第2話 転移する札、沈黙の霊能
朝の白は、夜の黒より重い。
猟師・銀次の家の前に白布が掛けられ、軒の氷柱がそこに淡い光を返していた。雪灯りは何でもなく美しく、人の気配を隠すのに便利すぎる。誰もが黙ったまま通り過ぎ、手を合わせ、けれど“匿名”という仕組みの陰に身を沈めた。
供物盤の穴は、昨日から一つ減ったまま拝殿の中心に据わり、まるで冷たい肺のように空気を吸い込み、吐き出している。穴の縁は薄く赤く、朝日に濡れて黒ずんで見えた。
柊(ひいらぎ)はその穴を見つめながら、昨夜の「白」を喉に押し込めたまま立っていた。銀次は白だった。霊能の札が見せた色は、雪のように透明だった。
告げれば、初日の議論を整然と主導した教師――秋津(あきつ)――が疑われる。けれど同時に、「霊能が誰か」を明らかにする。札は毎夜転移する。今夜、自分が霊能である保証はどこにもない。今、名乗れば、次の夜に護衛が来ない限り、噛まれる。
柊は俯いた。心拍の振動が指先へ行き渡り、紙を持つ手が少し震えた。
午前の集会。拝殿に人が集まり、火鉢の炭が青く弾けた。
先に口を開いたのは秋津だった。穏やかで、よく通る声。
「昨夜、私に“占い”の札が来ました」
ざわ、と乾いた空気が揺れる。
秋津は、用意した言葉を置くように続けた。「見たのは、村の外れの旅芸人です。白。――ここで、霊能の札が誰かに来ているなら、昨日の供物、すなわち猟師が“白”であったことを証明していただけると助かります。村の信頼のために」
助かります、という柔らかな締め。柊は唇の内側を噛んだ。
罠だ。名乗れば標的になる。名乗らなければ、秋津の信用だけが自然な角度で跳ね上がる。どちらに転んでも、明日以降の議論は秋津の手の中だ。
視線が柊に集まったのが分かった。紅葉(もみじ)が一歩、身体を傾け、目線で問いかける。彼女は村の看護師で、働く手はいつも温かい。「大丈夫?」と目だけで訊く人だった。
柊は首を振らない。頷きもしない。ただ目を伏せ、呼吸を整えた。黙る。
沈黙は、嘘に数えられるのだろうか――そんな問いが、胸の奥のどこかで冷たくきしんだ。
「霊能はいない、という理解でいいかな」
秋津が結論を急がず、確認の形にしたのが、さらに巧妙だった。
篝(かがり)――宮司の孫――が、盤の前に膝をついて縁を指先で撫でた。彼は昨夜からずっと、穴の表面の変化を見ている。
「穴が減るのは“嘘”の数……かもしれない」
篝は小さく呟くように言った。「昨日、昼の議論で大きな嘘がひとつ、夜の儀式でひとつ、計二つ。だけど穴は一つしか減っていない。計上の仕方が違うんじゃないか」
「大きな嘘、とは?」秋津が穏やかに問う。
篝は言い澱んだ。「……占い“二人”のどちらか、または両方。あるいは、沈黙」
沈黙。その言葉が、燠火(おきび)のように柊の足元で赤く光る。
柊は、秋津の顔を見た。整っている。感情の角が削られ、言葉は磨かれて、耳の奥にすっと入ってくる。あまりに美しい流線は、指で掴もうにも滑り落ちる。
――嘘として計上されない。
柊は震える呼気の中で、その可能性をひとつ置いた。神の側に“美の偏り”があるなら、整った物語は嘘でも嘘として数えられないのかもしれない。盤は、見目のいい嘘に甘い。
昼は短い。雪の村では、昼のうちにやれることは限られている。
旅芸人は拝殿の隅に腰を下ろし、指先で壊れかけの弦をいじっていた。若い男で、村には流れ流れてきたばかりだ。名前は正確には誰も覚えていない。いつも笑っていたが、今日は笑っていない。
「俺は、ただ渡り歩いてきただけで」
そう言う声は弱かった。弱い声は、時に“消去法”で選ばれる。
秋津は旅芸人に「あなたは村のことをどれくらい知っていますか」と訊き、旅芸人は「ほとんど」と答え、秋津は「ならば判断は難しいでしょう」と優しく言った。その優しさが、逆に彼を一歩、供物の側へ押し出す。
紅葉が、柊の袖を指でつまんだ。
「顔色、悪い。水、飲んで」
柊はぎこちなく頷き、杯を受け取った。
紅葉は小声で言う。「昨夜、何か見た?」
柊は目を伏せたまま、曖昧に「眠れなかっただけ」と言った。
紅葉はそれ以上、追わなかった。その代わり、少し間を置いてから続けた。「今夜、私、巡回で何軒か回る。手袋の中に白い布を入れて、触れた人の体温を記録する。熱がある人、手の震えが強い人は、夜に動きがちだから」
看護師の言葉は、嘘を減らすための具体だった。
柊は、胸の奥で、ひとつ“護りたい”という熱を覚えた。
午後。小石の用意が整い、匿名投票が近づく。
誰もが、できるだけ誰の目にもとまらないように、供物盤へ歩いていく。白い石が穴へ落ちる音は淡々として、情のない雨だ。
柊は石を握りながら、耳で数を取る。落ちる間隔、靴のキシみ、息の乱れ――それらが混ざって、一つの“合奏”になる。合奏の主旋律は、やはり旅芸人の方へ向いていた。
秋津の声が、最後に静かな総括を置いた。「村にとって最も負担の少ない判断を」
美しい言葉だ。だが、その一行に含まれている“誰の負担が軽いのか”という偏りは、ほとんど目に見えない膜のようで、触れようとすると音もなく裂けてしまう。
投票は終わり、夜の準備に移る。
柊は家に戻ると、布団の縁に腰を下ろし、枕元を見た。
札は――そこにあった。
昨夜と同じ場所に、同じ木肌。けれど、文字は違う。
――護。
息が一瞬、止まった。
護衛。夜、一人を守る。
柊は札を両手で包み、耳の熱がすっと引くのを感じた。身体のどこかで、何かのギアが噛み合う。
誰を、守る。
秋津ではない。秋津は、仮に狙われるとしても、狼が“今夜”には噛まない。彼はまだ、村の舵を握って役目を果たしている。噛めば、狼は自ら浮く。
紅葉――看護師は夜に歩く。人に触れ、温度を測り、息を聞く。情報の交通量が高い。その“交通”を断ちたい者がいるなら、狙いはそこだ。
柊は決めた。「紅葉を守る」
夜は、いつもより長い。
拝殿の見張りは交代制。犬は三匹、三方に繋がれ、唸りの位相で境内への侵入を測る。風は東から西へ弱く移り、屋根の雪が時折、板の上で滑った。
柊は紅葉の家の前に立ち、藁束を編んだ結界を戸の前に横たえた。藁は乾いているが、その中には、篝から借りた小さな榊の枝が一本、差し込まれている。
「やめときなよ、そんな迷信」
戸の内側から紅葉が囁く。
「迷信でいい。足を引っかけて転んでくれれば、それで」
やわらかい笑い声。「じゃあ、転ばないように気をつけて入ってくるね」
「入ってこないで」
「冗談」
戸越しの会話は、呼気の温度をやりとりするみたいで、柊の中の緊張を少しだけ薄くした。
夜半。
獣の影が走った。
それは獣の形をしていたが、獣にはない“ためらい”があった。雪の上に一度、足を置き、戻し、別の場所に置く。嗅ぎ、考え、さぐる。
柊は護衛の札を握りしめ、息を殺した。戸の前、藁束の直前で影が止まる。沈黙が、耳の中で痛い。
犬が低く唸った。ひとつ、ふたつ。間を置いて、もうひとつ。
影は、藁束の手前に膝をついた――ように見えた。息が、雪に落ちる。
柊は気づいた。影が藁束の上に“何かを置いた”。薄い、紙のような、札のような。
次の瞬間、影は背を向け、雪を蹴って消えた。
柊は戸を叩かず、雪の上に膝をつき、藁束の上を探った。
そこに――札が、一枚、置かれていた。
――空。
柊は歯を噛み、札を袖の中に押し込んだ。誰かが、護衛の結界の前に“空”を置いていった。嘘か、挑発か、それとも、神への“供物”の代わりに空虚を差し出す儀礼なのか。
犬の唸りはやみ、風がまた、雪の粉を運んだ。
夜明け。
村に、無犠牲の朝が来た。
誰も死んでいない。
それは、村にとって久しぶりの“良いニュース”であるはずだった。けれど人々の顔には、安堵と同じくらい濃い、不安が浮かんでいる。
拝殿に集まると、最初に息を呑んだのは篝だった。
供物盤の穴が、もうひとつ減っている。
「……減ってる」
誰かが言い、誰かが「でも、誰も死んでない」と言い、秋津が盤の縁を覗き込み、紅葉が柊を見た。
柊は息を整えた。護衛が成功した。その結果として、穴が減った。
「守護成功は、嘘の一つ分」
柊は、そう仮説を置いた。
狼の側から見れば、“殺した”という既成事実のために嘘を用意する夜だった。それが破れ、朝、村は“無犠牲”という現実に立つ。夜に生まれるはずだった嘘が、朝の光で否定される。ならば盤は、夜の嘘の“予定”を先に喰らうのかもしれない。
――あるいは。
昨夜、藁束の上に置かれた“空”の札。
あれが“嘘”だったなら。誰かが神に、「何もない」という嘘を供えたなら。盤はそれを喰って穴を減らしたのか。
「霊能は、今日もいないのかな」
秋津の声は、やさしく、しかし、背中を押す力を帯びている。
柊は紅葉と視線を結び、すぐに外した。
「待って」
篝が手を上げた。「昨夜、犬の唸りを紙に記録した。三匹の位相、風向き、雪の音。これを見てほしい」
篝は紙を拡げ、唸りのタイムラインを指で追った。
「この時間帯、北の犬が短く一回、西の犬が遅れて一回、次に東の犬が二回。拝殿の周りを、何かが“避けて”動いている。足は二つ。人の、足」
「二人、ということかね」秋津が訊く。
「たぶん。で、ここ。南の犬が吠えて、すぐ静まった。誰かが“何か”を置いた音がした」
柊は袖の中の“空”の札の存在を、皮膚で感じながら、静かに息を吐いた。
紅葉が小さな声で言う。「私の戸の前、藁束に、何か、あったの?」
柊は首を横に振らない。縦にも振らない。沈黙の形は、昨夜のそれと同じだった。
「藁束の結界は、効果があった」柊は、ようやく言葉を選んだ。「転ばなかったけど、足を上げた。ためらった。……それで十分」
紅葉は目を細め、わずかに微笑んだ。頬の血色が戻り、彼女の両手はいつもの温度に見えた。
議論は、新しい方向に傾いた。
・守護成功は、穴を一つ減らすのか。
・“空”の札は、誰が、なぜ、どこへ。
・旅芸人を供物に押し出した空気は、正しかったのか。
・霊能は、いるのかいないのか。
柊は、紙にそれを写し、線で結び、昨日からの変化をなぞった。
秋津の弁は、やはり整っている。が、今朝は一瞬、言葉が探りを入れるように遅れた時間があった。彼は盤の穴が減った理由を、即座に言語化しなかった。それは、彼が“予定にない現象”に遭遇した証だ。
予定にない現象。
予定。それが、秋津の最も強い武器だった。予定通りに言葉を置き、予定通りに人を動かし、予定通りに村を“救う”。その予定の枠外で起きたことに対して、彼は“やさしさ”という予備の言葉で包み込む。
柊は、その包み紙の厚さを測ろうとしている自分に気づいた。
「旅芸人の扱いを、もう一度検討したい」
柊は言った。「昨日、“負担の少ない判断”で選ばれそうになった。でも、無犠牲の朝を迎えた。穴は減った。なら、供物の重しを軽いところにかける必要はあるのか」
「供物は、神の機嫌を取るものだよ」誰かが言った。
「神は機嫌で動くんじゃない。嘘で動く。――と仮定するなら、嘘を減らす方法を優先すべきだ。旅芸人は“情報が少ない”という理由で吊るされかけている。情報が少ないこと自体は、嘘ではない」
秋津が、柊の方へ顔を向けた。初めて、真正面から。
「では、誰を供物に?」
「今日は、誰でもない」
「また、規(のり)を外れるのか」
「規が嘘を増やすなら、外れる価値がある。盤は、守護成功で穴を減らした。“吊り”以外の方法でも、穴は減る。なら、急いで命を落とす必要はない」
秋津は唇の片端を、ほんの少し持ち上げた。「神への無礼は、いつか返ってくる」
「返ってくるなら、その“いつか”をこちらで指定したい。指定できるだけの精度で、嘘を数える」
嘘を数える。
口に出すと、言葉の輪郭が、昨日よりもはっきりしていた。
会議は長引いた。
篝が紙を配り、各自に、昨夜の行動を“時刻”と“方角”で書かせる。仮に嘘をつく者がいれば、その嘘は数直線の上に傷をつける。傷の位置と深さは、他の人の線と重ねるほど際立つ。
紅葉は巡回の記録を出した。誰の家に何分いたか、触れた手袋の布に吸われた温度がどれくらいだったか。彼女の字は小さく、やわらかいが、数字は正確だった。
旅芸人も、自分の行動を書いた。「小屋の隅で弦を張り直していた。誰とも話していない。時間はよく分からない」
“よく分からない”――それは、嘘ではないが、嘘を宿しやすい器だった。
夕刻が近づいたころ、決めたのは、またしてもぎりぎりの妥協だった。
今日の供物は――行わない。
代わりに、夜の見張りを厚くする。犬は三匹から四匹に増やし、場所も入れ替える。秋津の家の近くに一匹、紅葉の家から少し離れたところに一匹。霊能を名乗る者がいない以上、夜の記録を増やすことで“嘘の生成”を遅らせる。
秋津は最後に、目を細めた。「君の方法は、村の時間を長くする」
「長くしたい」
「長くすれば、心も、粗も、ほつれる」
「ほつれが、嘘の糸口になる」
それは論争のようでいて、どこか舞の合わせのようでもあった。踏み込みと引き、視線と視線。美しさと不格好さが、互いの周りで渦を巻く。
夜。
柊は再び、紅葉の家の前に立った。藁束はそのままに、榊の位置だけ少しずらす。昨日と違う“記号”を作るために。
「今日は入らないでね」
「入らない」
「……ありがとう」
「こちらこそ」
短いやりとりのあと、柊は拝殿への通り道に薄い紐を渡し、鈴を二つ結わえた。風で鳴るほど軽くはない。人が触れたときだけ鳴る重さだ。
犬は、昨日より落ち着いている。四匹になった唸りの重なりは、合唱というより四声の対位法に近い。それぞれが違う旋律を歌い、時に交わり、時に離れる。
雪の音は小さく、空は厚い。
やがて、北の犬が低く一回。西の犬が遅れて一回。東は黙ったまま。南の犬が二回。
柊は、息を止めた。昨夜と似ている。似ているが、東が黙っている。
――東に、足がない。
足は三。昨夜より一つ、多い。
鈴が鳴った。
小さく、一回。
紅葉の戸ではない。拝殿へ続く細道。
柊は藁束の位置を一歩だけ蹴ってずらし、戸に背を当て、札を握りしめた。
護衛の札は、薄い木の板なのに、掌の中で熱を持っていた。熱は、皮膚を通って、骨にまで届く。
誰かが、拝殿へ何かを運ぶ。
“空”か、“嘘”か、それとも、別の“札”か。
夜は、音だけで満ちている。
柊は、息の長さに自分の鼓動を合わせ、来るべき朝の言葉を選び直し続けた。
そして、朝。
また、誰も死んでいなかった。
供物盤の穴は――さらに、ひとつ減っていた。
雪は、なお白く、なお重く、なお静かに降っている。
柊は、盤の前に立ち、昨夜の記録を紙に移した。
「守護成功は、嘘一つ分」
紙の上に、その仮説の文字を置く。
「もしくは、“空”を供した嘘が、一つ分」
どちらにしても、盤は“吊り”以外の要因で減る。
ならば、急いで命を差し出す必要はない。
その結論だけは、昨日よりも確かだった。
秋津が近づき、柊の書いた仮説を覗き込んだ。
「面白いね。神が“予定”ではなく“帳簿”で動くという仮定は」
「神の帳簿に、整った嘘はどう記載される?」
「さあ。きみが、今夜、また守って、明日も穴が減ると証明してみせたら、私は“整った嘘”を書くことにするよ」
挑発にもやさしさが混じる。
柊は応えなかった。
紅葉が、紙束を抱え、こちらへ歩いてくる。
「体温の記録、まとめたよ。あと、手の震え。微熱が二人、強い震えが一人」
「一人?」
「旅芸人。寒がってるだけかもしれないけど、筆圧が急に強くなる瞬間がある。怖いときの字だよ」
柊は頷き、紙を受け取った。
旅芸人の線は、昨日よりも太っていた。太った線は、消しにくい。
“消さない”ことが、嘘を減らす第一歩なのだと、柊は思った。
雪はやまない。
でも、やまない雪の下で、言葉は少しだけ熱を帯びた。
柊は札を袖にしまい、供物盤の穴をもう一度、数えた。
――九。
まだ遠い。けれど、遅らせられる。
遅らせるあいだに、嘘を数え、整いすぎた物語の外側に指をかける。
沈黙は、もう武器にはならない。
沈黙の霊能は、今日でおしまいだ。
次の夜は、言葉で護る。
雪灯りは、相変わらずきれいだった。
きれいなものを、きれいなまま、嘘にしないために。
柊は、朝の冷たい空気を肺の底まで吸い込み、吐いた。
吐いた白が、すぐにほどけて消えるのを、目で追った。
消えるものを、消える前に数える――それが、彼にできる唯一の術だと信じて。
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