白日の影は緑陰に輝く

遠野朝里

序章

第1話 影宮 その一

第一話


「本当にここまでついてくるとはな。やはりお前は筋金入りの馬鹿だ」


 〝影宮えいぐう〟の苔むした石壁を目の前にして、ユーディスは毒づいた。きっといつも通りに皮肉っぽい笑みを浮かべているのだろうが、アラカにはユーディスの表情がよく見えなかった。幾重にも重なる枝葉が、二人の周囲に黒々とした影を落としているせいだ。


「殿下お一人で暮らすのは難しいでしょう? これまでは使用人がやっていたことを、すべて殿下ご自身でなさるというのは非現実的です」

「おい、なんだその口の利き方は」


 涼風がユーディスの長い銀髪を揺らした。こんな状況でも、朝の木陰を吹き抜ける風は気持ちいいな――などと、アラカはのんきな感想を抱いてしまった。


 頭上を仰いでも空は見えない。鬱蒼と茂る木の葉に遮られて、青空は一片たりとも見えない。太陽の光さえも、生い茂る葉の屋根をすり抜けられない。今日からアラカとユーディスが暮らす影宮に、光は届かない。遠くに見えるほかの宮は、あんなにも光にあふれているのに。


 影宮――宮と称するのも憚られるほど小さな、石造りの城。この城は、我らがジュライこうおうこくの象徴であり守護者である〝しんじゅ〟のすぐそばに建っている。


 神樹は天を衝き雲を貫くほどの巨木で、その天辺は誰も見たことがないと伝わる。ジュライ光王国の王宮はこの神樹を囲むように建設された。だが王宮の中で、神樹の樹冠が届く範囲に建っているのは、祭礼の時にしか使われない〝神樹の祭殿〟と、この影宮だけ。祭殿は神樹の幹のそば、まさしく根元に造られているが、影宮は神樹の西側の少し離れた位置にある。西側に建っているがゆえに、朝日が入らない――この国のどんな塔よりも太い神樹の幹の陰に入ってしまうのだ。


 だから、影宮は真昼でも暗い。そうアラカも聞いたが、実際に来てみると、想像以上に暗かった。影宮は、深すぎるほどに濃い緑の影に覆われている。目の前の人間の表情もわからないとは、この暗い前庭にはまず明かりが必要だ。


「アラカ、聞いているのか?」


 ユーディスは苛立っていた。無理もない。このジュライ光王国の第十王子である彼が、こんな暗い宮で暮らさねばならないのだから。ユーディスのためにアラカができることは、少しでもこの影宮を住みよい場所に変えることだ。そのためには、ひたすら行動あるのみ。


「まずは掃除を致します。寝室だけでも整えておかなければ、殿下が休めませんし」

「……アラカ」

「なんでしょうか、殿下」

「今すぐその気色悪い喋り方をやめろ。さもなくば〝夏の宮〟に帰ってもらう」


 どうやらユーディスは本当に嫌がっているようだ。顔は見えなくても語気でわかる。


「いや……一応、俺は従者だからさ。引っ越し初日から王子になれなれしい口を利くのもどうかと思ったんだけど」

「今更何を言っているんだ。だいたい、〈影〉である私と、王国最強の騎士と名高かったゼファー・ヴァンサン男爵の息子であるお前、どちらが上の立場だ?」

「いや……そりゃあ、ユーディスが上に決まってるだろ。〈影〉でも王子なのは変わらないし」

「フン、馬鹿め。そう思っているのはお前だけだ」

「ええ?」

「昨日のことを思い出してみろ。お前以外に、私の荷造りに手を貸した者がいたか? この私を変わらず王子として扱うべきだと思っているのはお前だけ。ほかの者は皆、私を唾棄すべき邪悪だとみなした。いいのか? ヴァンサン家の遺児は頭がおかしいと言われても」


 ユーディスはアラカを言い負かそうと捲し立てる。ユーディスのように流暢に言葉を紡げず、素朴な言葉しか使えない己をアラカはもどかしく思うが、なんとか自分の思いを彼に伝えなければ。


「いいっていうか……どうでもいい、かな。ユーディスのことを邪悪だと思いこむような奴らにどう思われても、どうでもいいっていうか……」


 そう答えると、ユーディスはわずかに俯いて、チッと舌打ちをした。


――よかった。


 顔を隠しながら舌打ちをするのは、照れているときだ。素直に喜ぶのが苦手なところは、今も昔も変わらない。


「ほら、入るぞ。とりあえず軽く掃除して、それから荷物を運び込むのでいいか?」

「……ああ」


 その返事にアラカはほっと息をつき、引いてきた荷車を入り口のそばに停めた。そして、苦境に置かれた友のため、静かに扉を押し開けた。




           ◆




 影宮は小さいながらも、貴族の住居としての体裁は成していた。

 一階には食堂と厨房、大きめのサロン。二階には寝室が二つと小さめのサロン、そのサロンから続くテラスがあった。宮じゅうの窓を全開にすると、真っ暗だった室内がほのかに明るくなった。


 宣言通り、アラカは寝室から掃除を始めた。二つの寝室のうち、壁を窪ませたアルコーブに大きな寝台が置かれている方が主寝室だろう。アルコーブの中を覗き込んでみると、天井に満天の星が描かれていた。隅に張った蜘蛛の巣をはたきで払って、黴びた寝具を外へ運び出す。百年以上も放置されていた織物は、さすがにもう使えそうにない。


 寝台を整え、床に堆積していた埃の層を始末した後は、部屋の奥のワードローブを開いた。中には立派なドレスが一着と、質素な服が何着か入っていた。


「おそらく、〈影〉の生母のものだろうな」


 アラカの背後でユーディスがカンテラを掲げ、ワードローブの中を照らしてくれた。ありがたい。明るいほうが掃除がしやすい。


せいだったのだろう」


 ユーディスはドレスを見つめている。一着だけ残されていた美しいドレスは緑色、それもせんりょくだった。


 このジュライにおいて、緑とは神樹を示す尊き色。それも鮮緑のような澄んだ緑を身につけられるのは王族だけで、外から嫁いできた妃ならば特に上位の者に限られる。ドレスは古びてはいたものの、色褪せてはいなかった。光が入らなかったおかげだろうか。


 アラカは尋ねる。


「百年前の〈影〉の母が、当時の正妃ってことか?」

「記録にはないがな」


 ユーディスはさらりと答え、さらに続ける。


「最も位の高い正妃でさえも、〈影〉を産めば終わりということだな。私の生母がすでに死んでいるのは幸いだったか」


 淡々と言うユーディスだったが、アラカは今の言葉を看過できなかった。


「実の母上が亡くなっているのが幸いなわけないだろ」


 アラカもユーディスも、幼い頃に母親を亡くしている。アラカの母は戦死、ユーディスの母は病死という違いはあれど、幼い二人はその寂しさと悲しみを共有して過ごした。


 しかしユーディスは首を振る。


「エルア様が実の母でなくてよかったという意味さ」


 アラカは、言葉に詰まった。


 昨日までアラカとユーディスが暮らしていた〝夏の宮〟の主エルアは、の位にある。二妃は正妃に次ぐ地位で、以下さんよんと続き、その下は単にきさきとだけ呼ばれる。


 エルアは、亡き友人たちの子を引き取り我が子のように育てた変わり者だ。彼女が育てた義子こそが、アラカとユーディスである。

 もしもエルアがユーディスの実母であったなら、〈影〉を産んだ妃として共に影宮へと追いやられただろう。ここに残されたドレスはそう示している。自分と共に不幸になる者がいなくてよかった――ユーディスはそう思っているのだろうが、その優しさは、あまりにも寂しい。


「……そんなこと言うなよ」 


 アラカとユーディスはどちらもエルアの義子だが、その立場はまるで違う。


 アラカの実家の爵位は男爵、それも亡き父ゼファー・ヴァンサンが武功を理由に賜った騎士爵だ。要は元平民、貴族階級の底辺である。


 一方、ユーディスは国王ゲオルギウスが認めた正統の王子だ。亡き実母はレイという名で、エルアの侍女として仕えた女性だったらしい。だがレイはエルアよりも先に王の子を――第十王子ユーディスを産み、その七年後に逝去した。エルアが第十三王子マティウスを出産したのはそのさらに三年後であった。


 エルアの側仕えの者たちには、子爵家や伯爵家の娘がいる。彼女らにとって、底辺男爵家の遺児であるアラカの世話など冗談ではないだろう。アラカもそれは理解している。だから、彼女たちの密かでささやかな嫌がらせを、仕方のないことだと受け入れていた。


 しかし、彼女たちが実子マティウスと義子ユーディスの扱いに差をつけるのには腹が立った。エルアが二人を分け隔てなく育てているから、なおさら許せなかった。


「お前は、王子なのに……」


 ユーディスの出生にどんな事情があったのか、アラカには知る由もない。だからアラカは何度も思った――エルアがユーディスの実母であったらよかったのに、と。


「ハッ」


 そんなアラカの切実な思いを、ユーディスは鼻で笑った。


「馬鹿め。たらればを考えるのは時間の無駄だ。いいか、私はエルア殿下の実子ではない。そのおかげで、あの素晴らしいお方をこのぼろ屋に住まわせなくて済んだのだ……これが不幸中の幸い以外のなんだと言うんだ?」


 いつも通りの、人を小馬鹿にした笑み。口角をわずかに上げるユーディスを見て、アラカは少し安堵した。まだ、虚勢を張っていられるくらいには元気らしい。


「アラカ。馬鹿なことを言っていないで、お前もさっさと夏の宮へ戻れよ」

「戻らないさ。お前をひとりにはしないよ」


 一瞬、ユーディスが目を丸くした――ように見えた。


「馬鹿な奴」


 そう吐き捨て、カンテラをアラカに押しつけると、ユーディスはすたすたと階段を降りていく。


「どこに行くんだ、ユーディス!」


 足音が遠ざかっていく。返事はなかった。


 今のユーディスをひとりにしておきたくはない。だが、彼自身はひとりになりたいのかもしれない――そう思うと、追えなかった。


 いずれにせよ、掃除はしなければならない。当然ながら、王子であるユーディスは生まれてこの方掃除など一度もしたことがない。一方でアラカは、家事を一通りこなすことができる。ばあや――両親が死んだ後、ヴァンサン家に残ってくれたたったひとりの使用人――だけでは、家のことをすべてやりきれなかった。自然とアラカはばあやを手伝うようになり、そのときに家事のいろはを教えてもらった。貴族の男子なのに家事が得意なことを、夏の宮の使用人や上級貴族たちに蔑まれ、不愉快な思いもしたが、そのおかげで今こうしてユーディスを助けられるのだから、人生何が役に立つかわからない。


 掃除をしていると、どうしても考えてしまうことがあった。ユーディスがこの影宮に追いやられた原因――〈影〉のことだ。


 きっかけは、昨日行われた〝神樹の託宣〟の儀式だ。次の王を決める前に、王子たちは祭殿で儀式を行い、神樹から託宣を得なければならない。要は、最も王にふさわしいのは誰か、神樹に問うのだ。その儀式で、ユーディスに下された託宣が、〈影〉であった。〈影〉とは〝ジュライ光王国に仇なす者〟を示すらしいが、アラカにはそれ以上のことはわからない。おそらく、ほかの人々もそうだろう。かつて〈影〉とされた者が具体的に何をしたのか、なんの記録も残っていないからだ。ただ、『記録に残すのもおぞましいことが起きたから』とだけ伝わっている。


 ユーディスは口が悪いし、表面上は性格も悪い。だが、義母エルアと異母弟マティウスを思いやり、彼らを立て、支えながら生きてきた。露悪的に振る舞うのは、周囲の歓心を買わないため。二妃の実子であるマティウスを周囲に重んじてほしいがため、己が軽んじられるように振る舞ってきた。長く共に暮らしてきたアラカはそのことをよく知っている。


 だが、神樹はユーディスを〈影〉とみなした。もう、誰もユーディスを信じてくれない。当のユーディス自身でさえも。


「……はあ」


 憂鬱な思考が絡みつく。今のアラカにできるのは、この影宮を少しでも住みよい場所にすることだけ。胸のつかえと戦いながら、掃除を続けることしかできない。

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