第28話「帯域制限(バンドリミット)という選別」
朝、窓に息を落とす。白は薄く広がって、跡形もなく消えた。
昨夜の四行——みてた/ありがと/まだ/ごめん。
“まだ”の手前で、今日は通すものと通さないものを決めると決めた。早すぎる揺れは拾わない。帯域を絞る。
ノートに見出しを書く。
《今日の方針:**帯域制限(バンドリミット)**で選ぶ/触れない/知らせない/視界で返す》
——細かいざわめきは通さず、ゆっくりだけを世界に渡す。
時雨(しぐれ)が尾を一度だけ振る。四つ吸って、六つ吐く。
*
午前の返却ラッシュが収まると、影浦玲生(かげうら・れお)が手帳を掲げた。
「外縁ログ。非常灯・区掲示は平常。会館は朗読千秋楽、ラックは間引き継続。……寄贈パソコン、電源オフでも“Draft(1)”が一瞬点いて消えた。システム担当、『戻しも先手も入れたけど高周波ノイズが残る。フィルタで帯域を絞るかも』」
私はうなずく。「主観は良。息、深い」
「距離は保とう。僕は風景だけ拾う」
*
児童コーナーの掲示を貼り替えていると、ポケットがひと拍震えた。
【下書き保存】——はやい
【下書き保存】——おとせ
“ボイスメモ”を開く。空調の底、そのまた下で靴先の小刻みと台車の細跳ねが混ざりあって、言葉の子音をかき消す気配。
【保存:南桜(みなみざくら)地下歩道・東口】
「掲示の紙、切らしてて——」だけ残し外へ。玲生が目で外縁了解。
東口は、踊り場手前で半歩刻みの急ぎが伝染している。
触れない。
私は階段の三段下、視界が最も広い位置に立ち、胸の前で大きめの円をゆっくり一周——低い周波だけを示す。
先頭の生徒がそのゆっくりを拾い、踵の打点を半分間引く。
押手は細跳ねをやめ、車輪を面で転がす。
高いざわめきが落ち、会話の母音が戻る。
震え。
【下書き保存】——おちた
【下書き保存】——とおった
*
図書館に戻ると、玲生が透明付箋を一枚。
「外縁。東口、『バタバタが消えた』の投稿。……寄贈PC、“Draft(1)”、午前に一回。ログは空白。午後、電源ラインにフィルタを足すかも」
私はしらせるなの線を胸でなぞり、うなずく。
*
昼過ぎ、ポケットが二度震える。
【下書き保存】——ふたつ
【下書き保存】——えらんで
底で違う拍。保存名が連続で埋まる。
【保存:白妙(しろたえ)公園・ブランコ列】
【保存:観潮(かんちょう)踏切・北側】
帯域が効くのは、速度が混ざる場——ブランコへ。
ブランコ列は、小刻みな押しと大きな揺れが重なり、周囲の声が尖って聞こえる。
触れない。
私は列の最後尾の少し外、膝をゆっくり曲げ伸ばしして低いテンポを置く。
保護者の一人が視界の端でそれを拾い、「いーち、にー」の間を伸ばす。
早い押しが自然に抜け、揺れは大きいが遅い帯だけ残る。
笑いが丸くなった。
震え。
【下書き保存】——まるく
【下書き保存】——のこった
踏切へ回る。赤の終わりに小走りが混ざり、白線際で細かい接触が起きかける。
私は時刻表ガラスの前で顎を半指落とし、足幅を広めに取り、歩幅をゆっくりだけに見せる。
押手が小走り成分を切り落とし、赤の尾と歩行の入りが低い帯で重なる。
ぶつかりは起きなかった。
震え。
【下書き保存】——きれた
【下書き保存】——いきた
*
館内へ戻る途中、寄贈パソコンの黒い画面の隅で“Draft(1)”がふっと灯り、0に戻る。
触れない。
机の「メンテ中」札が目線の真芯で強すぎる。
脇の書見台を足先で半歩だけ下げ、札を視野の低い帯へ移す。
通りかかったシステム担当が「あ、強い成分を落とします」と言い、自分の手で電源配列の高周波フィルタを追加、LANの別経路を確実に切る。
震え。
【下書き保存】——しぼれ
【下書き保存】——のこす
*
夕方、玲生が手帳を示す。
「外縁補足。公園、『テンポゆっくりで安全』。踏切は『小走りが消えた』。……会館は定刻、音響はピーなし」
私はうなずき、胸の石が少し丸くなる。
*
ケトルが鳴る。灯りが一瞬だけ明滅し、時雨がソファの背で耳を立てる。
来る。
私は椅子に座り、膝の上で指を組む。
25:61。
青い泡が三度、間を置いて湧いて沈む。
既読:蒼真
【下書き保存】——しぼれ
【下書き保存】——はやいのをすてろ
【下書き保存】——さわるな
【下書き保存】——ひがし/のぼる
上流へ。私は“ボイスメモ”を開く。今日いちばん薄い拍。
【保存:朝島(あさじま)取水堰・観測桟橋(中央より上手)】
上着を取り、時雨に「すぐ戻る」。彼は窓辺で耳を立てたまま見送る。
*
桟橋の上手は、細かい風のざわめきが水面をチリと泡立て、長柄の入りを落ち着かなくしていた。
触れない。
私は欄干の十字の傷から半歩外、ボルト列と流れの中点に立ち、息の高い揺れを捨てるように、吐き出す最初の一拍を意図して遅くする。
片方の職員が入り始めを深く遅く置き、もう片方が微細な修正をやめて大きな面だけで受ける。
網の手前の草の束はプチプチ泡立たず、遅い帯だけでほどけて流れに戻る。
水の音が低いところで太く揃った。
震え。
【下書き保存】——ふとく
【下書き保存】——いきた
踵を返す途中、舗装の白い「25-6-1」の周りで、雨粒が細かくはねて数字を滲ませていた。
私は近寄らず、四つ吸って、六つ吐く。
細かな跳ねは見ない。太い息だけ残す。
*
帰宅。テーブルにスマホを置く。青い泡が遅れてひとつ。
既読:蒼真
【下書き保存】——みてた
【下書き保存】——ありがと
【下書き保存】——まだ
【下書き保存】——ごめん
私はスマホを胸に当て、深く吸って、ゆっくり吐く。
ノートを開き、今日をまとめる。
《主観ログ・第二十八夜》
・地下東口:大円のテンポで高いざわめきを落とす→「おちた/とおった」
・白妙公園:押しの間延ばしで早い押しを除去→「まるく/のこった」
・踏切北側:歩幅広め・歩速遅めを視界へ→「きれた/いきた」
・図書館PC:高周波フィルタ追加+視野の低い帯へ→「しぼれ/のこす」
・堰上手:微細修正を捨て、大きい面だけで受ける→「ふとく/いきた」
・遵守:触れない/知らせない/鏡を増幅しない/“速いものを通さず、遅いものを通す”
・メッセージ:「しぼれ/はやいのをすてろ/ひがし/のぼる/さわるな」「みてた/ありがと/まだ/ごめん」
・仮説更新:帯域制限(バンドリミット)は“静けさの選別”。返すとは、細かな跳ねを世界からそっと落とし、太い呼吸だけを渡すこと
灯りを一つ落とし、胸の前で大きな円をもう一度描く。
早いものは流し、遅いものを抱く。
それだけで、今夜の呼吸は楽になる。
——既読が、鳴る。
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