一 サマーズ・コルドロン〈SCRIPT〉その3

 夏休みが目の前に迫った、終業式の日。

 脚本を仕上げるべく図書室に籠もっていたものの、気づば下校時刻のベルが鳴ってしまった。

 一学期の終わりは部室で締めようと思っていたから、わたしは数日ぶりに映研えいけんに行った。最後まで誰かいるにせよ、鍵を閉めるのはきっと部長の二条にじょう先輩だ。あの人なら「脚本できた?」とか、いやなことを言わない気がする。

 そう思って行ったのに、いたのは一人、宮本みやもとだった。

「……まだいたんだ」

 ドアを開けてすぐ、恨み節を口にしないことは不可能だった。

「いやそうな顔するなよ」

「べつに。待ってたとかなら、いやな顔するけど」

「待ってたんだよ。他のみんなはもう帰った。鍵も預かってる」

「うげえ」

「だからいやそうな顔するなって」

 わたしはさぞいやな顔をしていたのだろう。眉間にこわばりを感じながら宮本の前に座る。

「なんで待ってたの? 何か用?」

「脚本はできたのか?」

「おおかた」

 嘘だけど。

「あのノートをベースにしたのか?」

「ん? んー……まあ、それなりには。使えるところもけっこうあったし」

 嘘だけど。

 きっと宮本は次にこう言うのだ。じゃあどんな話? とか、自己評価では何点だ? とか。ヘタしたら、見せてみろと言ってくるかもしれない。そしたらぶん殴ってやる。

 そう身構えたけど、しばらく黙ったあとに宮本が発した言葉はこうだった。

「そうかあ。できちゃったかあ」

 意外。思わず声がこぼれる。

「……何が?」

 だってこのとき、わたしは知らなかったのだ。

 宮本には知っていることがあって、それをわたしは知らなかった。だから、あのノートについて軽く考えていたわたしを責められる人はいないと思う。それでも、宮本が無知なるわたしに向けて話した内容を理解するにつれ、誰かに責められているような、いやな予感が湧いてきた。

 ほら見ろ。だから言っただろって。

 下校時刻もとっくに過ぎて、もう十分もすれば見回りの先生が来るだろう。その僅かな時間の中で宮本が始めたのは、以前佃先輩から聞いたという話だ。

「それって、『システム』の話? だったらわたしも聞いたけど」

「じゃあ、そのシステムの由来は知ってる?」

菜々子ななこ先輩を守るためだったとは聞いてるけど……」

 わたしは逡巡する。たしか、システムは根本の原因が解消されたから不要になった。では根本の原因とは何か。そうだ。その話をしようかってときに井口いぐちさんが部室に来たから、そのまま立ち消えになってしまっていた。

「知らない」

 首を横に振るわたしに、宮本は一冊のノートを差し出した。

「それ、こないだのやつじゃん」

「ああ。おまえ、用が済んだらちゃんとしまっとけよ。テーブルに出しっぱなしだったぞ」

「は? ちゃんと片づけたし。ていうかそれがいまの話と関係あるわけ?」

「おれも、よくよく読んで気づいたんだけどさ」

 宮本は肩をすくめた。

「この台本。これがシステムが不要になった理由で、同時に菜々子先輩が菜々子先輩である由縁だ」

 菜々子先輩は菜々子先輩だけど菜々子先輩じゃない。

 本名は別にある。じゃあ、なんでそんなことになっているのか。

 かつて、便宜的にそう呼ばれていた時期があったから。

 それはなぜ? 始まりは? 原因は?

 そしてなぜ、その名前は不要になったか。

 ……由縁って、そういうこと?

 つまりこのノートは、あの日、つくだ先輩から聞きそびれた内容だってこと?

「おれも細かいことは知らないけれど」

 宮本の知るところによると、大筋は次のようなものらしい。

 菜々子先輩は小学生の時、学校でとある事故に巻き込まれた。場所はどこかの空き教室で、同じクラスの二人の男子と三人でそこにいた。そのとき、急に天井近くにある戸棚の荷物が落ちてきて、不幸にもその真下にいた男の子が一人、頭を打って亡くなった。それに加えて、もう一人の男の子も同じく頭に衝撃を受けて、三年近く寝たきりの植物状態になっていた。

 菜々子先輩はその現場に居合わせ事故を目撃したことで、心理的なショックを受けた。そのショックにより、彼女は名前を呼ばれると発作を起こすようになってしまった。フラッシュバックした記憶を振り払うための身体的な反応だとか。

「中学じゃ、なんとか先輩を押さえ込まなきゃってんで『システム』が作られたらしい」

 そして、システムが終わった理由。ここまで聞けば、さすがにわたしでも推測が立つ。

 寝たきりだった男子が回復したから。

「待って。え? てことは?」わたしは身を乗り出す。「その寝たきりだった人が、このシナリオの『相手役』だっていうの?」

 宮本は頷いた。

 ノートの中ではたしか『坪手つぼてくん』と呼ばれていた。

 つまりこの台本は、菜々子先輩の発言と『坪手くん』の思考を交互に綴ったもの、ということになる。

 そして、本名かは知らないがこの『坪手くん』に位置する人物は実在する。

「寝たきりだった男子が目覚めて、菜々子先輩の症状は回復した。だからいまはべつに本名で呼ばれても何も変化は起きない」

 変化は起きないって、冷静に思えばそりゃそうだろう。大抵の人は名前を呼ばれただけで何かが起きたりはしない。でも、菜々子先輩には何かが起きる時期があった。わたしたちが偶然手にしてしまったシナリオは、かつて菜々子先輩が「そうなる時期」のものだ。

 ならば、簡単に想像がつく。

 これが書かれた目的は「そう」を脱却するためなのだ。

 でも、なんでそんなものが部室に? いや、そんなことより問題なのは。

 これは菜々子先輩がトラウマを克服するまでの話である。それはいい。べつにいい。ただ一つ問題なのは、これがシナリオだということは、ここに書かれているシーンたちは実際に「演じ」られたのか?

「これが事実かどうかなんてわからない。むしろ、先輩の『願望』を綴ったifストーリーだって方が合点がいく」

「……だよね」

 わたしたちは、たぶんお互いそうだったらいいなという「願望」を口にしていたのだろう。

 そう、あくまで願望だ。

 わたしは、宮本がそこまで気づいているのかどうかわからなくて言い出せなかった。

 このシナリオには、二人の男女が出てくる。対話の内容は、二人が小学校のときに出くわした、三人の子供の関わる事故。

 一人が名前を失い、一人が自由を失い、一人が命を失った。

 これが、宮本の言う通り本当に菜々子先輩たちの話なら。そして、このノートの内容が、シナリオが、実際のことなのだとしたら。

 これは、先輩の罪の証拠になってしまう。

 いやな予感を振り払うように、心の中で神様を睨みつけた。

 なんか言えよ。

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