一 サマーズ・コルドロン〈SCRIPT〉その1
夏の夜は毎年、この問題に頭を悩ませる。そう。いつからエアコンを入れるべきか。家族の誰よりも先に入れるのは敗北感があるし、かといって最後だと置いてけぼりを食わされた気持ちになる。いま、ベランダで室外機の回り始める音がした。父の部屋だろう。よし、これで最初じゃない。安心して、わたしは今夏のエアコンを解禁した。そよ風の女神の加護を受けたかのように肌が冷やされ乾いていく。同時に、忘れていた心配事が首をもたげた。
「……はあ」
溜息の大きさは、心の重さの表れだ。もういちど、はあ——。
困ったことになった。
こんなの使いようがない。
ていうかこれ何?
夜一〇時を回った頃、わたし——
「なんで持って帰ってきちゃったんだろ」
やはり
とはいえ、目の前のこのノート。呆気にとられて、もう一度読み返す気にはなかなかなれない。
「間違いなく、
しょっちゅう見ている連絡ノートの字と同じ。上手だけれど少し癖のある丸っこい文字がずらっと連なっている。
結論からいうと、わたしと宮本が「
誰かと誰かがずっとどこかで喋っている内容の記録。日付を追えば、かなりの長期間だ。雑多な内容でとりとめもない。けれども妙に読ませる力がある。
菜々子先輩の現実と虚構の入り交じった、超現実的な対話録? あるいは双方向のモノローグ。部分的には、もはや「戯曲」と呼べる
「才能の差? だとしたら
無から物語を創造することは想像以上に困難だ。
わたしは子供の頃、アニメを作る人になりたかった。小学校の高学年になる頃には好きなアニメの続きを勝手に考えていたし、そこに自分のオリジナルキャラクターを強引に紛れ込ませ、そのうち元々のキャラクターたちを退場させて、自分のキャラだけになった物語を頭の中で勝手に続けていた。その経験から考えてみれば、わたしの構築する物語は常に、既存の何かの延長線上にある。
その後、級友たちに「高学年にもなって子供っぽい」と一蹴されたことでアニメ熱は去った。
映画と出会ったのはその頃で、CSのチャンネルを親が契約したのがきっかけだ。漫画やアニメだと怪訝な顔をされたけど、ドラマや映画なら何も言われなかった。物語には権威が必要なのだ、となんとなく思ったのを覚えている。
でもいつしか、有名な俳優やテレビでよく見るタレントの出ているドラマの世界をちょっと鬱陶しく感じるようになった。
数をこなすと審美眼が養われるというのは本当で、次第に自分が何を嫌うのか考えるようになり、何が嫌いかわかって初めて、自分が何を好むのかについて自覚的になった。
水分の抜けた首筋を撫でて思う。
乾きだった。
外国映画は、とても乾いていた。深刻なシーンで、ダイニングでぼそぼそ喋る二人の片方が立ち上がってじめっとした声音で「もういいっ!」なんて叫んだりしない。質素な暮らしのマンションの室内はいつもカーテンが引かれて薄暗かったりしない。ここでこういう感情になれ、っていう押しつけがましさがなくて、見ていて気楽だった。彼らの感情が俯瞰で感じられた。誰も、スクリーンの中の相手を慰めるフリして見ているわたしに説教したりしてこなかった。わたしも主人公と同じ気持ちにならなくちゃいけない、そういうことを強いられなかった。
なんて素晴らしいんだと思った。
それ以来、映画——特に外国の大作じゃないやつにハマり、そんなのばかり繰り返し見るようになった。好きな映画はフランスのヌーヴェルヴァーグ期の監督の一作で、パリでおじさんに預けられた女の子がこっそり抜け出してあちこち冒険するやつだ。ハチャメチャな話だけど、女の子がかわいくて、オチにもクスリとさせられる。最近見た中で特にお気に入りなのは、父を亡くした三兄弟が母親に会うためにインドに行って電車に乗る話だ。どちらも洒脱で仰々しくなくて、外部から——あくまで鑑賞者のわたしは外部から冷静に、その世界を見つめることができた。
冷静な視点は、自分の中に冷静な結論を導き出してくれる。冷静な発言を重ねれば、自分の行動の責任を負えなくなるような事態にはならない。やがてわたしは、物語に自分が自分で責任を取るための「自信」を見出そうとしていたと気づいた。
自信とは、みんながわたしに敬意を払ってくれることだ。
映研はそういう場所だ。先輩はみんな寛容だし、唯一の同級生の宮本はムカついてもすぐに「それはそれ」って割り切って接してくれる。気の合わない奴だけど、彼には彼なりの哲学があるのだとわかるし、彼もまたわたしの哲学に一定の理解を示してくれていると感じる。そういう点でわたしたちは互いに敬意を払っているだろう。
で、問題は宮本の思い人だ。
菜々子先輩。
あの人は少し性格が悪いけど、素直で、それはつまり善悪の観念が通常の物差しでは測れないということだ。なんでそんなトコでそんなコトしちゃうの? っていう、思い切りの良さと危うさの両輪で走っている感じがある。
敬意というより、奇異と驚異を感じる相手だ。
そんな彼女、菜々子先輩の書いたシナリオ。
舞台はどこかわからないけれど、たぶん狭い部屋だ。教室よりずっと狭くて、わたしたちが使っている部室なんかよりも小綺麗な場所だ。自室? にしてはモノの描写が少ないし、机も出てこない。ベッドと椅子と花瓶くらい。
ただどこかの部屋で、男女二人が交互に独り言を言い合うだけの話。
台詞は長く、独り言なのにお互いが相手の言葉を先読みしている。相当頭の回転の速い人物像だけど、菜々子先輩なら普段からこのくらい頭の中で喋っていそうだ。
二人の登場人物は別々に喋っているのに、会話はまるで成立しているかのように見える。二人はお互いに核心に触れないよう注意しながら、ゴールを知らされないまま同じ地点を目指すような独り言を続ける。ギリギリのところで相手を探り、誘導し合っている。敵対か、同時に協力関係にも見える。
会話のテーマは、どうやら二人の子供時代に起きた事故についてだ。
彼と彼女はどちらも被害者の立場だけれど、若干状況が違う。家でちゃんと読み返して気づいたけれど、このシナリオノートはたぶん一冊じゃない。そしてこれは一冊目じゃない。なので二人が背負っていることの詳細はわからないけれど、傷を舐め合いつつも互いに相手を警戒しているフシがある。
二人は事故について再検証を始める。互いに相手に伝えないまま、同時にお互いが納得できる結末を目指す。そんなだから、二人とも語っている内容はどこまでが本当かわかったものじゃない。
女子は場合によっては男子に悪意を持たねばならないと考えているようだ。対する男子の方は疑り深くて警戒を解かない。慎重な性格だ。でも、女子も女子で余計なことを口走ってもすぐさまそれを誤魔化すしたたかさがある。二人のそれぞれの言葉には、緩んだ口調のときでさえずっと緊張感が漂っている。
冷静で、俯瞰的な目で、書き綴られる会話。
それだけ取り出せばわたしの好みだけど、読んでるうちに頭がくらくらしてきた。
もしもこれが映研用のシナリオとして書かれたものなら、没になるのも当然だろう。だって単純にややこしすぎる。
あと暗い。
何度目かの溜息をつき、わたしはそっとノートを閉じた。
やっぱり自分でやらなくちゃ。
子供の頃にそうしていたように、このシナリオの続きを考えて、換骨奪胎して自分のものにする。そういうことができればラッキーと思っていたけれど、わたしにはこの続きを考えるなんて無理。
悪い結末しか思いつかないもの。
ベッドに転がり、枕に頬を押しつけた。充電中のランプの灯ったケータイを見つめ、宮本にメールしようと思った気持ちを押さえつける。あいつに頼ってどうするのだ。
目を閉じて、自分の内側を知ろうとする。
わたしは何がしたい? 脚本を書きたいって気持ちが先行しすぎて、何を書きたいのか、そもそも自分は本当に物語を作りたいのか、そういう根本的なところに目を向けるのを忘れていた気がする。
でも、そんなことを言ってられる時間は過ぎた。どんなにみんなを待たせたとしても、せいぜい八月の頭がリミットだ。それまでに完成させなきゃ。でもおまえ、魂の入ってないものを作ってどうする? 心のわたしが言うのが聞こえたけど、今回はそういう訓練なんだと割り切るしかない。いつか将来の糧になる。
いまはできることをやるしかないし、それに意味があるって祈るしかない。
燃えろ才能。わたしにはできるはずでしょ?
なんか言ってよ、神様。
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