ノエシスの錨 —議論が世界線を救う—

妙原奇天/KITEN Myohara

第1話「起床手順00:00」

 冷たい眠りは、紙の匂いに似ていた。古い本の頁をぱらぱらとめくるとき、一枚ずつ手触りが指を過ぎていくように、意識が薄い膜を滑って上がってくる。筋肉が自分のものとして戻ってくるたび、胸郭の位置が微かにずれる。目を開ける前に、舌に金属の味。酸素の乾き。氷の溶ける速度を耳で数える。四拍吸って、四拍止めて、四拍吐いて、四拍止める。癖になっている呼吸は、いつ覚えたのか思い出せないのに、体だけが覚えている。


 蓋が開く音は、空気の螺子を外すときの音に似ていた。クライオポッドの縁に薄い霜。白い花弁のように剥がれ、指先で触れるとゆっくり融けて、冷たさの輪郭だけが皮膚に残る。天井のパネルが段階的に明るくなる。光の温度は中性。艦内時間の朝を模した色。


「起床手順、完了。覚醒者は識別をどうぞ」


 落ち着いた女声が耳道に触れた。艦内AIの“声帯”は、いつも薄い微笑を張り付けたような周波数帯にある。ユウトは喉を鳴らしてから、手首を上げた。データタグの小さなガラス窓に数字が浮かぶ。蒸気に濡れて曇り、指で拭って見直す。


 ——再起動回数:001。


 首の後ろに、砂を一粒だけ噛んだような鈍い違和感。見慣れた文字なのに、不意の既視感が刺を立てる。初めてであり、どこかで既に見た、そういう矛盾を抱えた数字。


「AI、覚醒者コードを確認」ユウトは喉の奥の錆を押し出し、声帯に油をさすように言葉を出した。


「乗員IDユウト・イシミ、個体識別一致。身体値基準内。循環器変動、許容範囲。記憶整合率、九四パーセント。補正プロトコル、レベル一を推奨」


「補正は後でいい。外気、艦内状態」


「外殻圧、規定。姿勢制御、安定。地球回線、砂嵐域を通過中。音声遅延増大。艦内異常、なし」


 なし、と言われるときほど、何かがあるのが常だ。ユウトは体を起こし、クライオ室を見渡した。六体分のポッドが並ぶ。霜の膜、凍気の揺れ。彼のポッドの隣——一体分、蓋が開ききっていて、中身がない。冷却液の薄い虹色が、浅い皿に残っているように光っている。


「……一体、空だな」


「空のポッドは三日前の点検時にも確認されています。容器検査を待機中」


「三日前」


「艦内時間換算です」


 既視感は、ここでも顔を出した。三日前の点検。自分は眠っていた。だが、眠る前にあったのか、眠っている間にあったのか、境界が薄い。ユウトは足を床に下ろし、素足で金属の冷たさを確かめる。つま先が床の微細な傷を拾う。起床手順の短い動画が壁に流れる。柔軟、補水、軽い有酸素。手順は手順でしかないが、それに沿っていると、脳の“責任感”が少し安定する。


 ドアが滑る。廊下の音がわずかに低い。人の声。生まれたばかりの音声が、空中に散っては集まり、管を通って流れてくる。ユウトはつり革に似たグリップに手をかけ、居住区へ足を進めた。


 居住区は、いつものように中途半端に片付いている。テーブルの角に固定バンド。カップが重なり、ひとつは逆さに、ひとつは水滴を抱えたまま正気に戻れない顔をしている。壁面の掲示に、乗員の名前と役職。通信士リラ、機関主任ヴァルド、医官ミナ、整備員ジン、植物班のソラ、操縦士カイ、生命維持のマルタ、補給管理のデン。八名——と、そこには書かれている。今朝ここに集まっているのは、そのうちの何人だろう。


「おはよう、ユウト」


 先に目が合ったのは、通信士のリラだ。濃紺の髪を後ろで束ね、短く浮く前髪をひとつのピンで押さえている。声は明るいが、その芯はいつもすこし早い。「地球回線、砂嵐。窓口はあるけど、向こうの天候で砂が立ってる。音声は可能、映像はノイズのモザイク。遅延、二秒から四秒」


「砂の音は、好きじゃないな」とヴァルドが言う。機関主任の声は、振動で床を撫でる。彼は体が大きく、髭がいつも“面倒”の色を持っている。「電力配分の波形、朝から変だ。ピークが一段ずれてる。誰か夜中に食器洗ったか?」


「洗い物はデンが夜に回してた」マルタが答える。小柄で、両手がいつでも管を握れるようにしている。「再循環の音もいつもより半音落ちてた。気持ちの問題かもしれないけど」


 医官のミナは、手帳を持ったまま誰かの背中を押している。「起動後の循環障害、出やすいから気をつけて。睡眠と覚醒の接合部で、記憶の整合がズレる。栄養ゼリーを少しずつ。朝から重い話は避けましょう……と言いたいけど、避けられないときは避けられない」


「あんたがそれ言うと、余計に構えちまうっての」デンが肩をすくめて笑う。補給担当は、笑うときに目尻を下げる癖がある。「まあ、出すよ。甘いやつから」


 テーブルにゼリーが配られる。透明なパックに数字。ユウトはパックの角を噛み、舌に再び金属の甘みを感じた。味覚が帰ってくる。胃が自分の名前を思い出す。


「ところで」カイが壁にもたれたまま、手を上げた。操縦士は無駄な言葉を避ける。「空のポッド」


「見た」ユウトは短く返す。


「前回の点検でも空だった」とヴァルド。「三日前」


「三日前」ミナが復唱する。「わたしたちの三日前、地球の何日前?」


「地球の天気は砂嵐だ」とリラ。「数字に直すと味気ないからやめよう。はい、職務確認。手短に。通信、遮断傾向。機関、配分波形が変。医療、循環障害に注意。整備は——」


「整備は、エアロックのチェックがまだ」とジンの声が、廊下から飛び込んできた。明るい声。整備員の足音は、よく響く。足裏が軽くて、床が小さく跳ね返す。「先に水処理確認する。リラ、砂嵐の波形、後でログくれよ」


「はーい。砂嵐は友達。いや、やっぱり友達じゃない。敵のほうが面白い」


「敵は語彙を増やすね」ミナが苦笑する。「手短に、みんな。記憶の継ぎ目がまだ柔らかい間に、体を動かす仕事を振り分けましょう。思考は後で硬くなる」


 自己紹介は、公式手順で行われた。名前、役職、今朝の体調、担当エリア。口慣らしのような儀式。ユウトも順番がきたとき、短く言った。「ユウト。担当は航法補助。体調は普通。違和感は、少し」


 違和感は、言葉にすると軽くなる。軽くなるけど、消えない。消えないけれど、他人に見せると、自分の手から離れてくれる。ユウトは誰かの顔色を窺い、皆が笑っているのを見た。笑いは悪い薬ではない。


 笑いが細く伸びた直後、甲高い鳴き声が艦内を貫いた。警報。液体の表面に投石したときの波紋みたいに、音が胸腔を叩いた。音は短く続き、二つ目の音は少し低い。ヴァルドが立ち上がる。リラの顔から色が少し剥がれる。ミナは手帳を閉じ、目だけが硬くなる。


「どこ」カイ。


「エアロック、外側弁の異常閉塞」マルタが壁の表示を指で払う。「内部圧の急低下。……人影、あり」


 ユウトは走っていた。体が先に動いた。廊下に、靴音が折り重なり、脚の筋がひとつの縄のように伸びる。走りながら、手首のタグが袖にこすれる感触だけが異様に鮮明で、その数字——001——が目の前に突き出されるように胸の内で光っていた。


 エアロックは、二重の扉を持つ狭い喉だ。マルタが内側弁に手を当て、バイパスを呼び出す。窓から見えるのは、仄暗い空間と、床に伸びる足の影。ユウトは肩で扉を押し、内側の圧を取り戻すのを待つ。その数秒が、砂粒のように長い。


 扉が開いた。


 ジンがいた。あるいは——ジンの形をしたものが、床に横たわっていた。顔は青く、口は半分開いている。手はエア弁に向けて伸びたまま固まっていた。表情には驚愕と、最後の選択の痕が等しく刻まれている。ユウトは膝をつき、頬に触れた。冷たい。冷たいけれど、柔らかさはまだ残っている。ミナが脈を取る。首を横に振る。息はない。


「外側弁、閉塞痕あり」ヴァルドがコンソールに噛り付く。「遠隔じゃない。手動で、締められてる」


「誰が」マルタの声は、喉の奥でささやく。


「記録映像」リラ。


「破損」マルタが無表情に答える。「この二分、映像が砂嵐」


 砂嵐。砂嵐がここにもいる。ユウトは自分の舌を噛んだ。血の気配はない。噛むのは痛みを現実に変える最短の方法だ。


「会議にしましょう」ミナの声は、静かで硬く、かつ、優しかった。「ここで議論しましょう。誰が何を見たか、何を聞いたか、何ができたか、何ができないか」


「議論の場は食堂だ」ヴァルドが言う。「死体は——」


「私が預かる」ミナが頷く。「ジンの個人識別を保管庫へ。……閉じてから話しましょう。誰かが手で弁を閉めた。それは、偶然ではない」


 食堂に、空気のひびが入った。さっきまでの温度が、少し、低くなる。カップの水滴が脚色のない現実に戻り、壁の掲示の紙が冷たい息を吐く。リラは手を震わせずに通信ログを引き出し、ヴァルドが電力波形のグラフを大きくする。ミナは白手袋を脱ぎ、手指の関節を伸ばす。カイは壁にもたれ直し、ただ視線だけを少し落とした。ソラは椅子に座り、両手でカップを包む。マルタは鼻から長く息を吐き、デンは笑わない。


「議題を整理する」ユウトは、意識的に短い文を選んだ。言葉は、短いほど場の速度を落とす。「一:ジンの死。二:外側弁の手動閉塞。三:映像破損。四:各自の動線」


「五:ここにいるのは、誰」リラが付け加える。「つまり、ここにいない誰かがいるか?」


 壁の乗員表の名前が、ユウトの眼に順に入ってくる。リラ、ヴァルド、ミナ、ジン(亡)、ソラ、カイ、マルタ、デン、ユウト。——九。今、食堂にいるのは八。ジンの席だけが空いた。空のポッドは、また別の穴として口を開けている。


「わたしたちの中に、擬態体エコーがいる可能性がある」ミナの声が、言葉そのものの温度を持っている。「顔を持ち、名前を持ち、手順を真似る。——わたしたちの誰かが、わたしたちでない何かである可能性」


「早いな」ヴァルドが眉をしかめる。「疑いの言葉を今出すのは、場を割る」


「遅いよりはいい」リラ。「言葉にしない疑いほど、匂いが強くなる」


「エコー、か」カイが低く言う。「噛みつかず、手順を壊す者」


「伝承じゃなく、訓練で聞いた」マルタ。「エコーは“結果を先に食う”。プロセスを短絡させる。結論に飛びつかせる。笑ったように見えて、笑ってない」


 ユウトは、手首のタグが袖の裏で動くのをもう一度感じた。001。その数字は、今この場の議論の前にも後にも、関係があるようで、ないようで、ある。「まずは動線」ユウトは言った。「全員、時間、場所。二分間の穴に誰がいる」


「私から」リラはすぐに言葉を重ねた。彼女はいつも、言葉を先に走らせてから、脳の足取りで追う。「私は通信室。砂嵐の波形、ログ取り。ヴァルドの波形と同期を試した。ミナと回線のフラットニングの話をした。二分間のうち、三十秒は廊下。カメラ——砂嵐。嫌な言い方だ」


「機関区。波形。ログの蓄積。電力振る舞い。二分間、移動せず」ヴァルドは短く切る。


「医療室から搬送カート。エアロックへ向かう途中、警報。走ったのは一分強。残りの一分は、何度も再生するけど、使えない映像を見続けていた」ミナの声は淡々と、しかし自分の言葉の背骨を自分で支えるように硬い。


「水処理区から扉前。鍵、確認。廊下、二十秒。エアロック前、一分」マルタも短く。


「倉庫。粥の準備。音を聞いて廊下。エアロックへ四十秒。残りは……走った」デン。


「温室。照明の調整。停電はなかった。音に驚いて——足が止まった。走った。エアロックまで一分半」ソラ。


「操縦区。姿勢制御は安定。音で出た。エアロックへ、一分四十。……間に合わなかった」カイ。


「航法補助。クライオから、そのまま居住区、食堂。そこで警報を聞いて、エアロックへ七十秒」ユウト。


 秒が唇から滑り落ち、床に並んで冷えていく。リラの指が机上でリズムを刻む。ヴァルドの腕が組まれ、筋肉の線が袖越しに浮く。ミナは手帳に短く矢印を描く。矢印の先は、誰も指さない。


「結論に飛びつかない」ミナが自分に言い聞かせるように呟いた。「——でも、投票は必要」


「投票?」デンが顔を上げる。


「冷凍拘束」ヴァルドが言葉を選ぶ。「あの冷凍。仮に“危険因子”がいるなら、一時的に行動を止める。証拠がなくても、止血として」


「誰を」リラの目が、場を一巡りする。「こういう時は、口数の少ない者が狙われる。悪習だ。けど、ほかに手がないなら——」


「口数の少ない者を吊るすのは、怠惰だ」ミナが言葉に鋼を通した。「怠惰は危険だ。危険は早い」


「なら、どうする」ヴァルド。「誰に票を置く」


 言葉が宙で止まる。止まっている間に、言葉ではない何か——匂い、温度、微かな目の動き——が場の表層を薄く撫でていく。この撫でるものが、議論を“結果へ”押し、エコーを喜ばせる種類のものだと、ユウトのどこかが知っていた。知っていた、と言語化すると、それがまた、場に別の意味を注ぎ込む。


「……初回特有の甘さ、ね」リラが自嘲気味に笑った。「私たちは初回にいる。初回は、いつも軽い。軽いまま、誰かが重さを持つ」


「ジンのことを“最初からいなかった”と、言いたくなる未来が来る」ユウトの口が勝手に動いた。「そう言ったほうが、動きやすいから」


 ミナがユウトを見た。目の底で、彼の声の温度を測るように。「ユウト、あなた、起きたときから違和感と言った。どんな」


「数字が……」ユウトは、袖を少しめくった。タグの窓に、001がある。「この数字を見た時、既視感があった。初めてなのに、もう見た気がした。空のポッドを見た時も、同じ」


「循環障害の一種だと考えるには、具体的だね」リラが顔を寄せる。「再起動回数。——“再起動”。やだな、言葉が軽くて重い」


「今は、重い言葉を軽く扱う余裕はない」ヴァルドが手を上げる。「投票だ。仮に、口数が少ないか、動線に曖昧があった者へ。異論は多いだろうが、止血は必要」


「わたしは、票を受け入れる」ソラが静かに言った。椅子に座ったまま、カップを置く。「私、走るのが遅かった。温室で足が止まった。皆の感情の導線になれない」


「自分で自分を差し出すのは、礼儀に似ていて、危険だ」ミナ。「でも、今は礼儀が必要。——わたしは、デンに一票」


「え、なんで」デンの目が丸くなる。


「倉庫にいた。供給鍵があなたのカードにある。外側弁に近づける距離に、あなたはいた」


「それ言ったら、全員近づけるよ、状況的に」


「確率は平等ではない」ヴァルドが頷く。「俺も、デンに」


「私も、ソラじゃなく、デン」リラが手を上げる。「理屈づけはヴァルドと同じ」


「私は——」カイが少しだけ間を置く。「沈黙。ミナに一票。役を早く名乗った者から疑う癖がある」


「……そう来るか」ミナが苦く笑い、頷いた。「受け取る」


「私は、ヴァルドに」ソラが口を開く。「波形に近い者は、意図せず手を触れられる」


「俺が弁まで走るなら、お前より遅い」ヴァルドは肩をすくめる。「まあ、受ける」


「ユウト」リラが視線で問う。


 ユウトは、手の甲の血管が浮くのを見ていた。投票は、刃物で、手順だ。投票を、過程の歌に変える術を、彼はまだ知らない。初回の議論は、甘い。甘いものは、喉に残る。「……自分に入れる」


「なんだよ」デンが笑う。「それ、ずるいし、好き」


「一票、ユウト」ミナは控えめに言った。「わたしたちは、互いの矛盾に票を置く術を知らない。今は、各自の“納得の置き場”に票が集まる」


 票が集まって、合計が出る。デンに三、ミナに一、ヴァルドに一、ユウトに一。冷凍拘束室の前で、デンは両手を広げ、いつもの癖で笑おうとした。笑いは少しだけ遅れて、頬の上で迷った。


「凍るのは初めてじゃないさ」デンは言った。「——いや、初めてだ。初めてって言っておく。凍ってる間に、悪夢は見ないといいな。砂嵐の夢は好きじゃない」


「十五時間。監視する」ミナは端末に刻む。「過程は記録に残す。結果だけで動かない」


「結果はいつだって好き勝手に先に来るよ」リラがぼそりと言った。「だから、過程に手をかけよう。でも、今は——」


「今は、眠れ」ヴァルドが言った。「目を閉じろ。目を閉じるのは、弱さじゃない。明日、また起きる」


 デンが拘束室に入る。透明な扉が閉じる。薄い霜が扉の向こう側に花を描く。ユウトは、胸腔の奥の砂粒がまだそこにあるのを感じた。眠気は、来ないふりをして近づいてくる。近づいてきて、最初の関節に触れ、次の関節に触れ——最後に、瞼に乗る。


 ——眠り。


 眠りの向こうに、白い紙が見えた。紙には数字。001。その下に、浅い鉛筆で小さな矢印。矢印の先に「起床手順」。その次に「空のポッド」。その次に「砂嵐」。その次に「ジン」。その次に「投票」。その次に「眠る」。紙は一枚。裏は白い。裏に、何かが透けている。文字の影か、笑いの形か。ユウトは紙をめくろうとして、指が紙の端に触れない夢を見る。紙は軽すぎて、風が先にめくってしまう。風は、砂を運ぶ。


 ——起床手順、完了。


 AIの声が、同じ温度で耳へ触れた。ユウトは目を開け、喉を鳴らし、手首を上げた。タグの窓に数字。


 ——再起動回数:002。


 脳が、砂をひとすくい飲み込んだ。胃が自分の名前を忘れかけ、胸が浮く。視界の縁で、クライオ室の光が一段階、弱くなったかのように見える。隣のポッドは、また空。冷却液の虹。——違う。これは、同じだ。


「AI、覚醒者コード」


「乗員IDユウト・イシミ、一致。身体値、基準内。循環補正、レベル一を推奨」


 ユウトはポッドから足を下ろし、床の微細な傷をもう一度拾った。傷は同じ場所にあるのに、舌の金属の味が濃くなっている。呼吸を四拍に整える。四拍吸って、四拍止めて、四拍吐いて、四拍止める。手順は、手順として残っている。数字は、変わっている。扉が開く。廊下の音は、同じ。居住区の気配も、同じように立ち上がり、同じように誰かの声が重なるだろう。リラの笑いも、ヴァルドの低音も、ミナの手帳も、カイの沈黙も、ソラのカップも、マルタの長い呼吸も、デンの——。


 食堂に入ったとき、ユウトは一瞬、耳がおかしくなったのかと思った。誰も、ジンの名を口にしなかったからだ。名札の上の磁石は動いていない。壁の掲示の名前は、今朝も、同じ順で並んでいる。デンはいつもの癖でカップを二つ重ねて、笑おうとして、やはり少しだけ遅れて笑った。


「おはよう」リラが手を振った。「地球回線、砂嵐。音声は辛うじて。映像はモザ。遅延は三秒前後。嫌い」


「波形、朝から変だ」ヴァルドが腕を組む。「食洗、夜に回した?」


「回したのは俺だ」デンが言った。「砂糖は足りてる」


「循環障害に注意」ミナが手帳を持ち、「起床直後の重い話は——」


「避けられないときは避けられない」ユウトが続けた。彼の口の中の言葉は、誰のものでもない歯型をしている。「エアロックは?」


「エアロック?」マルタが瞬きした。「何かあった?」


 ユウトの中で、何かが薄い紙を一枚、裏返した。裏には何も書かれていないはずなのに、指に墨がつく。彼は手の甲を擦り、顔を上げた。目の前の空が、ほんの少しだけ、昨日よりも重い。彼は喉の奥で砂を砕き、笑って、言った。


「いや、何でもない」


 その言い方は、誰かが自分に教えたものに似ている。誰かが——自分自身かもしれない——“初回の甘さ”を笑ってみせたときの、あの軽い平静。


「自己紹介と職務確認を」ミナが言い、リラが「地球回線は砂嵐」と言い、ヴァルドが「波形が変だ」と言い、ソラが「温室の湿度は安定」と言い、カイは「操縦区、異常なし」と言った。デンは「今日のゼリー、甘い」と言い、マルタは「水処理の音が半音落ち」と言った。ユウトは「違和感は、少し」と言い、皆は笑った。笑いは悪い薬ではない。


 ——警報が鳴る前に、ユウトは息を吸った。砂粒が喉で丸くなっていくのを、今度は見てやる、と心のどこかで文を書くように、思った。手順は歌だ。歌なら、次はもう少しましに歌える。音は違う場所で壊れるかもしれない。だが、歌はここに残る。


 警報。音の高さは、やはり二段階。ユウトは走った。既視感は、今度は“差分を探せ”という指示になって薄く背中を押す。エアロックの前で、扉は閉まっていた。ガラスの向こうに、何もいない。何もいないことが、昨日よりも怖い。マルタが慌てずに手順を踏み、ヴァルドがコンソールに噛り付く。ミナが走りながら手袋を嵌める。リラがログを開き、ソラが足を止めない。カイが肩で息をする。デンが笑わない。


 結果は、今度は出ない。出なくても、過程は残る。ユウトは、壁の時計の端に視線をいったん置き、四拍吸って、四拍止めて、四拍吐いた。タグの数字は、手首で静かに光っている。002。数は冷たい。冷たい数に、体の側から温度を渡すしかない。


 会議は、やはり食堂に戻って開かれた。今度は、誰も「エコー」という単語を先に出さなかった。代わりに、ミナが紙を配った。罫線だけの紙。上に「やった」「見た」「できる/できない」とだけ書かれている。評価語はない。


「書いて。短く。最初の議論で、言葉が長いと、結果が先に来る」ミナの声は、紙の端の直線に似ている。「噛み合わない歯車は、油で回る。油を、言葉の間に置く。——この紙が油になる」


 ユウトはペンを握った。手は震えていない。震えていないのに、線が波打つ。彼は、最初の行に「違和感:数字」と書いた。次に「空のポッド:ある」。次に「砂嵐:同」。次に「エアロック:無事」。次に「——ジン」と書きかけて、ペン先を止めた。ジンは、紙の上にいない。紙の外に、誰かの笑いがある。笑っていない笑いが、薄い膜を揺らす。


 リラは「砂嵐」「遅延」「嫌い」。ヴァルドは「波形」「変」。カイは「異常なし」「沈黙」。ソラは「湿度」「安定」。デンは「配給」「甘い」。マルタは「水処理」「半音」。ミナは「循環」「注意」。誰も「死」を書かない。誰も「消失」を書かない。紙は、書かれたことしか覚えない。書かないことが、紙の白の中で音を立てる。


「——投票?」ヴァルドの声が硬い。彼は、冷たい手順を冷たいまま扱う術を知っている。


「投票」ミナが頷く。「でも、今度は、なぜの欄を作る。理由は一行。自分の矛盾を書いてから、一票を置く」


 初回は甘い。二回目は、少しだけ苦い。苦さは舌の隅に残り、砂を丸くする。ユウトは、紙の下段に一行書いた。


 ——自分の矛盾:既視感を信じるくせに、言葉にすると軽く扱う。


 彼は、票を置いた。最初に、何が正しいかはわからない。ただ、何が手順かは、わかりつつある。手順は、次に残る。残って、歌になる。


 タグの数字は、袖の下で静かに光っていた。二。いい数だ。二拍で歩いて、二拍で止める。二歩進んで、一歩戻る。扉は開くためにあり、壁は通すためにある。壁は、歩くこともある。歩く壁のやり方は、いずれ誰かが教えてくれるだろう。自分か、未来の自分が。


 ユウトは、息を吸った。砂の匂いは、まだ喉にある。味は、少しだけ薄くなっていた。

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