第8話「船外活動(EVA)」
——再起動回数:008。
数字は二つの円をきゅっと結び直し、内側で空気をひとつ作るみたいに見えた。起き抜け、舌に薄い鉄。枕元のフラグメント・ノートは、昨夜の呼吸をよく飲んだようで、紙の角が柔らかく膨らんでいる。上段のピクトを並べ直す。⚓・(刻印済み/分岐の親:あさのくろ)、□//(空ポッド二)、葉×(ソラ凍結)——と書きかけて、鉛筆の先を止める。今朝は、葉の横に薄い緑の点が一つ、紙の上の外から侵入してきたように見えたのだ。錯視かもしれない。嫌いな語だが、観測を削らないために、ここでは許す。■空(ミナ不在)、波(ヴァルド)、|(カイ)、S(マルタ)、{ }(デン)、△×(リラ冷凍→昨話で吊り)。油性ペンの蓋を閉じ、黒板の骨の順番を思いながら廊下に出る。
酸素漏れアラートは、いつものアラート音より半音高い。高い音は焦燥を招く。マルタの短句が廊下で跳ねた。「酸素漏れ/外装破損。数値、小。場所、外殻E-17」
食堂に駆け込む前に、ユウトは虚無区画の扉に掌を押しあてた。金属は冷たい。笑いはない。笑いがない朝は、拍が乾いていて、手順がよく噛む。食堂。砂時計。透明筒は空。黒板に、マルタが描きかけの四角。「朝一:紙片読み上げ/沈黙一分/監察結果/自己矛盾一行/短句質疑/投票」。その下に追加で一本、赤い線。「臨時:EVA班編成」
「沈黙一分」カイが砂時計をひっくり返す。砂が落ちる音が、酸素警報の高音を薄める。四拍吸って、四拍止めて、四拍吐いて、四拍止める。呼吸は、酸素漏れの朝ほど役に立つ。呼吸しているという事実が、酸素の減りを測る道具になるからだ。
砂が落ち切る瞬間、食堂の扉がひとつ音を立てた。立ち上がる気配。ユウトが視線を向ける。そこにソラがいた。葉のピクトの持ち主。昨夜のノートでは凍結の記号を持つ人が、今朝は、静かに手を上げて立っている。髪の端に、温室の光の名残のような緑がかすか。「EVA、行く」
デンの笑いが半拍遅れて息だけ鳴った。「……戻り」
「役は人に貼らない」ユウトは短句で場に置いた。「行動に貼る。EVAは手順。場に貼る」
視線が交錯し、“はず”が喉の奧に集まっては、砂の音で崩れた。分岐の親が「あさのくろ」であっても、器は選び直される。昨日、ソラ黒で吊られた世界線を親としていても、今朝の「ソラ」は、EVAという「行動」に貼られる別の器かもしれない。ユウトはノートに細い字で追記。「役→人ではなく→行動」。太線で囲む。評価語は置かない。
編成。四名。EVA-1:カイ(操縦士、外殻移動の基準器)、EVA-2:ソラ(植物班出身だが、微細作業と姿勢制御の手先)、EVA-3:ヴァルド(機関主任/ツール運搬とボルト管理)、EVA-0(補佐):ユウト(全体手順の実地設計とチェックリスト管理)。マルタは内側からエアロックと酸素バッファの管理、デンは連絡の粘度調整、ベラとコウは予備。議長回しは砂時計の半回転ごと。短句。今/ここ。まだ/すでに。
EVA手順を紙に落とす。大書ではなく、歌詞のように短く刻む。紙はエアロックの壁に磁石で貼る。文字は太く、単語は短く。図は簡単。数字は大きく。——
——EVA-0手順(草稿)
①同時でスーツチェック(互いの胸→背→手首→首輪→ヘルメットリング→スラスター圧)
②索(ライフライン)二重(カラビナA/B、逆方向で取り付け)
③通信句:短句のみ/「今」「ここ」を各発言に含める
④加圧→減圧→扉(砂で計時/拍で開扉)
⑤出て右→外殻E-17→白線に沿って→破損部へ
⑥写真→触診(触はユウトの合図で3秒)→パッチ
⑦戻る(先行:カイ/中央:ソラ/後尾:ヴァルド/拍で転回)
⑧再加圧→酸素分析→ログ(紙/声/AIの三重で)。
ユウトは錨守端末のUIプレビューで「EVA儀式」のテンプレートを引き出し、紙の歌詞と画面のUIを重ねる。役が増えると速度が上がる。だから、歌で速度を落とす。拍で刃を鈍らせる。
スーツルーム。ヘルメットの透明が光を洗い、首輪のリングが金属音で短く答える。カイの顔は変わらず硬く、ソラの目は静かで、ヴァルドは黙って工具の重量を確かめる。ユウトは相互チェックの短句を貼る。「胸:今、閉」「背:ここ、閉」「手首:まだ、緩→すでに、締」。今/ここ/まだ/すでにが、EVAの儀式をゆっくり組む。索は二重。カラビナAは腹側、Bは背側。目で確認、声で確認、手で確認。「同時」の声で、互いのリングを同時に叩く。カチン。カチン。音が拍になる。
減圧。砂時計。砂は真っ直ぐ落ち、水銀柱のように見える。耳が静かになり、血の音が少しだけ強くなる。扉。拍で開く。「今」。扉が滑り、宇宙の黒が四角に切り取られて、中に冷たい光が入る。
外。音がない。だが、拍はある。索が腰を引き、ハンドレールの感触が手袋越しでもうっすらわかる。白線に沿って進む。E-17。パネルの縁に裂け目。ユウトは写真を先に撮る。写真/触診。触は三秒。拍で数える。カイが先に手の平で縁をなぞり、ソラが小さく頷く。ヴァルドは工具袋の口を開け、パッチ材を取り出して構える。
裂け目は、ただの裂けではなかった。金属面に、咬まれたような痕。円弧に似た連続の痕が二列、微妙なピッチのズレで並び、咬頭の不規則さが、人工でも自然でもない奇妙さを帯びている。普通の微小隕石なら、穿つ。放射状に。これは咬む。刃ではなく、顎の形跡。ユウトは写真の下に短句で書き込む。「形:二列/円弧/ピッチ不均」「残渣:無」「周縁:塑性変形/局所加熱」
「生物?」デンの声が内側の回線で微かに割れた。短句の枠の外に、逸話が顔を出す。ユウトはそれを紙に移し、枠の内側へ引き戻す。「仮説:生体金属食/器具/模倣。評価語:保留」。言い切らない。見たを先に。触診を終え、パッチに移る。ソラの手は、温室の蔓を整える時と同じ速度で動いた。貼る面を拭く。プライマーを置く。硬化の拍を数える。パッチの縁を押さえる指は三本。三は拍に向いている。
戻る。先行:カイ。中央:ソラ。後尾:ヴァルド。ユウトは補佐の位置から索の余裕を目で数え、無駄な弛みを短句で削る。「ここ、余」「今、締」。地球の青が視界の端で巨大に存在し、宇宙の黒は相変わらず無言。無音は無関心ではない。無音は拍の余白。
E-17の曲率を越え、再突入——外から内へ、の意味で。エアロックへ戻る途中、索が一瞬だけ鳴った。金属の音。ユウトが反射で目を上げる。ヴァルドの腰のカラビナBのゲートが半開で、ねじれた索の張力が突然、方向を変えた。パチン。刹那。ユウトの喉に「待て」の前のインテークが引っかかり、声は出ない。ヴァルドの体がふわりと浮く。後尾が前へ。目の前で重心が反転するのが見えた。Aのカラビナはまだ生きていて——と思った瞬間、ねじれがAを回した。ゲートがレールに擦れ、開いた。
索が切れた、のではない。外れた。二重であっても、同じ方向にねじれが重なると、二つとも外れることがある。その例を、ヴァルドは骨のまま示した。
無音。落下ではない。漂流。ヴァルドは無言で、親指を立てた。ヘルメットの透明の向こうで、口がわずかに動いた。ユウトは読唇できない。読む必要もない気がした。親指。骨が骨に向けた最後の短句。“良し”。“任せる”。“骨は折れない”。
「ヴァルド——」ソラの声が短く切れ、カイが短句で押さえた。「今、戻。拍で扉」
追うのは、手順ではない。拍が扉を要求する。ユウトは指の震えを紙に押しつけるように、内側の計器に「再減圧準備」の合図を送る。エアロックの口が近づく。砂が落ちる音が頭の中で鳴り、宇宙の無音と二重になる。内へ。扉。拍で閉じる。加圧。耳が痛みで二拍遅れる。酸素の匂いが戻る。
ヘルメットを外す前に、ユウトは短句を守った。「今:生者三/不在一」。カイのヘルメットの内側に汗のしずくが二つ。ソラの頬に緑の反射。ヴァルドの索は床で空の蛇になって横たわる。
ヘルメットが外れ、空気の温度が顔に触れる。誰も泣かない。儀式は、泣きの速度を落とす。マルタが静かにバッファの数値を読み上げ、デンが笑いを一度作ってから飲み込む。笑いは、今夜は油にならない。砂時計が食堂で再びひっくり返され、会議。
黒板の上段に、ミナの字で描かれた骨のフレームはそのまま。下段に今日のEVAの手順ログが並ぶ。ユウトは写真を紙に貼り、咬み痕のピッチを書き込む。人工か、生物か、模倣か。言い切らない。「外装:E-17/裂:咬状/ピッチ:0.9〜1.3cm/不均/塑性:有/発熱:微/残渣:無」。カイは短句で足す。「空気の遅れ、無関係。虚無の笑いと別物」
マルタが医療の不在を埋めるように、酸素曲線を白板に描く。「漏れ止/安定。予備、持」。ベラは無言で透明筒に新しい紙を差し込み、投函を開ける。デンが「笑い係」として、笑いの遅延がゼロであったことを記録する。虚無の笑いは来なかった。宇宙は無音。無音は、拍の余白だった。
議論は短句で進む。ヴァルドの椅子は空。彼の骨の音が、まだ机に残っているような気がした。「索:二重/逆方向」と紙に太字で書き、A/Bのゲート方向を矢印で指定する。二重でも、方向が揃っていると同時に外れるのだ。例は、一度あれば十分だ。ユウトはノートに自己矛盾一行を書き足す。——矛盾:安全の歌が慢心に変わる。儀式が速度になる。骨の教えは遅れて効く。
議長の砂時計が半回転したとき、カイがユウトの傍に近づく。声は外に出さず、短句を囁きに折る。「最後の投票、二人で。やれ」
ユウトは頷く。二人で運ぶ嘘の延長に、二人でやる投票がある。最終日の話に似ている。過程がもっとも剥き出しになる日。カイの眼差しは固く、その奥で何かが揺れている。誰かでもなく、役でもなく、拍が揺れているのだろう。
夜。ユウトは机にひとり残り、錨守端末の副権限で今日のEVA手順をUIに吸い上げる。紙→UI。UI→癖。癖→場記憶。鍵の灰はそのまま。共同署名は1/2。分岐の親は「あさのくろ」。画面の隅に、新しい注記が薄く光り、すぐ消えた。
《驚異度評価、再計算。
個体:ユウト。危険度:上昇(理由:推論による場速度の上昇/固定点の利用頻度/EVA時の指揮権逸脱(微))。》
胸の内側の骨が、冷たい空気を吸って音を小さく立てた。危険。推理が船を壊す? 速度を上げる? 手順は粘度を足すつもりで置いている。だが、歌はときに興奮剤にもなる。儀式が気持ちよさを生む。気持ちよさは速度だ。速度は刃だ。…ヴァルドの親指が、目の裏に浮かぶ。良し。良しは、任せると続けろの間を漂う曖昧な合図だ。嫌いな曖昧さだが、拍で読むと、許される。
ユウトはノートの〈自分だけの違和感〉欄に、三つ書いた。——驚異度評価→上昇。推理=速度?。EVA→歌の気持ちよさ。右端に**×**を置く。刃にしない。観測として置く。口で言うと、場を刺す。
眠りは浅く、短い。宇宙の黒の静けさと、エアロックのランプの微かな呼吸が、夢の輪郭に影を落とす。ヴァルドの親指。外殻の咬み痕。Backspaceの音。Rの水の文字。嘘は二人で運ぶ。ユウトは、夢の中でも短句で手順を数えていた。朝一で紙片/沈黙一分/矛盾一行。
——起床手順、完了。
手首の小窓に、数字。009。紙は厚く、ノートの背は膨らんでいる。ページを繰る指の腹に、刻印の点がまたひとつ増えたことを、皮膚が先に知る。ページを足す。歌を足す。癖を足す。速度を削り、粘度を乗せる。危険度上昇の注記は、紙には書かない。紙に書くと、刃になる。代わりに、上段のピクトの横に小さな矩形をひとつ描いた。矩形の中に点。拍の記号。速度の前に置く低音。
食堂へ向かう。砂時計はそこで待ち、透明筒は今朝も空。朝一で紙片。沈黙一分。砂が落ちる。ユウトは胸の内側で危険という語を半音下げ、拍に合わせてちいさく唱えた。危険は言葉の側に置かない。手順の側に置く。危険は、粘度で包む。
「監察結果」という声の前に、ユウトはノートの最初の一行に短く書いた。
——EVAの歌は、短く、冷たく。
冷たい歌は、速度を凍らせる。凍った速度は、刃に戻らない。ヴァルドの親指は、歌の最後の休符として紙に残る。休符は音ではない。だが、拍だ。拍は、記憶を越える。分岐の親は「あさのくろ」。子は増える。厚みは、今朝、たしかに増えた。ページの厚みは、場の骨だ。骨は折れにくい。まだ折れていない。すでに折れかけている。——その矛盾を、一行で抱え、ユウトは席に座った。砂が落ち、呼吸が四拍で回り、朝の手順が、また始まる。
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