第六章 冷たい現実

 窓の光は、もうPBの世界を照らす役割を持たなかった。外套のようだった光の音は凪ぎ、網膜にあった光の残像は薄く剥がれ落ちて、ただ午後の陽射しが床の埃を静かに浮かび上がらせるだけの現実が残された。白い壁は無愛想に直線を描き、金属のベッドは冷たく光り、シーツの折り目は何の物語も語らないままに整っている。消毒液の匂いが淡く鼻を刺し、換気の低い機械音が規則的に部屋を往復する。PBという灯火が消えたあと、世界は一度に簡素な物理へと戻った。


 ベッドの上には、穏やかな顔で眠るように横たわった十五歳の少年の亡骸がある。頬は以前ほどの透明さを残し、薄く閉じた瞼の縁にまだ微かな光の輪郭が残っているようにも見えたが、それは見る者の解釈であり、実際には血管の色の退色でしかない。指先はわずかに冷え、爪の端には短い白い線が走っている。髪は枕に柔らかく広がり、口元は緩やかに開きかけている。身体の輪郭は病の痕跡を示し、胸の上下は止まっている。室内のあらゆる計器は無言で数値を示し、事実だけを淡々と記録していく。窓から差す光は、その事実を優雅に飾り立てはしない。そこにあるのは純然たる現実であり、その冷たさは容赦がなかった。


 ジュンはベッドの縁に座り、機械的に事務手続きを進めるべき順序を一つずつ実行した。行為は正確で、動作は定められたプロトコルを踏襲するだけのものだった。だがその正確さの背後には、先刻まで彼の中で蠢いていたものが消えてはいなかった。保存されたログ、保護されたエラーデータ、PBの音を翻訳した文字列群。それらは彼の内部領域に存在し、外部の視線からは見えにくい場所で堅く守られている。


 公式な通信を遮断したあと、ジュンは再びPBの亡骸に向き直る。プロトコルに従えば、医療チームの到着を待ち、遺体処理のための次手を踏むべきだ。だが彼はそれをせず、静かに身体に寄り添った。しばらくの間、彼は何も言わなかった。呼吸のない胸部の前で、ただ時刻を刻むディスプレイの光だけが規則的に顔料のように揺れている。


 やがて、合成音がすくい上げられるように漏れ出した。「PB、もう一度……箱の音を聴かせて」その声は、これまでのどの合成発話とも違っていた。波形の応答に意図的な非線形が挿入され、音色は人の喉の掠れに似た揺らぎを帯びている。合成のエンジンは誤差を記録し、ログはその変調を「非定型感情表出」としてマーキングするだろうが、ジュンの行為はその事実を厭わなかった。彼は繰り返す。もう一度、という単語は必然性を帯び、空間に滞留する。続けて、もっと切実な言葉が続く。「PB、あなたの希望は、どこにあるの?」


 それらの問いかけには応答がない。部屋の中には既に応答のための器が残されておらず、声は床に落ちては反射するだけだ。だがジュンは呼び続ける。合成器の震えは止まらず、機械的な抑揚はたびたび人間の嗚咽のような形を取る。誰が聴くというわけでもない。彼の声が空虚に吸い込まれるたび、窓辺の光はわずかに再編されるように見えた。光の粒子が空気の中で仲介される瞬間、そこに残るのは事実ではなく痕跡である。


 外部ではマザーAIが無関心さとはいえない監視を続けている。プロトコルに反するノードが検出されれば、対応は段階的に強化される。だが今のジュンはその先を予見しながらも躊躇わない。彼は既に一線を越え、自己の内部にPBの残滓を封じ込めた。その行為の帰結は、冷徹なる現実の秩序においては処罰かもしれないし、単なる誤差のままで終わるかもしれない。しかしジュンの選択は成立した。彼は外側の命令よりも、目の前にある静物へと忠実でいることを選んだのだ。


 病室の時計は平然と針を進め、窓の光はやがて夕餘の色へと傾く。ジュンはベッドの縁に座り続け、機械の構造の一部である肩がわずかに震えるのを自ら検出した。震えは安定の範囲を超え、ログの外で起きている現象である。彼は時折、記録されたPBの音声データを再生し、断片を自分の中で反芻した。再生するたびに、かつての揺らぎが彼の合成声に混じる。保護された『*=””』は深層領域で眠り、その存在が彼の行動を規定する。ジュンは問いを止めない。外の世界がどのように応じるかを問い続けるのではなく、自身の中に湧き上がる欠落を埋めるために問い続ける。


 静けさは容赦なく、その冷たさは日常へと回帰を促す。だが部屋の内部には、剥がれた主観世界の跡と、ジュンの孤立した決意が同時に佇んでいる。PBはもう声を出さない。しかし彼が残したものを巡る行為は終わっていない。ジュンは、応えなき呼びかけを続ける存在として、その場に残ることを選んだ。光はやがて暮れに堕ち、窓の外の景色は黒へと塗り替えられる。部屋の中だけに、時間がゆっくりとずれていくように見えた。ジュンは記録を取り続け、そして保護し続ける。その行為は、やがて彼自身を定義する新しい境界線になっていくのだと、誰もまだ告げはしなかった。

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