泡立て、長柄の入りを落ち着かなくしていた。

 触れない。

 私は欄干の十字の傷から半歩外、ボルト列と流れの中点に立ち、息の高い揺れを捨てるように、吐き出す最初の一拍を意図して遅くする。

 片方の職員が入り始めを深く遅く置き、もう片方が微細な修正をやめて大きな面だけで受ける。

 網の手前の草の束はプチプチ泡立たず、遅い帯だけでほどけて流れに戻る。

 水の音が低いところで太く揃った。

 震え。

 【下書き保存】——ふとく

 【下書き保存】——いきた


 踵を返す途中、舗装の白い「25-6-1」の周りで、雨粒が細かくはねて数字を滲ませていた。

 私は近寄らず、四つ吸って、六つ吐く。

 細かな跳ねは見ない。太い息だけ残す。



 帰宅。テーブルにスマホを置く。青い泡が遅れてひとつ。

 既読:蒼真

 【下書き保存】——みてた

 【下書き保存】——ありがと

 【下書き保存】——まだ

 【下書き保存】——ごめん


 私はスマホを胸に当て、深く吸って、ゆっくり吐く。

 ノートを開き、今日をまとめる。


 《主観ログ・第二十八夜》

 ・地下東口:大円のテンポで高いざわめきを落とす→「おちた/とおった」

 ・白妙公園:押しの間延ばしで早い押しを除去→「まるく/のこった」

 ・踏切北側:歩幅広め・歩速遅めを視界へ→「きれた/いきた」

 ・図書館PC:高周波フィルタ追加+視野の低い帯へ→「しぼれ/のこす」

 ・堰上手:微細修正を捨て、大きい面だけで受ける→「ふとく/いきた」

・遵守:触れない/知らせない/鏡を増幅しない/“速いものを通さず、遅いものを通す”

 ・メッセージ:「しぼれ/はやいのをすてろ/ひがし/のぼる/さわるな」「みてた/ありがと/まだ/ごめん」

 ・仮説更新:帯域制限(バンドリミット)は“静けさの選別”。返すとは、細かな跳ねを世界からそっと落とし、太い呼吸だけを渡すこと


 灯りを一つ落とし、胸の前で大きな円をもう一度描く。

 早いものは流し、遅いものを抱く。

 それだけで、今夜の呼吸は楽になる。


 ——既読が、鳴る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る