剣-前編

 夜の王宮は静寂に包まれていた。

青白い月の光が石畳を照らし、風が回廊を駆け抜ける。


ユグリット、ラーレ、ニルファールの三人は、慎重に足音を忍ばせながら王宮の奥深くへと向かっていた。


「……本当に、ここにアラゴスの剣が?」

 ラーレが小声で問いかける。


「ええ……間違いありません」

ニルファールのスミレ色の瞳が不安げに揺れる。


王宮の最も厳重に守られた場所——それが宝物庫だった。

 ここには歴代の王が遺した武具や財宝が封印されており、限られた者しか立ち入ることが許されない。


長い廊下の先に、重厚な扉がそびえ立っていた。

銀細工の装飾が施された扉の中央には、カトゥス王国の王族の紋章が彫られている。

ユグリットとラーレは静かに扉の前に立ち、手をかざした。


「……開け」


ユグリットが呟くと、扉の紋章が淡い光を放つ。

王族の血を持つ者のみが開けられる封印。

だが——


「……っ」

光が不安定に揺らぎ、封印が脆く崩れ始めた。


「……これは……?」

ラーレが目を見開く。


封印が、既に弱まっている。

まるで何者かの手によって、徐々に解かれているかのように——


「急ぎましょう」

ニルファールの声が緊張を孕む。


ユグリットとラーレは頷き、そっと扉を押し開いた。


中に足を踏み入れた瞬間、空気が一変した。

まるで生き物のように揺らめく冷たい風が、肌を刺す。


長い石造りの廊下の先には、幾つもの宝箱や武具が整然と並んでいる。

その奥に——異質な気配があった。


ラーレが呟く。

「……アラゴスの剣」


その場所には、一振りの剣が鎮座していた。

黒銀の鞘に収められた長剣。

美しく荘厳な作りのはずなのに、そこから発せられる気配は、禍々しく歪んでいる。


ユグリットとラーレが剣へと近づく。


次の瞬間——


「……ルキウス……ようやく見つけた……」


低く、絡みつくような囁きが空間に響いた。

まるで500年もの時を経てもなお消えぬ怨念の声。


視界が暗転し、意識が引きずり込まれる——


ユグリットとラーレが目を開けると、そこは見覚えのある場所だった。

壮麗な大理石の柱、燃えるように赤い絨毯、優雅な調度品——

カトゥス王宮の広間。


(これは……まさか、ルキウスの記憶の中……?)

ユグリットが辺りを見回すと、自分の装いがいつもの王子の衣ではないことに気づく。

赤紫を基調とした宮廷衣、刺繍の施された細やかな布地、柔らかなベルト。

まさしく、ルキウスが身に纏っていた王族の衣装。


ラーレもまた、自らの姿がルキウスのものになっていることを察し、息を呑んだ。


その瞬間、扉が開かれた。


「ルキウス」

深く響く声が、二人の名を呼ぶ。


——そこにいたのは、若き日のアラゴス だった。


彼は塔で見た壮年の姿ではなく、強靭な体躯の青年の姿をしていた。

血のように緋く長い髪は流麗に整えられ、深紅のマントを纏い、王族の装束を身に着けている。

瞳は冷たくも強く、威圧感に満ちていた。


だが、ユグリットとラーレは、その瞳の奥に狂おしいまでの執着を感じ取った。


「……兄上……」

ルキウスとしての記憶が口をついて出そうになるのを、ユグリットは抑えた。


アラゴスは、静かに彼らに歩み寄る。

そして——


「やはり、お前は戻ってきたのだな……私の愛しき弟よ。」


静かに、しかし確実に彼は歩み寄る。

その足音が響くたび、空気が重くなっていく。


「どれほど待ち望んだことか……。

お前が再び、私のもとへ還る日を。」


アラゴスの手が、ルキウス(ユグリット)の頬に伸びる。

その指先は冷たく、それでいて、異様なほどに熱を帯びていた。


突然、ルキウス(ユグリット)を壁際に追い詰めた。


「ッ……!?」

驚き、身を引こうとするユグリット。

しかし、アラゴスは強引にルキウスの手首を掴み、逃げられないように押さえ込む。


「ルキウス、お前は相変わらず……」

アラゴスの低い声が、耳元に落ちる。


「私を拒絶するのだな。」


次の瞬間——


アラゴスの唇が、ルキウスの唇を塞いだ。


支配的で、強引で、まるで征服するかのような口づけだった。


「ッ……ん……!!」

ユグリットは必死に振り払おうとするが、アラゴスの腕の力は強く、逃げられない。

そのまま深く、熱を持った口づけが続く。


(やめろ……!)

(私は、ルキウスではない……!)


——ラーレもまた、別の空間で同じようにアラゴスに捕らえられていた。


「お前は、私のものだ」

アラゴスの囁きが、絡みつくように響く。

ルキウスの頬を撫でる手は優雅でありながら、どこまでも 支配的なもの だった。


「どれほど拒もうと、最終的にお前が還る場所は、此処だ。」

 

アラゴスの瞳には、愛ではなく歪んだ独占欲 が宿っていた。


ラーレ(ルキウス)は、全身を震わせながらアラゴスの手を振り払う。

「やめろ……!」

「……あの時と同じだな。」


アラゴスの表情が、次第に冷たくなっていく。


「ルキウス、お前は、私を拒絶した。そして……」


——空間がまた歪む。


気づくと、ユグリットとラーレは禁じられた塔の内部 に立っていた。


そこには、鎖に繋がれたニルファールの姿があった。


「……ニルファール……?」


祭壇に繋がれた冷たい鎖が手足を縛り付けている。

そして、その傍らに立つのは——


アラゴス。


彼は、冷たい瞳で鎖に繋がれたニルファールを見下ろしていた。

「お前は、私の弟を惑わせた。」


「違う……私は……ルキウスを……」

ニルファールは力なく声を絞り出す。


「愛しただけだ、と?」

アラゴスの声は冷ややかだった。


「ルキウスは、王族だ。国を導く王の弟であり、決してお前のような半神に惑わされるべきではなかった。」


「彼は……」


「お前がいなければ、ルキウスは私の傍にいた。」


その言葉に、ニルファールの瞳が揺れる。


「……だから、お前を閉じ込めた。」


アラゴスの手が剣を握る。

「この塔で、永久に封じ込めるために。」


「違う……アラゴス、お前は……」

ルキウス(ユグリットとラーレ)が、必死にアラゴスを止めようとする。

「ニルファールを封じることが目的ではなかっただろう……!国を守る為だったはずだ!」


アラゴスはゆっくりとルキウス(ユグリットとラーレ)を振り返った。


そして、静かに囁く。


「私の目的は……ルキウス、お前を私のもとに留めることだった。」

「お前がいなければ、ルキウスは私のもとから離れなかった。」

「お前がいなければ、ルキウスは……」


——ルキウスが ニルファールを助けるためにアラゴスに刃を向けたあの日、アラゴスの心の奥底にあった歪んだ愛。


それは 王国を守るための決断ではなく、ルキウスを独占するための執着だった。


その真実が、今、ユグリットとラーレに突きつけられる。

 

ユグリットとラーレが気づくと、王宮の宝物庫の中だった。

視界に広がるのは、長い時を経た遺品の数々。

その中でも異様な存在感を放つものがあった。


アラゴスの剣。


500年の時を超えて尚、まるで意思を持つかのように鼓動している。

先程、剣に近づいたことで、彼らは過去の幻影を見せられた。

若きアラゴスの歪んだ愛と支配、そしてニルファールの幽閉の真実——


二人の胸には、未だその光景が焼きついていた。

息を整え、ユグリットはゆっくりと隣を見る。

ラーレもまた、困惑したように剣を見つめていた。


「——やはり、見せられてしまいましたか。」


スミレ色の瞳が、微かに陰る。

長い金髪を月光が照らし、儚げな光を帯びる。


「……ニルファール。」


ユグリットが彼を見つめる。

ラーレはまだ、過去の光景を頭の中で整理しようとするかのように、沈黙していた。


ニルファールはそっと歩み寄り、静かに告げる。


「私は、あなた方にルキウスとしての記憶を押し付けたくはありませんでした。」


「……」


「けれど、アラゴスの剣が目覚めようとしている以上、避けては通れないのかもしれません。」


ニルファールは、剣をじっと見つめた。

その眼差しは、過去を知る者だけが持つ 深い哀しみ に満ちていた。


「——アラゴスの“愛”は、決して純粋なものではありませんでした。」


ユグリットとラーレは息を呑む。


「ルキウスは、兄のアラゴスから……日常的に歪んだ愛を受けていました。」


「……日常的に?」

ラーレが小さく呟く。


ニルファールは、ゆっくりと目を伏せる。


「兄としての愛ではなく……所有するものへの執着でした。」


「それは、あまりにも息苦しいものでした。

ルキウスは、幼い頃からずっと、アラゴスの目の届くところにいなければならなかった。」


「他の誰かと親しくすることを許されず、王宮の中でも常にアラゴスの意志のもとに置かれていました。」


ユグリットとラーレの胸に、冷たい感覚が広がる。


「兄としての庇護を超えた束縛……?」

ユグリットが眉を寄せる。


ニルファールは頷く。


「……そして、ルキウスが少しでもアラゴスの意に反すれば——」


彼は、一瞬だけ言葉を詰まらせた。


だが、すぐに静かに続ける。


「……城の奥に幽閉されたり、果てには……寝所にまで連れ込まれたのです。」


「ッ……!!」


ラーレの拳が、震えた。

「そんな…酷いこと……っ……!」


ユグリットの胸にも、激しい憤りが込み上げる。


——それは、もはや愛ではない。

執着と支配。


「それでもルキウスは、兄を憎んではいませんでした。」


ニルファールの声は、静かだった。


「彼はただ……自由を求めていた。」


「アラゴスの“愛”が、彼にとっては苦しくて、息が詰まるほど窮屈だった。」


「でも……兄を拒絶することもできなかった。

アラゴスは強大な王であり、ルキウスは“弟”という立場だったから。」


ユグリットとラーレは、拳を握る。


——ルキウスは、逃げることすら許されなかったのか。


「だから、私が……」

ニルファールの声が、僅かに震える。


「……ルキウスを救いたかったのです。」


その言葉に、ユグリットとラーレの胸が強く締め付けられた。


「私は、ただ、彼が自由に笑って生きられる世界を作りたかった。」


「彼が、アラゴスの執着から解放されるように。」


「私のもとでなら……彼は、本当の意味で愛されることができると思ったから。」


「——ルキウスは、私と共にいることで、初めて自由を感じたと言ってくれました。」


「彼は、私の隣で笑っていました。」


「私は、その笑顔を、永遠に守りたかった。」


「けれど……それを、アラゴスが許すはずがなかった。」


ユグリットとラーレの視界に、また幻影が揺れる。


ルキウスとニルファールが幸せそうに過ごす日々——


それを、遠くから見つめる冷たい瞳。


アラゴスの執着と、激しい嫉妬。


「だから……アラゴスは、私を塔に封じた。」


「ルキウスを、“兄のもと”へ戻すために。」


「それでもルキウスは……私のために、アラゴスに刃を向けた。」


「私を守るために、彼は戦った。」


「……結果、彼は兄の剣に倒れた。」


ニルファールのスミレ色の瞳が、深い哀しみに染まる。


「——アラゴスは、私を封じたことを後悔していたのかもしれません。」


「ルキウスがいなくなった後、彼は何度も、塔を訪れていた。」


「ただ、私に“お前が私の弟を惑わせた”と呟くばかりで……」


ユグリットとラーレは、静かに目を閉じた。


この剣が、未だにアラゴスの執念を宿し続けているのは、

未練があるからに違いない。


「ニルファール……」


ユグリットが、静かに彼を見つめる。


「あなたがルキウスを救いたかった気持ち……確かに伝わりました。」


ラーレもまた、力強く頷く。


「僕達は、もうルキウスではないけれど……」

「あなたのその想いを、受け継ぎます。」


「だから……もう、過去に囚われる必要はない。」


ニルファールは、驚いたようにユグリットとラーレを見た。


——彼らの瞳には、確かな決意が宿っていた。


そして、その時——


アラゴスの剣が、鈍く唸りを上げた。


長きにわたり眠りについていた剣が、少しずつ目を覚まそうとしている。


二人は息を合わせ、そして——

 

刹那、夜の静寂を切り裂くように、鋭い声が響いた。


「侵入者か!?」


宝物庫の扉が大きく開かれ、数人の警護兵が駆け込んでくる。

彼らの手には、既に剣が抜かれていた。


「……!」


ユグリットとラーレは反射的に振り向く。

そして、その後ろから、王の威厳を纏う堂々たる姿が現れた。


ガルヴァン王。


深紅の外套を翻しながら、彼はゆっくりと歩み寄る。

鋭い目が、二人の王子を鋭く射抜いた。


「ユグリット、ラーレ——お前達、一体何をしている!?」


低く響く声に、空気が張り詰める。


(まずい……)


ラーレが息を飲む横で、ユグリットは素早く状況を把握しようとしていた。


警護兵の一人が、ガルヴァンの手元を指し示した。

そこには、王家の指輪が青白く光を放っている。


「……この指輪が、封印の解除を知らせていたのだ。」


ユグリットの目が僅かに揺らぐ。

まさか、扉の封印に細工が施されていたとは——

王家の紋章と繋がる古来の魔術によって、封印の変化が即座に国王に伝わる仕組みになっていたのだ。


(……なるほど、宝物庫に簡単に忍び込めるはずがないか。)


ガルヴァンは扉の奥に目をやる。

そして、鎮座する一振りの剣に視線を留めた。


「これは……アラゴス王の剣だぞ!?」

「何故、お前たちは忍び込むような真似をしたのだ!」


「この剣が——」


と言いかけたその瞬間、先程まで唸りを上げていたはずの剣は……物言わぬただの古剣となっていた。


(……まさか。)


ユグリットは思わず剣を見つめる。


——この剣は、意図的に沈黙している。


まるで、彼らにしか真実を見せるつもりはないとでも言うように。

ユグリットはすぐに思考を切り替え、穏やかな微笑を浮かべた。


「それは……王として見習うべきだと思ったからです。」


ガルヴァンの表情が厳しくなる。


「何?」


「この国を興した統一王、英雄王の素晴らしい遺品を、一度この目で確かめたかったのです。」


「……それならば、なぜ父であり王である私に言わなかった?」


ガルヴァンの鋭い問いかけに、ユグリットは静かに目を伏せた。


「……いてもたってもいられなかったのです。」

「夜も眠れませんでした。この国を築いた偉大なる英雄王の遺品を、直接確かめることで、王族としての自覚を深めたいと思いました。」

「ですが……私の軽率な行動で、弟まで巻き込んでしまいました。」


彼の言葉は、どこまでも誠実だった。

だが、それは計算された演技でもあった。


今は、本当のことを話すべきではない——


アラゴスの剣が見せた幻影を明かしても、決して信じてはもらえないだろう。


ラーレもすぐに察し、頷きながら付け加える。


「兄上の言う通りです!」


「僕も、アラゴス王の剣を間近で見ることで、王家の歴史を学びたかったんです!」


二人はうつむき、申し訳なさそうに身を縮める。


ガルヴァンは、しばし彼らを黙って見つめた。

やがて、深く息を吐くと、静かに言った。


「……理由は分かった。」


「見習いたいという心は、たいしたものだ。」


ラーレがほっと息をつきかけた、そのとき——


「だが、騒ぎを起こしたことに変わりはない。」


「お前達を謹慎とする。しばらく晩餐はなしだ。」


「えっ……!」


ラーレが目を見開く。


「食事抜き……!?」


「い、いや、ちょっと待ってください、父上!

確かに軽率でしたが、これは学びの一環で……!」


「学びがしたいならば、正式に申請しろ。」


ガルヴァンは容赦なく言い放つ。


「今後は独断で動くな。良いな?」


ユグリットは静かに頭を下げた。


「……はい、謹慎を受け入れます。」


ラーレは未練がましく口を開きかけたが、ユグリットに肩を叩かれ、しぶしぶ頷いた。


ガルヴァンはもう一度、静かに剣を見つめる。

そして、兵士たちに命じた。


「剣の状態を確認しろ。もし問題があれば、すぐに報告せよ。」


「はっ!」


兵士たちが素早く動き出す中、ユグリットとラーレはそっと視線を交わした。


(……助かったな。)


(……あぁ。でも、まさか食事抜きとは……。)


ラーレはしょんぼりと肩を落とす。


その小さな仕草を見て、ガルヴァンは微かに口元を緩めた。


「謹慎とはいえ、必要最低限の食事は取らせる。

だが、贅沢な晩餐はしばらくお預けだ。いいな?」


ラーレがホッとしたように安堵の息をつく。


ユグリットは、静かに剣を見つめた。


(——沈黙を保つ…か。)


 騒ぎの中、素早く小鳥の姿に変えていたニルファールは、物陰から彼らの様子を静かに見守っていた。

彼のスミレ色の瞳には、複雑な感情が浮かんでいた——。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る