第8話 朝は遠回りしない
まだ人の少ない校舎は、昨日までの喧騒を忘れた別世界のようだった。
昇降口のガラス戸を押し開けると、夜の間に塗られたワックスの匂いが鼻をつく。靴底が床を叩く音は乾いて、廊下に小さく跳ね返る。半分だけ点いている蛍光灯が、長い廊下に等間隔の影を落としていた。
真白は鍵束を握りしめながら歩いた。金属の冷たさは心拍をひとつひとつ刻むようで、彼女を現実に引き留める。生徒会準備室の前に立ち、鍵穴に差し込み、カチリと音を立てて回す。引き戸が重く開くと、夜の残り香を含んだ冷たい空気が頬に触れた。
部屋の中はまだ薄暗い。窓から差し込む淡い金色が机の上に帯を落とし、受理簿の上を照らす。真白は鞄を椅子に置き、机の上に朱肉、赤ペン、回収用の封筒、二穴パンチを順に並べる。この小さな順序を整えると、不思議と呼吸が落ち着く。彼女にとっては儀式であり、自分を守る盾だった。
(今日は……言う。絶対に)
抽斗を開け、細長いメモ帳を取り出す。ページを開けば、自分の字が並んでいる。
――一、仕事をする。
――二、誰にも失礼をしない。
――三、心が揺れたら、深呼吸。
――四、“放っておけない”を大事にする。
――五、夕焼けの下では、素直になる。
――六、布団の中では、嘘をつかない。
昨夜、布団に潜り込んで足をばたつかせながら書いた六行目を思い出すと、顔が勝手に熱を持った。余白にペン先をそっと置く。震える線がゆっくり落ち着きを取り戻し、真白は息を止めるようにして書いた。
――七、朝は遠回りせず、言う。
声に出して読むと、線がわずかに太く見えた。ページを閉じたその直後、引き戸がすうっと開いた。
「――おはよう」
低い声。真白が顔を上げると、琥太郎が立っていた。
朝、校門をくぐったときに黎人に呼び止められたことを、琥太郎は思い出していた。
『コタ、頼む。生徒会準備室に昨日の配布物が残ってるから、持ってきてくれないか』
『俺が? なんで』
『俺は三年の方を回る。委員長もいるはずだから、ちょっと顔出すだけでいい』
柔らかい口調でそう言われれば、断れるはずがない。仕方なく足を運んだ準備室。扉を開けたら、そこにいたのは皆川真白だった。よりによって彼女。数日間で一番顔を合わせている気がする。
「……おはようございます」
真白の声は思ったよりも柔らかかった。琥太郎は短く頷き、ぶっきらぼうに返す。
「おはよう」
胸の鼓動が一拍速まる。七行目を思い出す――“朝は遠回りせず、言う”。だが、いざ本人を前にすると言葉は重くなる。
「今日は……どうしてこちらへ?」
問いかける声に、琥太郎は机の端に目を逸らして答えた。
「黎人先輩に頼まれた。昨日の配布物、持ってこいって」
言葉は短い。けれど嘘はない。自分が望んで来たわけじゃない、と心の中で言い訳する。
「なるほど……黎人先輩から、ですか」
真白は小さく頷き、受理簿を開く。朱肉の蓋を開けると、赤が朝の光を吸って鮮やかに見えた。朱を紙に落とす。ぽん、と小さな音が静寂に混じる。
それでも、視線は琥太郎に吸い寄せられる。制服の袖口から覗く手の甲の骨ばった線。机の端に置かれた指先の、無駄のない角度。委員でもないのに、不思議と迷いがない。
琥太郎は静けさが余計に重たく感じられた。家の中の沈黙は慣れている。だが、この沈黙は違う。委員長の前だと、自分の胸の内まで透かされる気がして落ち着かない。彼女の視線が手元をかすめたことに気づき、舌打ちしそうになるのを必死で飲み込んだ。
「昨日……見かけました。スーパーの前で」
真白の声が不意に落ちた。自分でも驚くほど自然に出てしまった。頬が熱を帯びる。
琥太郎の胸の奥が一瞬止まった。やはり見られていたのか。美鈴と買い物袋を提げていた姿。あれはただの荷物持ちだったのに――誤解されているんじゃないか。そう思うと喉が乾く。だが、言い訳は出てこなかった。
「楽しそうでした。……いいな、と思って」
「……何が」
声は硬く出た。照れを隠すつもりが、逆にぶっきらぼうに響いてしまう。
「並んで歩く、距離」
真白は机の角を見つめながら、かろうじて言葉を形にした。
返事を探すより早く、机の端に積まれた配布物がずれて、カタンと音を立てた。
琥太郎の腕が反射的に伸びる。真白の肩越しに迷いなく手を差し出す。紙束を押さえた瞬間、彼女の頬がすぐ近くにあった。
その距離は、息を呑むほど近かった。
袖がかすかに触れて、布越しの温度が肌へ伝わる。制服の擦れる音まで耳に残る。
彼の胸元から漂う洗剤と石鹸の混じった匂いが鼻をかすめ、頭がくらりとする。
真白は息を止めた。もし吸い込めば、彼の吐息まで取り込んでしまいそうで。もし吐き出せば、この瞬間を押しやってしまいそうで。
耳の奥で自分の鼓動だけが大きく鳴っていた。
ドクン、ドクンと心臓が勝手に速さを増す。蛍光灯の唸りも、廊下の足音も遠ざかり、この小さな部屋には二人の呼吸しか存在しないようだった。
「悪い」
低い声が耳元に落ちる。その響きは空気を震わせ、震えごと皮膚に伝わった。頬にかかる息が熱くて、視界が揺らぐ。
真白は後ろへ下がろうとした。けれど膝が机の角にぶつかり、反動で逆に前へ押し出される。わずか数センチ。けれどその分だけ、距離は臨界点を越えてしまった。
琥太郎の瞳が、すぐそこにあった。
黒に近い深い色が、微かに揺れている。睨んでいるわけじゃない。むしろ、不器用に感情を隠そうとして、隠しきれずににじむ迷いと温度。
その瞳に自分が映っている。震える肩も、強張った唇も、赤く染まりかけた頬も。全部が彼の目の中に収まっていた。
(見られてる……)
そう気づいた瞬間、胸がきゅっと縮む。
けれど、視線を逸らすことはできなかった。
琥太郎もまた、目を逸らさなかった。不慣れなはずなのに、逃げないその眼差しが真白の心を強く揺らす。
息が詰まる。頭の中で三行目が浮かぶ。――心が揺れたら、深呼吸。
だけど今はできなかった。この空気を壊すのが怖かった。深呼吸をしてしまったら、この熱も震えもすべて消えてしまいそうで。
真白は机の端を掴み、爪が白くなるほど力を込めていた。琥太郎の眉がかすかに寄る。唇が何かを言いかけて、また止まる。
言葉はなく、ただ呼吸と鼓動だけがこの距離を埋めていた。
ほんの数秒のはずが、永遠に続くように思えた。
世界のすべてが止まり、二人の近さと熱と息遣いだけが残されていた
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