FLARE

Hiro S.Inchi

炎を渡す者たち

第1章:炎の子リオと精霊の誓い

第1話:小さな焔

夜の村は、ひどく静かだった。

風は止み、虫の声も薄い。


遠くで水車が軋む音だけが、闇の底に沈んだ時間を細く刻んでいる。


リオは家の戸口をそっと閉めた。

きしむ音がしないよう、息を殺して。


寝台の上には、薄い毛布の山。

丸めた布団を入れておいた。


遠目には、まだ中に誰かが眠っているように見える。

ばれない。きっと。


(……行くなら、今だ)


素足に草の冷たさが刺さる。

夜露で濡れた土は冷たく、踝までひやりとするのに、胸の奥だけが微かに熱い。


「炎の子」。


村の大人たちはそう呼んだ。

いい意味なのか悪い意味なのか、リオにはわからなかった。


ただ、目を向けられるたびに、体のどこかが縮こまる。


「……できるのかな、ほんとに」


畑の端の祠まで来ると、リオは両の手を胸の前で合わせる。

村外れで誰にも見られない場所。


彼はそこで何度も挑戦してきた。

何度も失敗した。


火打石のない夜。

小さな炎が、自分の中から生まれてくれたら――それだけの願い。


深呼吸。

目を閉じる。


胸の奥の熱に、そっと触れるように意識を向ける。


……なにも起きない。


いつも通り、何も。


「やっぱり、僕には――」


言いかけて、リオは口をつぐんだ。

今、微かに、鼓動が手のひらへと伝わった気がしたからだ。


ドク、ドク。

血があたたかく巡る感覚が、指先の中で渦になる。


もう一度、目を閉じる。

耳の奥で、水のせせらぎみたいな音がした。


いや、違う。

燃える息。


乾いた小枝に火が移る直前の、あの、ちいさな息。


(……聞こえる)


指先に、ひとしずくの温度。


次の瞬間――

ぼっ。


ほんの、米粒ほどの火。

リオの掌に、灯った。


「……ついた」


思わず声が漏れた。

驚いて手を放り投げそうになる。


けれど、怖さよりも早く、胸の奥が弾ける。

炎は小さい。


頼りない。

それでも、確かに揺れている。


風もないのに、呼吸に合わせて揺れる。

掌の真ん中に、光が生まれている。


自分の中から、出てきた。


「僕……本当に」


嬉しくて、膝が笑った。

けれど同時に、足元の草が黒く見える。


火は怖い。

村の掟では、夜に子どもが火を扱うのは厳禁だ。


リオは慌てて祠の横の裸地へ移動した。

土が露出している場所なら燃え移らない。


前に村の鍛冶屋が、そう教えてくれた。


火は、消えない。

掌で小鳥のように震えながら、金色の息を吐く。


「……ありがとう」


誰にともなく呟いた、そのときだった。


――見つけた。


声、だった。

耳ではなく、胸の内側に落ちてきた、柔らかな響き。


リオは反射的にあたりを見回した。

祠の石段、畑の畝、林の影。


誰もいない。

いるのは、火だけ。


「だ、だれ……?」


返事は、なかった。

代わりに、火がふっと形を変える。


光の粒がほどけ、ゆっくりと集まり直す。

輪郭が――人のような、鳥のような、揺らぐ線になった。


リオは息を呑んだ。

それを風が撫でる。


きら、と金の粉が散る。


――怖がらないで。


また、声。

落ち着いた、少し笑っているような声色。


リオの肩から力が抜ける。


「……君、なの?」


焔は答えなかった。


ただ、すこし大きくなり、リオの掌から指先へ、指先から腕の上へと、なぞるように移動する。


熱いのに、痛くない。

それは川辺のぬるい水みたいに、皮膚の上をやさしく流れていく。


「火が……やさしい」


独り言が漏れ、思わず笑ってしまう。

笑った自分に驚き、頬が熱くなる。


こんな夜に、声を出してしまった。


ぱちゃ、ぱちゃ。

遠くで、水の跳ねる音がした。


用水路のところだ。

夜番の人が見回りをしているのかもしれない。


(まずい)


リオは焔を胸に抱え、田の畦道を走った。

露が跳ね、素足が冷たい。


息を潜め、背丈ほどの草むらに身を沈める。


足音。

灯りの輪。


提灯を手にした男が、あたりを一周する。


祠の影、畑の端。

リオのいる草むらの手前で、男は立ち止まった。


「……狐か。風もないのに草が揺れた」


ひとりごちて、肩をすくめる。

提灯の光が遠ざかる。


リオは長い息を吐いた。

鼓動がうるさい。


掌の焔は、彼の鼓動に合わせて小さく跳ねる。


「静かにしてて」


囁くと、焔は素直に小さくなった。

言葉が通じた気がして、リオはおかしくなる。

胸の中が、じんわりと温かい。


――やさしいね、リオ。


また声。

名前を、呼ばれた。


「どうして僕の名前を……?」


問いかけに、焔はふわりと膨らむ。

草むらの中に金の影が生まれ、輪郭が少しずつ確かになっていく。


それは、小さな人のかたち。

髪のような光の流れ、瞳の位置にひときわ明るい粒。


リオは目を見開く。

心臓が跳ね、けれど逃げたいとは思わなかった。


――見ていたから。

――あなたが、消えない火を欲しがった夜から。


耳の奥がきゅっとなる。

あの夜の匂いが喉に戻る。


濡れた木の匂い。

黒い煙。


泣きすぎた後の塩辛さ。


「……僕は、守りたかっただけだよ」


小さく呟くと、焔の人影はかすかに首を傾げた。

叱るでも慰めるでもなく、ただ、そこにいる。


誰にも言えなかった言葉が、喉から零れてくる。


「もう、失くしたくない。火のせいで誰かを泣かせたくない。だけど……火があれば、守れるかもしれないって、思ったんだ」


掌の上で、焔が揺れる。

それは返事のようでもあり、ただの風のようでもある。


――なら、学ぼう。


「学ぶ?」


――火のこと。

わたしのこと。

あなたのこと。


言葉に不思議と重さがあった。

紙片のように軽くはない。


薪の芯に残る赤い炭のように、静かで、熱い。

リオは頷いた。


自分でも驚くほど、自然に。


「どうやって?」


――まずは、ここじゃないところで。


焔が、ふっとリオの掌から離れた。

金の粒が地を這い、畦道を川のほうへ導く。


誘われるまま、リオは草むらを抜けた。

湿った風。


水音が近い。


用水路の石縁まで来ると、焔はそこで止まった。

水面に金の光が揺れる。


夜空の星が、足元に落ちているみたいだ。


「川のそばなら、火事にならない」


言うと、焔は満足げに瞬いた。

リオはしゃがみ込み、掌を水面の近くへ差し出す。


焔が寄り添い、指先を小さく舐めた。

水がぬるく感じる。


――ここなら、少しだけ強くできる。


「強く?」


――怖くない範囲で。


焔はゆっくりと膨らむ。

米粒が豆粒になり、豆粒が拇指の先になり――それでも、熱は穏やかなまま。


水面に映る光が、大きく揺れる。

リオは思わず笑みをこぼす。


頬に、金の明かりがやさしく触れた。


「きれいだ」


――名前、呼んで。


突然のお願いに、リオは瞬きをした。


「名前?」


――わたしの。


掌の上で、光が期待するように跳ねる。

リオは少し考えた。


言葉が、舌の上で熱く転がる。

夜の空気に合う音。


焔の色に似合う響き。

口が、自然に形をつくった。


「……アウラ」


焔が、ぱあっと明るくなった。

水面に散った金の粒が、星座みたいに並び替わる。

耳の奥で、澄んだ笑い声がした。


――気に入った。


呼吸が揃う。

胸の鼓動と、焔の明滅がぴたりと重なる。


リオは、その一致が嬉しかった。

世界に、自分だけの居場所がひとつ、増えたような気がした。


ぽちゃん。

小魚が跳ね、同心円の波紋が広がる。

光が揺れ、祠の屋根の影に飲み込まれ、また戻ってくる。


「アウラ」


もう一度、呼ぶ。

焔は答えるように小さく頷き――それから、すこしだけ真剣な明るさになった。


――リオ。

これから先、あなたは選ぶことになる。


「え?」


――火で照らすか。

火で焼くか。


言葉の意味は、すぐには掴めなかった。

けれど、重さだけはわかる。


リオは無意識に背筋を伸ばした。

遠くで犬が吠え、どこかの家の戸が閉まる音がする。

夜が揺れた気がした。


「僕は……照らしたい」


胸の奥で、はっきり言葉になる。

焔が、嬉しそうに踊った。


――なら、強くなろう。


「うん」


――でも、今夜はここまで。


「えっ」


焔がふっと小さくなり、米粒ほどに戻る。

いじわるではなく、約束を守るみたいな調子で。


アウラの声はやわらかい。

眠気に似たあたたかさが、瞼の裏まで届く。


――次は、朝。

――朝の光の下で、ちゃんと話そう。


「朝……」


村が動き出す時間。

人の目に触れる。


怖さが胸によぎる。

けれど、それを上回る期待が、喉元まで熱を押し上げた。


「わかった。朝、ここで」


焔は小さく肯いた。

金の粒がほどけ、風のない夜に、そっと消えていく。


残った温もりだけが、掌にかすかに残った。


彼は空を見上げた。

雲の薄い切れ間から、星が一つ、滲むように瞬いている。

胸の奥で、さっきの言葉がもう一度響いた。


選ぶことになる。

照らすか。

焼くか。


リオは掌を握った。

温もりが、まだそこにいる。


朝になったら、ちゃんと話そう。

どう生きるか。


どう守るか。

そのために何を学ぶか。


帰り道、畦道の泥が指の間にのめり込む。

冷たいのに、足取りは軽かった。


家に戻って布団に潜ると、窓の外がもう少しだけ明るい。

東の空が、針の先ほどに白む。


瞼を閉じる直前、リオは小さく呟いた。


「おやすみ、アウラ」


誰もいない部屋で、掌の奥があたたかく笑った気がした。


――そして朝が来る。

それが、世界を変える約束の朝になることを、今はまだ知らない。

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