涅槃より孵る

絶山蝶子

セックスしないと出れない部屋

その1

「セイコウせねば出れぬ部屋を知っているか?」



 静かな図書館の空気は時が止まったかのように重くほのかに古い紙の匂いが漂っている。


 残暑と呼ぶには強すぎる日差しが窓から差し込み、光を反射した埃が雪のように輝いていた。

 田舎の……平日の昼間とあって図書館内はがらんとしており、利用者は学校の制服に身を包んだ少年が二人きりだった。

 読書用に設置された4人がけの机に向かい合うように座り、それぞれ参考書と問題集の答案用紙を広げている。

 寝癖のように跳ねた栗色の髪で猿顔の少年は答案用紙を全て埋めており暇そうに鉛筆をくるくる回している。

 対して向かい側に座る黒髪で大きなツリ目の少年は3問目で筆が止まり分厚い参考書を手に必死に答えを得ようと短めの眉を潜めていた。


 黒髪の少年……――――村上朔也むらかみさくやは目の前の少年の言葉を理解出来ず小首をかしげる。

 ぱたんと参考書を閉じて机の上に置き、目線を頭上に泳がせながら考える。


 ”セイコウ”とはなんの事だろうか。


 ぱっと思い浮かんだのは「成功」である。

 何かを成し遂げなければ出れない部屋というのなら、今この瞬間が近しい状況だ。

 与えられた宿題が終わるまで朔也は図書館を出ることが出来ない。

 別に誰に強制されたわけでもない。

 閉園時間になったら問答無用で追い出されるだろう。

 家に帰りたいわけではない。

 むしろ、朔也は毎日学校が終わり家路につくのをいつも躊躇っている。

 あの息苦しい空間に足を運ぶのは気が滅入った。


 うーんと唸る朔也に猿顔の少年はわざとらしくため息を付いた。


 朔也は両親が死に兄が逮捕されて以来、狭く何も無い村で新たな家族とともに朔日村に移り住んみ、9月から村で唯一の学屋である「朔日第1小中学校」へ編入した。

 第一と銘打っているものの、朔日の名を関する学校は一つしか無い。

 バブル崩壊前には第3学校まであったそうだが、少子化と過疎化が平成中期に進み別々だった小学校と中学校が合体し現在の形となったという。

 小等部は十数名学年がバラバラの後輩がいたが、中等部には朔也を含め4人しか居ない。


 その内の一人が目の前の少年、日吉羽沼ひよしはぬまである。


 彼には少々変わった所があり、自身を土着神の眷属・『つごもり御使いひとでなし』と名乗る。

 その自己主張の通り年下とは思えぬほど老成した性格の持ち主で、話し方も古めかしく一人称に至っては「拙僧」である。中身もそのあり方に忠実で知識もまた豊富であり、勉強もこうして教わる次第である。

 朔也は彼とはまだ短い付き合いではあるがあまり冗談を言う方ではないのだろうと察していた。

 彼は人生の教えを説く仙人が如く偉そうな御託を並べる質で色ごとなど微塵も感じさせないほどであった。


 本来は一つ下に当たるが、分け合って去年からまる1年施設を転々と巡りながら放浪していた朔也とは同窓生になる。

 最も1個上の先輩である残りの女子生徒二人も同じ教室で授業を受けているので学年が違おうが同窓という形にはなるのだが。


 朔也は学校と女子生徒が苦手だった。

 残りの二人は明るさと優しさを絵に描いたような人物ではあるが、どうにも側にいると居心地の悪さを覚え必然的につるむようになったのは目の前の羽沼だった。


 言葉の意味を探る朔也に羽沼はくるくると回していた鉛筆を止めて宙に漢字を描きながら答える。


「セイコウだ、セ・イ・コ・ウ。性に交わる。男女が閨にてまぐわう行為、即ちセックスのことよ。」

「せっ……ッ」


 思わぬ単語に朔也は一瞬で耳まで湧いたように熱くなるのを感じた。

 一体何を言い出すのだろうか。


「セックスしないと出れない部屋を知っているのか、と拙僧は問うておるのだ。」


 もう一度、羽沼は朔也に問いかける。


 朔也は居心地が悪そうに視線を机の上の散らばった答案用紙に泳がせる。

 今まで同性の友達が出来たことがない。

 いや、「友達」と呼べる相手が存在したことがない。

 朔也にとって羽沼初めての友達なのである。


 ――――これは猥談なのだろうか。


 思わずキョロキョロと周囲に誰も居ないことを確かめる。

 利用者が誰も居ない手前、図書館内で声は小声であろうと良く響く。

 受付から死角になっているものの、ちょっとした雑談なら届く距離だ。

 平日の昼間からろくに自主弁もせず猥談に耽っている所を見られるのは恥ずかしかった。

 狭い村である。

 新参者はこれでもかと言わんばかりに周囲に監視されている。

 両親役の人達との会話や、廃人になった兄の背を拭きながら口ずさむ歌の歌詞まで近隣住民は良く聞いていた。


 熱を帯びた耳の裏側を爪で掻きながら朔也は「知ってるよ。」と答えた。


「えっちな……その、漫画でよくあるやつだろ?」

「おお、存知であったか。まあ、よわいを垣間見れば当然とも言えよう……ふむ。」

「兄貴の部屋にあったから……」


 今は部屋で動かぬ人形のようになってしまった、かつての兄の姿を思い出す。

 兄は洗濯物を脱ぎっぱなしにして片方だけ靴下を履き下着姿で部屋でくつろぐような随分とズボラな男ではあったが、本棚の整列だけは潔癖なほど完璧に拘っていた。

 隠し小棚の中には著者名がアイウエオ順に並んだエロ漫画がズラッと並んでおり、勝手に盗み出すと叱りはせど不在の折に黙って侵入して盗み見る分には黙認してくれていた。


 その中に羽沼の言う「セックスしないと出れない部屋」をモチーフに描いた本があった。

 両片思いの学生が閉じ込められて最初は反発しながらも時間が経ち腹が減り始め背に変えられなくなって一線を越え……――――最後は互いの想いを確認しあい相思相愛となって部屋を出る、そんな内容だったと思う。


「で、その部屋がどうしたって?読みたいの?兄貴の漫画だって今は殆ど残ってないけど……」

「それは実に興味深いものだが、此度の話はそれではないのだ。」

「じゃあ何?」


 朔也は参考書から手を話し背中を硬い木で出来た椅子に預ける。

 その様子を眺めながら羽沼は目を細め机の上に肘を付いた。



に、その。」



 そう言うと神妙な声色に反して羽沼はニッコリと満面の笑みを浮かべた。

 尖った八重歯をむき出しにしながら続ける。


「正確にはこの村だけにではなく、全国至る所にあったのだが……」

「実在していたのかよ、セックスしないと出れない部屋が?」

「うむ。」


 突拍子もない話だが無い話ではないのだろう、と朔也は一人納得をする。


 なぜなら、朔也はこの世成らざるものを目視する力を持っているからだ。


 ちらりと片隅に視線を向けると、容赦を知らない熱射が窓から照らす傍らで、額が3倍ほど長く伸びた中年の男が児童向けの絵本の棚を物色していた。

 真っ黒な口内からオレンジ色の液体を零し、蛸のようにうねうねと蠢く足で絵本をさすりながら赤子の声で笑う。

 その姿に言いようもない嫌悪感が湧き出る。

 思わず顔をしかめると、羽沼は「害はなかろう」と静かに零した。


 この村に来て同じものが視える人物に複数人出会って以来、朔也は視界に映る異形の群れが自分が視る幻覚ではなく実在する怪異である事を知った。



 羽沼が人差し指で机をトントンと朔也の注意を戻すよう促しながら先程の話を続ける。


「村を守護する宇摩志多智花津隠里比古神ウマシタチバナツゴモリヒコノカミの眷属……――――『つごもり御使いみつかい』の中に人の繁殖現場……つまり男女の性交を覗き見るのを嗜好とするものがおってな……」

「随分と悪趣味だなあ……」

「まあ、聞け。その『御使いひとでなし』は最初は己の社にて無作為に選んだ男女を番わせるのを好んでおったのだ。しかし古の世、今より争い事も絶えず数多くの集落が生まれては消えて行き『御使いひとでなし』の嗜好を満たす風習をその土地で続けることも困難となった。」

「それでまさかセックスしないと出れない部屋を作ったわけ?」

「その通り!」


 羽沼が机を叩くのをやめピンと朔也を指差した。

 視界の端で中年の霊が絨毯スペースで仰向けに寝転がりながら日光浴をしている。


「その部屋はちょっとした呪いをかけた。――――男女を閉じ込めると文字通り。出現せし場所も時間も無作為。男女二人で入れば中の時間は外界より切り離される。死ぬことも老いる事もままならぬ。内側からは決して性交せねば出れぬのだ。」


「凄いだろう?」と、羽沼は両手を広げると自慢げに誇る。

 朔也はその様子を訝しげに見つめ返す。


「それってえーっと、その、セックスの定義は?」

「定義、とは?」

「外に出るための鍵だよ。中出しだけがセックスじゃないだろ?ポリネシアンとか種類があるんだろ?いや俺は童貞だし言う程、詳しくないけどさ……」


 兄の漫画ではゴムなしの中出しセックスが鍵となっていた。

 童貞処女の二人が試行錯誤し、最小限に留めようとディープキスしようがパイズリしようがフェラチオしようが素股しようが鍵は開かなかった。


「ふむ……その定義で語るなら条件は一つだな……」


 羽沼は固く狭い椅子の上で器用に胡座をかくと再び机の上に肘をついた。

 にやりとあどけなさが残る猿顔で満面の笑みを浮かべ答える。


「――――懐妊だ。」


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