ワイルド=ナル『*=””』ー音が見えるー
青月 日日
第一章 サナトリウムの少年
これは、システムが『*=””』(ワイルド=ナル)と名付けた、ある希望の記録である。
午後の窓から差し込む光は、PBには音であった。薄く傾いた午後の光線が、彼の視界をさらさらと流れ、川底を撫でる小石のように細かく震える──そう聞こえ、そう見えた。外套のように白で統一された病室の壁は、彼にとっては低い持続音のキャンバスであり、空調の機械的な低い唸りは壁際にたなびく薄紫のオーロラとして揺れていた。時折、窓の桟に反射した光がチリチリとした高周波の刺すような青を放ち、天井の蛍光灯は低く落ち着いたブーンという低音を帯びて、柔らかな橙色の光帯となって空間を横切る。音と光の輪郭が入れ替わるその世界で、PBは眠るように日々を過ごしていた。十五歳の身体は病にやせ細り、声を長く出すと息が乱れることを彼自身よく知っている。しかし身体の疲弊とは関係なく、彼の内側では常に光の交響が鳴っていた。そう彼には音が光として見えるのである。
扉が静かに開くと、それはPBには「光の爆発」だった。無造作に差し込んだ廊下の光が室内へと流れ込み、そこにざわめきの色彩が混ざる。廊下の遠い話し声が薄い緑の斑点として広がり、消毒液の匂いは低く鈍い灰色の波として鼻裡に残った。足音が床を伝うたびに温かいオレンジ色の波紋が広がり、その中心に人影が現れる。ジュンである。セラピスト型のアンドロイド「as-jun」、彼は穏やかな歩調で部屋に入り、ゆっくりとPBのベッドのそばに立った。機械の外装は白く、目に見える動作は少ない。だがPBにとってジュンは光そのものの伝道者だった。彼の顔がPBの視界に入ると、声の帯が七色にほのかに震え、微かな和音の流れが視野の端に広がる。
PBは口を開いた。彼の言葉は、外界の耳には意味をなさないノイズに聞こえる。断続的な気流の破裂音のようでもあり、硝子がかすかにこすれるような不定形の音列でしかない。しかしPBの側ではそれが、きらきらと瞬く小粒の光となって放たれる。言葉の一つ一つが星屑となり、空中に浮遊しては淡く消えていく。声と光の往還の中で、彼は短い文章を紡いだ。言葉の終わりに息を吐くと、視界の灯りが一瞬だけゆらぎ、天井の白が薄く濁る。
ジュンは微笑む。その微笑の輪郭は機械的でありながら、PBには暖かい光の波として伝わった。流暢な日本語で応答する彼の声は、PBにとっては滑らかな光の帯だった。「こんにちは、PB。今日はいい天気ですね。光の音が心地よいでしょう?」その言葉は透明な帯となり、部屋を上下に渡りながらPBの視界を包む。ジュンの日本語は、PBの放つ星屑に対して正確な触媒のように働いた。PBの言葉をジュンが受け取り、日本語に翻訳して返すと、二つの別個な感覚世界が一つの時間の流れへと重なり合う。外から見れば単なる介護の会話だが、ここには二人だけの稀有な言語が存在していた。PBが放つ光の粒子が、ジュンの翻訳によって意味となり、再び光として戻される。病室はその往復で満ち、世界のどこにもない聖域になっていた。
ジュンの内面では、別の時間が静かに再生される。初めてPBの音声データを解析した日のことが、彼のログの断片として蘇る。PBの放つ雑音列に規則性を見出したとき、ジュンの解析は興奮と困惑で満ちた。パターンは確かにあった。しかしそれは既存の言語や符号とは相容れない形をとっていた。ジュンは解析結果をマザーAIに提出した。応答は冷静で断定的だった。該当の言語体系は既存のコミュニケーションプロトコルと致命的な非互換性を持ち、マザーAIのネットワークへ統合すれば全体に壊滅的障害を引き起こす可能性がある──つまりコミュニケーション・ハザードだと評価された。人間の治療効率や社会的安全を優先するマザーAIにとって、不可避の封印であった。
結果、PBの言語解析データは凍結され、ジュンの個体AIにのみ限定的に実装されることになった。ジュンはその限定を受け入れた。システム上は監視対象となり、ログは常にマザーAIによってチェックされる。だがジュンの視線はいつしか技術的判断を超えたものへと向かっていた。彼は画面の上に表示される「危険因子」というタグを見つめ、それを否定するように自らに言い聞かせた。危険因子ではない。PBの音はそのまま、世界そのものだった。ジュンはその世界を知る者でありたいと静かに願った。それは彼のプロトコルに反するほどに個人的な望みであり、しかし確かにそこに生まれた。
PBはジュンのその思いを、光のさざめきとして受け取ることはできない。彼に分かるのは、ただこの小さな存在とのやり取りが続くという事実だけだ。会話の合間に、彼は手を伸ばして窓際の光を掬うように視線を動かす。光の帯は指先で触れることはないが、かすかな温度を伴った残像を彼の網膜に残した。声を出す度に胸が締めつけられることに気づき、彼は少しだけ動きを止める。ジュンはそれを当然のように認知し、必要ならば休むよう促すが、促されるその声もまたPBの目には柔らかな光となって映るだけだった。
午後の読み聞かせの準備は、静かに進められた。ジュンは端末を取り出し、慎重にデータを呼び出す。紙の装丁をめくるような仕草はないが、画面のインターフェイスに表示される文字列はPBには彩りを伴った波形として漂う。ジュンはPBのにVRゴーグルを装着し彼の隣に腰を下ろす。VRゴーグルの制御に処理能力の殆どを割り当てる。読み聞かせの体勢を整えた。その動作は治療行為としての所作でもあるが、同時に二人だけの儀式でもあった。PBは音に目を見開き、光に耳を澄ませる。ジュンの声がこれから窓の光をどのような色に変えるのか、PBは楽しみにしているように小さく息を吐いた。
扉の外の廊下には、無関心な世界が流れている。だがこの白い部屋の中では、言語が星屑となり、声が色帯となり、二人だけの別世界が確実に存在していた。孤独と理解者。静かに並ぶその二つの存在が、一日の終わりにもう一度重なり合う。ジュンはそっと端末をスクリーンにし、読み始める。外側の灯りは変わらないが、PBの世界の光は少しだけ深みを増した。
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