序章 静寂の施設

都市のざわめきから遠く離れた高原の奥。杉と白樺が入り混じる森を切り開いた先に、白い建物はひっそりと姿を現す。

 外観は療養施設と呼ぶにふさわしかった。磨き上げられたガラス窓は森の影を反射し、四季ごとに植え替えられる花壇には彩りが絶えない。池には錦鯉がゆったりと背を見せ、風が水面に皺を寄せる。――だが、その「整いすぎた美」は、まるで舞台装置のようでもあった。人が安らぐための場所というより、「安らぎを演出するための場所」に思えたのだ。


 正面の石段を登れば、永大供養寺と極楽寺の二つの寺が並び、さらに離れた丘には細い煙突が空を突いている。施設から寺へ、寺から炉へ――あらかじめ引かれた回路のように配置されていた。誰が設計したのか。偶然では済まされない幾何学的な整合がそこにあった。


 施設のパンフレットには、絹のように滑らかな文句が並んでいる。

 《ここは、心身の癒しを提供し、再出発を支援するケアセンターです》

 青空の下で笑顔を浮かべる職員の写真。庭を歩く老夫婦。悪意のかけらも見えない。しかし、匿名掲示板の断片は別の物語を告げていた。

 《緩和ケアの名で安らかな最期を手配》

 《ベッドから骨壺へ――それが合言葉》


 この施設を立ち上げたのは、医師であり心理カウンセラーでもある田中雅子だった。大学病院で延命治療に従事していたころ、夜勤の回診で彼女の白衣を掴んだ患者がつぶやいた言葉を、彼女は忘れていない。

 ――「もう頑張らせないで」。

 その声は確かな体温を持っていたが、制度の紙は冷たく、彼女の手を縛っていた。

 「選べる最期は、残酷ではない」

 その確信が彼女を動かした。寄付と遺贈、そして匿名の支援者の資金によって、この施設は築かれたのである。


 朝の風に風鈴が鳴った。極楽寺の和尚、夏樹透は竹箒を肩に担ぎ、門前で立ち止まった。

 「数字はよう喋る。けど亡くなった人は黙っとる。その黙りを、誰が受け取るかや」

 彼は風鈴の舌を外し、風に委ねた。音は森に吸い込まれ、戻っては来なかった。


 今日もまた、志願者がやって来る。

 背広姿の大学生。制服ではなく私服を選んだ女子高生。手を取り合う老夫婦。そして疲れ切った商社マン。彼らは皆、胸の奥に「生を諦める理由」を抱えていた。

 施設は静かだ。静かであるがゆえに、その静寂は時に不気味なほど濃い。足音が廊下にこだまし、時計の秒針すら過剰に耳を打つ。


 ――そして、彼らの中には、まだ誰も知らない「影」と出会う者がいる。

 その影の名は、美紀。

 彼女の存在が、この場所の均整を崩し、やがて人々を「安らぎ」とは異なる方向へ導いていくことになる。


























  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る