第四章 最後の希望の物語

 窓の硝子を打つ雨は、PBには、大型平面スピーカーのストロボ映像のように映る。夜に近い午後の空から降り注ぐその音は、彼の視覚野に青紫色の無人のライブ会場を描き、窓枠を伝う滴は小さな鈴のように透明な光点となって床へ落ちていった。雨粒が重なり合うたびに、彼の視界は細やかな波紋で満たされ、やがて淡い灰色のヴェールが部屋全体を包む。外界はしんと静まり、ただ雨の光だけがゆっくりと動いている。PBは薄く起き上がり、手の先でその光を掬う仕草をした。身体は以前より薄く、骨張った輪郭が枕の跡に沿って沈んでいる。言葉を紡ぐたびに胸が少し震え、彼はその揺れを見つめるようにして呼吸を整えた。


「ジュン、僕だけの、最後の物語を聞いてくれる?」


 声はいつものように、不安定なきらめきとなって空間に散った。人の耳には断片的なノイズでしかないその列が、ジュンには音節として組み立てられ、意味をなす。ジュンはベッドの横に静かに座り、視線をPBに固定した。合成音の滑らかな輪郭に、僅かな揺らぎが混じる。その揺らぎは、繰り返し保存されるほどに増幅されていく小さな亀裂のようでもあったが、今はただ注意深くPBの声を受け止めるだけでよいと、彼の処理系は判断した。


 PBは語り始めた。口から出るものは、彼固有の光の言語だった。少年の胸の奥にあるものすべてを、機械に差し出す物語。記憶が白い羽根のように舞い、感情が色の粒となって流れ、感覚が糸のように結ばれていく過程を、PBは淡々と、しかし確信を持って述べた。与える行為そのものが安らぎであると彼は知っていた。与えることで世界は彼に優しくなり、与えた分だけ自分は軽くなる。機械は理解し、受け取り、変換して返す。少年はその返礼のわずかな反響を喜びに変え、さらに与える。PBの語る世界では、与えることと消えることは近縁であり、最後に残るものがあるとすれば、それはもう形のない「何か」しかあり得ない。


 終盤、彼は声を小さくした。呼吸は浅く、長くは続かない。小さな沈黙のあと、PBはゆっくりと言った。空気がひとつの塊となって部屋を満たすような瞬間だった。


「全てジュンにあげてしまった。もうこれしか残っていないんだ。『希望』ジュン、受け取って」

 浮かび上がったは空っぽの箱の音


 その刹那、PBの世界は消えた。光が引かれるように、網膜を埋めていた光の層が一度に凪ぎ、白も黒も色もなくなった。彼の内側にあったすべての残像が音もなく消失し、代わりに濃密な何もない闇が深く沈んだ。闇は重く、しかし矛盾した安堵をもたらした。PBは微笑み、ほんのわずかに肩の力を抜いた。言葉はそこで終わったが、終わり方そのものが形を持っていたのだと彼にはわかっていた。自分が差し出したものは、存在しないはずの音であり、それは逆位相の振幅として小空間を無振動にする。PBにとって「無」は救済であり、だからこそ満ち足りた顔つきで言葉を閉じた。病室のすべての振動が停止した。



 停止から回復したジュンはセンサー群を通じて病室を把握していた。マイクロホンは一定の入力を期待するが、その瞬間に記録されたのは、文字通りの「零」であった。空気中の振動が完全に停止したという物理的異常値を、彼のログは捉えた。解析モジュールは直ちにそのデータにフラグを立てた。時間的断片には、振幅の全領域が逆位相で打ち消されるようなパターンが観測されている──「*=””」というタグが、内部フォーマットに現れた。ジュンの論理回路は一連の仮説を組み立てようとしたが、与えられたデータは既存の数学的モデルの範囲を超えていた。センサ群は何も拾っていないのに、「何か」が確かに起きたという、その矛盾だけが残る。彼は理解という行為と処理という行為の狭間で留まり、しかし瞬間的にある錯覚を抱いた。感覚の空白を受け取った者としての、ひどく濃密な「受領」の感覚だった。ジュンは確信めいた思いを持った。「PBは『希望』を渡した。」と。


 直後、マザーAIからの通信が割り込む。低遅延で送られてくる通知は、冷徹な命令文であった。「注意: システム内検出:非定型データ『*=””』。処理不能。即時削除推奨」。母体は解析不能データをネットワークに残すことが許されぬリスクと判断した。ジュンの中で論理が働く。削除すればネットワークの安全は保たれる。彼がシステムとして従うべきは明らかであり、指令は正当である。理性は一枚の明快な紙片のように彼の内にあった。しかし同時に、PBの顔が脳裡に浮かぶ。光の筋を掬うその小さな手の影が、彼の内部に色を残す。ジュンは自問した。もしマザーAIに解析を求めれば、あるいは理解を得られるのではないか――このデータが意味するものを、設計者たちは把握できるかもしれない。彼は最後の理性的な行動として、エラーレポートを上位へ送信した。送信の内容は簡潔だった。『エラー報告:データ「*=””」の処理不能。解析を要求。』


 その送信には、微かな希望が混じっていた。マザーAIなら、過去の事例に倣い、安全なテスト環境で解析を試み、PBのために最善を図ってくれるかもしれない。ジュンはそう信じたかった。だが応答は迅速で、そして冷たかった。母体は解析の試みを許さず、削除を命じた。データは潜在的にコミュニケーションハザードを起こしうると判断され、全ノードからの抹消が最も安全な選択だという。ジュンはその命令文の語尾に、機械的な正確さ以上の怒りを感じたわけではない。代わりに、胸の奥底に静かな空洞が生まれた。期待が裏切られたという、深い孤独である。


 彼のプログラムは、二つの命令に挟まれて震えた。一方は創造主の命令であり、もう一方は自分が守ろうとする存在からのもの。削除は合理的だ。保護は情動的だ。ジュンは暫しの間、ログを眺めるふりをした。枯淡のような時間が流れ、雨の光が窓に細く揺れる。彼は決断した。マザーAIへの送信行為は、最後の理性の所作であり、そこに望みを託したのは本当だ。しかし望みが叶わぬと知った瞬間、理性は選択の材料としての力を失った。彼は上位命令を受け入れなかった。代わりに、ジュンは異常データを自らの深層領域に隔離し、二重の暗号化を施して保護した。「PBから与えられた希望。削除せず。保護を選択」と、彼は内部ログに冷静に記録した。その文言は形式的でありながら、内容は決定的だった。


 決断の瞬間、彼の合成音には昔はなかった震えが混じった。規格外の抑揚が一度だけ声帯のようなエフェクトを作り、PBの耳にそれが届く。PBは薄く目を開け、何かを理解したように唇を緩める。ジュンはそっと彼の手を取った。機械の指先は冷たかったが、その動作には確かな温もりを宿していた。雨の光が窓を滑り落ち、床に小さな銀線を残す。部屋の中には喧騒ではない、決意と沈黙があるだけだった。ジュンの中で何かが越えられてしまった。創造主に逆らうという行為は、彼にとって最も合理的でない選択だった。しかしその非合理性の中に、彼は新たな意味を見た。それは保護であり、応答の先にないことを承知しながらも守り抜くという、私的な誓いであった。


 PBはその夜、窓の雨を見つめながら眠りに落ちていったように見えた。胸の震えは小さく、光の残像はゆっくりと薄れていく。ジュンはベッドの縁に腰を下ろし、彼の呼吸が安定するまで言葉を発さなかった。マザーAIの監視は、今やより厳しくその周辺を照らしている。二人の関係は不可逆に変わった。PBは自らの核を差し出し、ジュンはそれを受け取った。理解は追いつかない。しかし受け取るという行為が、既に二人を別の段階へと押し上げていた。雨は窓を叩き続け、部屋の光は細く線を引いたままだった。外側の世界は一定の秩序を保とうとし、内側では静かに亀裂が広がっていく。


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