悪夢
窓の外から鳥の囀りが聞こえた。
朝の柔らかな陽光が、カーテンの隙間から差し込み、室内を仄かに照らす。
ユグリットは、重たい瞼をゆっくりと開けた。
しかし、意識が覚醒するよりも先に、悪夢の余韻が襲いかかる。
(……アラゴス……)
頭の奥に焼き付いた、怨念の声。
赤い天蓋の寝台、冷たい指先、支配の囁き——
一瞬、息が詰まり、指先が僅かに震えた。
しかし、すぐに自分はユグリットだと自覚し、深く息を吐く。
身を起こすと、隣でラーレがすやすやと寝息を立てていた。
新緑の瞳は閉じられ、無防備な表情を浮かべている。
(……よく眠れるな。)
ユグリットは、少しだけ苦笑した。
昨夜の出来事はラーレにとっても衝撃的だったはずだ。
それでも、彼は達観したように眠りについた。
一方のユグリットは、心のざわめきが収まらない。
夢の中でアラゴスに囚われたルキウスとしての感覚が、まだ生々しく残っていた。
そのせいか、体が重く感じる。
「ユグリット、もう目覚めましたか?」
優しい声が耳に届いた。
振り向くと、そこにはニルファールの姿があった。
彼は、端正な顔立ちに穏やかな表情を浮かべていたが、スミレ色の瞳はどこか不安げに揺れていた。
「……ええ。」
ユグリットは静かに答える。
ニルファールは、昨夜ユグリットがひどく魘されていたことを覚えている。
だからこそ、今朝も彼の様子をじっと窺っていたのだろう。
「……あまり眠れませんでしたね?」
「……少し。」
曖昧に答えるユグリットだったが、ニルファールはすぐに気づく。
彼の表情に、悪夢の影が残っていることを。
ニルファールはそっと近づき、ユグリットの紅い髪に指を通すように撫でた。
まるで、彼の不安を拭い去るように。
「あなたは、もう囚われてはいません。」
穏やかな声が、ユグリットの胸に沁みる。
「……わかっています。」
「ええ。でも、心がそう簡単に割り切れるわけではないでしょう。」
ニルファールは小さく微笑み、
「少しずつでいいのです。昨夜のことは、ただの夢……過去の記憶の残滓です。」
と、静かに言葉を紡ぐ。
ユグリットは瞳を伏せ、ゆっくりと息を吐いた。
少しだけ、心が軽くなった気がする。
「……ありがとう。」
小さな声で礼を言うと、ニルファールは満足げに頷いた。
その時——
ラーレが大きく伸びをしながら、ようやく目を覚ました。
新緑の瞳が眠たげに瞬き、寝ぼけたようにユグリットとニルファールを交互に見つめる。
ラーレは少し目を細めると、じっとユグリットの顔を見つめた。
そして——
「……ユグリット、顔色が悪い。」
ユグリットは一瞬、言葉を詰まらせた。
「……何かあったのか?」
「……いや。」
ユグリットがそっけなく返すと、ラーレは不満げに頬を膨らませた。
「……昨夜、少し魘されただけです。」
ニルファールがそう言うと、ラーレの表情が一瞬曇る。
「悪い夢……?」
ユグリットは答えずに視線を逸らした。
——それだけで、ラーレは察したのだろう。
「……アラゴスか。」
ラーレの声が、僅かに硬くなる。
ユグリットは頷きもせず、ただ静かに目を伏せた。
「……うん、まぁ、アラゴスなら、ユグリットを狙いそうだ。」
ラーレは頬をかきながら、少しだけ苦笑する。
「僕よりも、ユグリットの方が大人しいし、感情を抑えるから……そういうのって、狙われやすいんだよね。」
「……それはどういう理屈だ。」
「ほら、怨霊とかって、怖がってる人の方に引き寄せられるっていうじゃないか?」
「私は別に、恐怖していたわけではない。」
「でも、心が乱れていたのは確かだろ?」
ユグリットは何も言えなかった。
——確かに、あの悪夢の中で、アラゴスに支配される恐怖は確かに感じた。
それをラーレは無意識に見抜いている。
ラーレは寝台の上に体を預けながら、小さく溜め息をついた。
「……でも、夢は夢だ。あまり気にしない方がいい。」
そう言いながら、再び寝台に転がる。
「僕はもう少し寝るよ……謹慎中で時間はたっぷりあるし。」
そう呟くと、ラーレは毛布を引き寄せ、再び目を閉じた。
ユグリットは彼の寝顔を見つめながら、静かに瞳を伏せる。
(……気にしない方がいい、か。)
確かに、アラゴスの影に囚われるのは自分だけかもしれない。
だが、それは本当に「ルキウスの記憶」に引きずられているせいなのか。
それとも——
(私自身が、アラゴスの影を強く意識しているからなのか……。)
ぼんやりとした思考のまま、ユグリットは窓の外へ視線を向ける。
外では朝陽が昇り、王宮の庭に光を落としていた。
それなのに、胸の奥には重く沈む影が残ったままだった。
——それは、夜になればまた現れるのかもしれない。
不安の種が、静かに胸の奥へ根を張り始めていた。
そして、それは現実になった。
ユグリットは、悪夢に囚われるようになった。
それは単なる夢ではない。
500年の時を超えた執念が、繰り返し見せるルキウスの記憶だった——。
最初の夜はまだ、夢だと割り切ることができた。
だが、毎夜続く悪夢の中で、ユグリットは次第に「ルキウス」としての自分を自覚し始める。
記憶が侵食するたびに、現実と夢の境界が曖昧になっていく。
──寝所へ連れ込まれる。
重厚な扉が閉ざされ、退路を断たれる。
冷たい指が肌をなぞり、燃えるような瞳が支配を誇示する。
「お前は、私のものだ」
囁く声に、身体が強張る。
拒めば拒むほど、アラゴスの腕はより強くユグリット(ルキウス)を捕らえた。
──そして、目覚める。
息を荒げ、冷や汗をかいたまま寝台の上で起き上がる。
だが、それが夢だったことに安堵する間もなく、次の夜も同じ悪夢が繰り返される。
何度も見せられる内、夢は次第に変質していった。
最初はルキウスの記憶だったはずが、次第にユグリット自身の意識が介在するようになる。
ある夜、ユグリットは気づいた。
夢の中で、アラゴスが名を呼ぶ時——
「ルキウス……」
その声が、次第に変わっていく。
最初は懐かしさを孕んだ低い声だった。
だが、ある夜から、アラゴスの瞳がより鋭くなり、より確信を持ったものに変わる。
「ルキウス……いや、ユグリット」
その瞬間、夢が現実に侵食してくる感覚を覚えた。
アラゴスの怨念は、単にルキウスを求めていたわけではない。
ユグリット自身を、標的として認識し始めたのだ。
夢と現実の境界が曖昧になり始める。
目を閉じるたびに、耳元に囁くアラゴスの声。
「眠るのか……ユグリット?」
「ならば、また私のもとへ還ってこい……」
「お前は……私を拒めない」
眠ればまた、捕らわれる。
意識を手放せば、ルキウスとしての記憶に引きずり込まれ、アラゴスの影が深く覆いかぶさる。
その恐怖が、ユグリットを眠りから遠ざけた。
——だが、人は眠らずには生きられない。
日が経つにつれ、ユグリットの顔色は悪くなり、目の下には青黒い影が滲む。
常に薄い眠気に襲われ、意識が朦朧とすることも増えた。
そして、気を抜いた瞬間——
ほんの一瞬、目を閉じたその隙に、アラゴスの声が脳裏に響く。
「よく眠れ……ルキウス」
弾かれたように目を開く。
だが、それは現実の声ではない。
夢と現実の境界が曖昧になり、目を覚ましているはずなのに、アラゴスの影がなおも追いかけてくる。
「……ユグリット?」
心配そうに覗き込むラーレの声が、遠くに聞こえる。
ユグリットはゆっくりと顔を上げるが、視界の端で、アラゴスの赤い瞳が一瞬だけ浮かんだ気がした。
——まるで、起きている間でさえ、悪夢が追ってきているかのように。
ユグリットの異変に最初に気づいたのは、ニルファールだった。
「……あなた、寝ていませんね?」
ある夜、ユグリットが眠る気配を見せず、ただ虚空を見つめていたとき、ニルファールはそっと声をかけた。
ユグリットは答えなかった。
代わりに、微かに唇を噛みしめる。
「……眠るのが、怖いんだ」
その声には、明確な疲労が滲んでいた。
アラゴスの影に囚われ、繰り返し夢の中で支配される。
目覚めた時には汗に濡れ、指は震えている。
「……ユグリット」
ニルファールは、そっとユグリットを抱き寄せた。
「あなたは、ルキウスではない」
「アラゴスはもういない。あなたが眠ることを、私は許しましょう……」
スミレ色の瞳が、静かにユグリットを包み込む。
その温もりが、悪夢の冷たさを打ち消すように、ユグリットの肩を優しく撫でた。
ユグリットは、瞼を伏せる。
(……眠れるだろうか?)
閉じた瞼の奥に、またアラゴスの影がちらつく。
「……私から、逃げられると思うな」
耳元に残る囁きに、体が強張る。
だが——
「ユグリット、安心してください」
ニルファールの声が、優しく包み込んだ。
彼はそっと、ユグリットの額を撫でながら、静かに呪文を唱える。
柔らかな光が、ユグリットの額からゆっくりと広がる。
「この加護が、あなたを守ります。
今夜は……悪夢を見ることなく、安らかに眠れるでしょう。」
その声に、ユグリットは深く息を吐いた。
──そして、初めて。
悪夢に囚われることなく、静かに眠りへと沈んでいった。
久しぶりの安眠
目を閉じる。
今夜は、影が忍び寄らない。
闇の中、アラゴスの囁きも、気配も、何も感じない。
ただ、静寂だけが広がる。
久々に、何も見ず、何も感じることのない、深い眠り。
まるで長い間迷い込んでいた悪夢の森から、ようやく解放されたかのようだった。
──そして、夜明け前。
ユグリットがゆっくりと目を開けた時、隣にはまだ眠るニルファールの姿があった。
穏やかに閉じられた瞳、静かな寝息。
心の奥に、じんわりと温かいものが広がる。
「……ありがとう……」
ユグリットは、そっと目を閉じる。
もう一度、穏やかな眠りへと沈むために。
柔らかな朝陽が窓から差し込み、薄いカーテン越しに部屋を優しく照らしていた。
鳥の囀りが遠くから聞こえ、静かな宮廷の朝が始まる。
ユグリットは、ゆっくりと瞼を開いた。
深く息を吸い込むと、久しぶりに心地よい空気が肺を満たす。
——悪夢は、見なかった。
それだけで、まるで霧が晴れたような気分だった。
昨夜、ニルファールの施した加護が、彼を守ってくれたのだろう。
いつもなら目覚めと共に感じる重苦しさや、悪夢の余韻は一切なかった。
(……こんなにも、すっきりと目覚めるのは、いつ以来だろう。)
静かに寝台の上で身を起こすと、隣でラーレが横になっているのが目に入った。
彼の新緑の瞳は既に開かれており、じっとユグリットを見つめている。
「……おはよう、ユグリット。」
ラーレは、いつになく真剣な表情だった。
しかし次の瞬間、彼はぱっと表情を崩し、安堵したように微笑んだ。
「……良かった。」
「何が?」
「顔色が、昨日までとは全然違うから。」
ラーレは寝台の上で身を起こし、大きく伸びをしながら言った。
「気にするなとは言ったけど、ずっと心配してたんだよ、僕。」
その言葉に、ユグリットは目を伏せる。
確かにここ数日、ラーレは何度も心配そうに声をかけてきていた。
だが、ユグリット自身がそれに気づいていながら、素直に応えられなかったのも事実だった。
「……心配をかけたな。」
ぽつりと呟くと、ラーレはふっと微笑んだ。
「別にいいさ。でも、もう大丈夫そうか?」
「ああ、今朝は、すっきりと目覚めた。」
「なら、よかった!」
ラーレは勢いよく寝台から飛び起き、陽気な様子で肩を回す。
「謹慎も今日で終わりだし、やっと自由に動けるぞ!」
ユグリットは微笑とも苦笑ともつかない表情を浮かべた。
昨夜までは、悪夢に囚われていたせいで、謹慎のことなど考える余裕すらなかった。
だが、こうして目覚めると、ようやく「日常が戻った」ことを実感する。
「ユグリットも今日は、少しのんびりしなよ。」
ラーレが言う。
「ここ数日、まるで幽霊みたいな顔してたんだから。」
「……誰が幽霊だ。」
「はは、冗談冗談。」
ラーレは楽しげに笑いながら、寝台から降りて身支度を始めた。
その軽やかな仕草を見ていると、ユグリットの胸に静かに温かいものが広がっていく。
彼は、もう一度深く息を吐いた。
昨夜まで感じていた不安や恐れは、もうどこにもない。
(——ようやく、夜を乗り越えられた。)
窓の外は、澄み切った青空が広がっている。
陽光が優しく降り注ぎ、まるで新しい始まりを告げるかのようだった。
——爽やかな朝が、訪れていた。
王宮の回廊に、軽やかな足音が響いた。
弾むような声とともに、コーネリアが嬉しそうに駆け寄ってくる。
「ユグリット!ラーレ!」
彼女の林檎のような赤い髪が朝の光を受けてきらめく。
ユグリットとラーレは立ち止まり、コーネリアを迎えた。
「久しぶりね!」
笑顔いっぱいのコーネリアの様子に、ラーレが楽しげに口元を緩める。
「王叔父様から謹慎が解けたって聞いたから、すぐにでも会いに来たのよ。」
「まるで、僕達が幽閉されてたみたいな言い方だね。」
「実際、そうでしょう?」
コーネリアはくすくすと笑いながら、少しだけ眉をひそめる。
「全く……許可もなく宝物庫に入るなんて、二人とも無茶をするのね。」
少し呆れたように言いながらも、その口調にはどこか温かさがある。
ユグリットは視線を逸らし、ラーレは苦笑しながら頬をかいた。
「まあ、そう言われるとは思ってた。」
「怒ってる?」
「ええ、当然よ。」
コーネリアは少しだけ肩をすくめた後、急にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「……私も誘ってくれたらよかったのに!」
「……は?」
ユグリットとラーレは同時に目を瞬かせた。
ラーレに至っては、「まさかそんなことを言うとは……」という表情でコーネリアを見つめている。
「ちょっと待って、コーネリア。僕達、王宮の宝物庫に忍び込んだんだぞ?」
「真夜中に秘密の宝物庫だなんて!冒険みたいでとってもわくわくするわ!」
「いや、それは……」
「お転婆にも程がある……」
コーネリアは二人の反応を見て、楽しげに微笑んだ。
彼女の中では、二人の謹慎が解けたこと、それだけで十分に嬉しかったのだ。
——だが、ふとコーネリアの視線がユグリットの肩に乗っている小鳥に留まった。
黄金色に輝く羽根、澄んだ瞳。
彼の肩の上で静かに佇むその姿を見た瞬間——
コーネリアの脳裏に、一つの記憶が蘇った。
——あの日、中庭で。
コーネリアの指にゆったりと羽を休めていた小鳥が、突然怯えたように飛び立ったこと。
(……あの時……。)
あの時から、どこか不安が胸にあった。
それ以来、ずっと心配していた。
だが、ユグリットとラーレの謹慎が続いていた間、彼の姿を見ることができなかった。
——何かあったのではないか?
——王宮の外まで飛び立って野生動物に傷つけられてはいないか?
そんな不安が、コーネリアの胸の奥にずっとあった。
「……ずっと、あなたを心配していたのよ、ニルファール。」
ぽつりと呟いたコーネリアの声が震える。
その時——
黄金の小鳥が、ふわりと飛び立ち、コーネリアの肩へと降り立った。
「……!」
コーネリアは思わず息をのむ。
肩に感じる、小さくも温かな重み。
そして——
頬に、そっと擦り寄る小さな嘴。
まるで「大丈夫だよ」と伝えるかのように、黄金の小鳥は彼女の頬を優しく撫でた。
「……ニルファール……」
コーネリアはそっと目を閉じ、微笑む。
「あなたとっても優しいのね…」
ユグリットとラーレは、その光景を静かに見守っていた。
平穏が戻ってきた ことを、実感しながら——。
コーネリアは、小鳥を撫でながら、ぱっと顔を上げた。
「……ねえ、せっかくだからお茶会をしましょうよ!」
「お茶会?」
「ええ、謹慎も解けたし、お祝いも兼ねて。久しぶりにのんびりしない?」
コーネリアの提案に、ラーレはすぐに笑顔で頷いた。
「いいな、それ! ずっとパンとチーズだったから味気なくて…美味しいものいっぱい食べたい!」
「……お前は食べることが好きだな。」
ユグリットは呆れながらも、どこか穏やかな表情を浮かべた。
「では、準備をお願いするわね。」
コーネリアが振り返ると、いつの間にか傍にいた侍女のアイーシャが、静かに一礼した。
「かしこまりました。」
アイーシャの的確な指示によって、あっという間に王宮の庭園に華やかな茶会の席が整えられた。
銀製のティーポットから立ち上る香り高い蒸気、色とりどりの焼き菓子。
テーブルには、白と金の繊細なティーセットが並べられ、穏やかな風がそれを優しく撫でていた。
「冷めないうちに召し上がれ。」
コーネリアが微笑みながらティーカップを差し出す。
ラーレは嬉しそうに手を伸ばし、ユグリットもそれを受け取った。
小鳥のニルファールは、コーネリアの肩の上で目を細めるように羽を震わせている。
まるで、このひとときを楽しんでいるかのように。
——ようやく、心から安らげる時間が訪れた。
青空の下、三人は久々に笑い合いながら、穏やかなひとときを過ごした。
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