二 シェイド・アンド・ハニー〈ACT〉その5
聞いた話では、先輩が自分のフルネームの文字列を四だか五文字目くらいまで耳にすると「名前を呼ばれた」と反応し、無意識にスイッチが入るらしい。
名前を呼ばれる。
相手をロックオンする。
攻撃開始。
これが「発作」の初動だ。
発作自体は数分で収まるらしく、だから係の生徒が速やかにターゲットを外に連れ出す。ターゲットがいなければ、菜々子先輩はその場でくずおれる。やがて落ち着いたのを見計らって、小学校からの親友である
幸いなことに大事は起きず、先輩はあくまで同情され、腫れ物に触るような扱いを受け、過ごしてきた。
中学三年まで、ずっと。
「——よしっ、ラッキー!」
おれのラケットが空を切り、卓球台の向こうの人物はガッツポーズした。
勝負は接戦だった。
審判がいないので、二人とも自分でスコアをめくる。いまはまだ第一セット、7:6で向こうが一歩リードしている。
「意外と強いじゃん。隠してた?」
「おれ、運動苦手って言ったことありませんよ」
「たしかに。なんでもそこそここなしそうではある」
「勉強以外はね」
おれの言葉に相手は失笑した。
「少し遊ぼうか」
「お手柔らかに」
それからしばし、コーンコーンとへっぽこなラリーが続く。
「きみ、どんくらい今回の脚本に絡んだの?」
「いや、全然」
「それは嘘」
「でも、ほとんどあいつですよ。九割以上」
「ふうん。でもさ。わたし知ってるよ」
「……何を?」
平静を装う。
「やりたいことは『アクト・オブ・キリング』なワケでしょ?」
「なんすかそれ?」
「見てない? 部室にDVDがあるから見なよ」
あくまでも平静を装う。
「どんな話ですか?」
「過去にひどいことをした人に、お芝居で同じことを演じさせるドキュメンタリー」
ゆっくりと球が返ってくる。それをおれはゆっくり返す。
「へえ、見てみま——」
言い終わる前に、おれの右頬を掠めてスコンッと球が飛んでった。
「遊びって言ったから、これはノーカンでいいよ」
やはりすっとぼけさせてはくれないか。
いまのは警告だ。
その映画を見ていないのは本当だが、おれのやりたいことはまさにそれだった。過去の再演。呪いから解き放たれるための儀式。
「やさしいですね」
「自分で言ったことだしね。フェアなのが好きなだけ」
球を拾い、手の上で転がしながら、もう少し様子を見る。
「今回の映画も、また人におくるんですか?」
「何その質問」
「今回は『ピクニック』よりいい出来になりますよ。きっと」
「そうあってほしいけどね。でも、その前に確認しとかないと」
「何を?」
「きみたち、ノート見たんでしょ。部室にあった古いやつ」
「……なんの?」
小首を傾げ、平板な表情をしてみせる。たぶん今日イチの演技だった。けれど向こうは軽く鼻を鳴らし、ラケットで再度口元を隠した。
「あれ、まだとぼける感じ?」
圧をかわすように、おれは無言で球を打った。相手はそれをスコンと切れよく返す。反応できなかったおれはその場に佇む。
バレてないと思いつつ、バレてないはずがないとも思っていた。ただ、おれたちがあのノートを見つけてだいぶ経っているのに、リアクションは何もなかった。だからこれは、仮にバレててもスルーされるものだと思っていた。
が、すっかり忘れていた。
この人は陰険なのだ。
彼女はこのカードを切るタイミングをずっと見計らっていたのだ。いや、ともするとここに二人きりになったことすら彼女の計略かもしれない。
どうする? 下手な誤魔化しはすでに二度も切り捨てられた。
じゃあもう開き直るしかない。
「逆に聞きますけど、先輩はどうして部室にノートを隠したんですか?」
「隠してない」
「でも……」
「か・く・し・て・な・い」
音を区切って発音すると、ラケットをくるりと回して台にトンとつけた。
「ほんとに隠したってわけじゃないんだけどな。ただ、なんであそこにあったかっていったら、全部きみのせいだよ」
「は? さすがに心当たりがないです」
「ほら。定期試験の日の放課後だったかな。あったじゃん。きみ急に部室に来てさ」
なんのこと——いや、思い出した。
それは、先の盗撮事件の解決直後のことだ。放課後に部室に行くと、彼女が一人で座って何か手紙を書いていた。
「わたし、手紙を持ってったきみを追っかけたじゃん? あのとき流石に慌てててさ。大切なノートを部室に置きっぱなしにしちゃったんだよね。そんで次の日に取りに行ったら、みんなして部室を掃除してるんだもん。そのとき誰かに、他のノートと一緒にまとめて縛られて奥にしまわれたんだ。あのあと全然一人になる瞬間がなくてさ。きみ、いっつも部室にいるし」
そうか。
だからこの人は、あの時期いつも誰より先に部室にいたのだ。そういえばよく棚の前に立って腕を組んでいた。あれは、どうすれば目的のものを発見できるのか、考えあぐねていたのだ。
おれはあの頃、この人に会いたいばかりに毎日部室に行っていた。それによりノートを探し出す機会はことごとく失われた。なんてこった。おれが暢気に「どっちだ」にチャレンジしていたときも、彼女はきっと内心で「はよ帰れ」と思っていたに違いない。
「……すみません」
「べつに責めはしないけど。いま、ノートは誰が持ってるの? きみか、それとも……」
「おれです。ここには持ってきてませんけど、処分もしてません」
「うん。どっちもそういうことはしないタイプだと思ったからほっといた。けど」
彼女は口調をわざとらしく抑えて、さらに続けた。
「意味がわかんなくてさ。ねえ、何に引っかかってるわけ? 他人が読んで面白いものだとも思えないんだけど」
面白かったかはともかく、引っかかっていることならある。
さっき風呂でのぼせかかったときに思ったこと。
中学時代の「システム」について。なんでそんなものが必要だったのか。発作のせい。
でも。
まさか、いまこのタイミングとは思っていなかった。菜々子先輩の陰の側に踏みこむことになる、これを言うのが——。
「……中学のときの『発作』って、全部本当ですか?」
全くの嘘だとは思わない。実際に本人や同級生の男子や教師もケガしたというし、そういう症状ないし衝動はあったのだろう。
「名前を呼ばれたとき、毎回自分をコントロールできなくなっていたんですか? たとえば呼ばれたのは名前の三文字目くらいまでで、本当は抑えられたけれど一応目の前の奴を襲っとけ、みたいなのとか——」
「あのさあ」
先輩がラケットをおれに向け、おれの目を見て、おれの言葉を遮った。
あごをあげて、見下ろすような目でおれを捉えている。とはいえ少し口元を尖らせ、それは会話を止めてみたものの何を言うべきか決めかねているようにも見えた。
どうくるのか。
嘘をつくのはお手の物だろう。おれは純朴だからどんな言葉を投げかけられても信じてしまうかも。緊張して身構える。
何を言われる?
待ったのは二秒か三秒か。彼女はラケットをくるりと回すと、屈んで球を拾いあげ、おれに向けて放り投げた。
「……秘密を聞きたいなら、勝ってからでしょ」
言うや、遊びは終わりだとばかりに腰を落として構えた。
この勝負、負けたら終わりと直感した。
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