第2話

第4話「巻かないで支える」


 記録会の朝は、雲の底が低く、光が薄紙みたいに均一だった。明るいのに、影が立たない。洗面所の鏡に映る自分の顔は、眠りを削った夜よりも、覚悟の方で少しだけ輪郭がはっきりしている。頬に水を打ち、タオルで押さえる。今日、俺は巻かない。そう決めた言葉を、喉の奥で一度ゆっくり転がす。舌にわずかに金属の味がするのは、恐怖の匂いなのか、期待の味なのか、判断できなかった。


 玄関で紐を結び直す。輪を弾いて、跳ねを見届ける。穏やかに跳ねた。扉を閉める前に、内ポケットの時計に指が伸びる。触る。開けない。開けないという行為にも、微細な筋肉が要る。肩の高さで息を一つ吐き、踵を返す。朝の街は、日曜の静けさをまとっていた。遠くの交差点で、子どもがランニングバイクを蹴り、親の手が後ろから軽く添えられている。支えるとは、押すことでも、引くことでもなく、手をそこに置いておくこと——その姿が、今日の目標の形を教えてくれた。


 校門で霧島に会う。彼はいつも通りの白いイヤホンを片耳にだけさして、反対の手で紙コップのコーヒーを暖めていた。湯気は薄い。紙コップの縁から立つ湯気の量と、彼の表情の薄さが比例して見えるのは、俺の思い込みだ。


 「宣言は?」


 「巻かない」


 「部内共有、よろしく。意思表示は、行為の半分」


 「上手いこと言うなよ」


 「上手いこと言ってる自覚がある。久遠には、別ルートで伝えてある」


 名前が出た直後、背後から軽い足音。振り向くと、久遠が日差しを一枚服の上に重ねたみたいに現れた。紺のジャージの上に、薄いグレーのパーカー。前髪が風にわずかに持ち上がる。目の奥に、今日という日の重さの影が見えない。


 「何かあったら、私が巻く」


 彼女の言い方は、いつも宣誓に似ている。短く、等間隔で置かれた言葉。俺は頷くのに、一呼吸必要だった。


「……頼る」



 頼る、という語感は、想像していたより重かった。俺の中で、援助を求めることは、どこかで「怠け」と同じ棚に置かれていた。けれど、違う。役割分担は、怠けとは別の言葉だ。俺が今日選んだのは、「巻かないで支える」役。久遠が担うのは、「巻いて守る」役。支えると守るは、似ているのに、体の使い方が違う。混ぜると、どちらも濁る。


 トラックは、朝の空気で渇ききってはいない。前日の小雨の残りが、赤いゴムに薄く沈んで、手で触れば柔らかいだろうと予想できる。観客席のアルミは、まだ体温と和解していないのか冷たい。早めに来た父兄は、荷物を端に寄せ、メガホンの確認をしている。顧問の声は、不思議と遠くで響く。「集合——アップ三周から」。声を聞くだけで、ここが学校ではなく競技場であることを体が思い出す。


 俺は、まずやるべきことを先にやる。部内共有用のホワイトボードに、今日の役割分担を書き出す。「湊——巻かない。撮影/動線確保/連絡」「霧島——記録/教師連携」「久遠——巻く判断/介入」「蜂谷——保護者対応/救護導線」。文字を置くたびに、自分の覚悟にインクが触れていく気がする。


 書き終えて振り向くと、霧島が顎を上げた。「よし。じゃ、開始。今日は湊にとって、試合ね」


 「俺は走らない」


 「走るより難しいことをする。走らないで、速くなる、みたいな」


 彼の比喩はいつだって、少しだけ意地悪な角度で来る。俺は肩をすくめ、スマホのカメラを起動した。ズームはしない。揺れが増える。足場を確かめ、観客席の端に三脚を立てる。ネジを回して固定する。その手つきは、昨日の倉庫の延長コードよりずっと簡単で、ずっと難しい。


 「湊、ちょっといい?」


 背後から呼び止められ、振り返ると、亜子の母、沙織さんが立っていた。ベージュのコートに、例の紫の手提げ。髪は襟足でまとめられ、横顔の線が亜子とよく似ている。微笑の角度も似ているが、目の奥に違う種類の光がある。大人の光。何かを諦めず、何かを諦めた人の光。


 「湊くん、来てくれてありがとう。すぐに話があるわけじゃないの。ただ……今日の私は、最後までいられないの」


 言葉の置き方は柔らかいが、内容ははっきりしている。俺の胸のどこかが先に反応し、頷く準備だけが先行した。


 「仕事? ですか」


 「ええ。どうしても。ごめんね。あの子には、今は言わないで。走る前に渡す重さじゃないから。終わったあとで、あなたから……『動画を撮ってある』って言って渡してくれる?」


 紫の手提げの持ち手を握る指が、わずかに白くなる。罪悪感で血の気が引くという表現を、指が正確に演じている。俺は、霧島の言葉を思い出す。「“巻かない日”の選択は、未来の自分が引き受けられる痛みを選ぶことだ」。今日、俺が選ぶ痛みは、「後で渡す」。渡す時に、亜子の顔がどんな形になるかを想像する。想像の中で、彼女は眉根を寄せ、笑おうとして失敗する。俺の胸のどこかも、同じ形で失敗する。


 「わかりました。終わったら、俺から」


 「ありがとう」


 沙織さんは、言い終えてから少しだけ黙り、「あの子の走りは、あなたの言葉に強く影響される」と付け加えた。「だから今日、あなたが言うことは、少しだけ少なくていい」


 胸の奥の空洞に、丁寧な釘が打たれた感じがした。少なく言う。少なく言うことは、無言ではない。選んで残す。俺は頷き直し、カメラの角度を調整しながら、頭の中の言葉を削り始める。


 アップの列が周回を重ねるたびに、空気の流れが一定になっていく。トラックの外側を回るたびに、亜子が視界に入る。肩の位置、肘の戻し、腰の高さ。どれも穏やかで、力が外に漏れていない。コーチが横を走って声をかける。「三歩目、落ちるな」。彼女が頷く。——俺が言う必要はない。俺が言ってしまうと、彼女自身の気づきから彼女が遠ざかる。必要なのは、リマインドだけ。練習で拾った癖の、微細な輪郭線を指でなぞる程度。


 スタート前、彼女が位置につく直前、俺は呼吸を合わせてから、短く言う。


 「三歩目、落としすぎないで」


 亜子の横顔が、ふっとこちらを見る。「うん」。それだけ。余計を足さない返事。それでいい。


 ピストル。乾いた音が、空に穴を開ける。風がそこから抜けていく。スタートは、合っている。二歩目で重心が前に出て、三歩目でほんの少しだけ躓き気味になりかけたところで、彼女が自分で修正する。腰の高さを、落とさない。水切りみたいに、リズムが滑る。カーブで外に押し出される力を、彼女の内側の筋肉が受け止める。俺の指は、時計の蓋に無意識に触れようとする。その手を、反対の手で押さえる。今日、俺は巻かない。彼女の時間を、彼女に返す。


 最後の直線。呼吸は乱れているが、拳の握り方がわずかにほどけ、腕の振りが場を割る。観客席の足音がいくつか立ち上がる。誰かが名前を呼ぶ。彼女は、声の方を見ない。自分の中にだけ線を引いて、その線の上を走る。ラインを踏んだ瞬間、彼女の体から、見えない何かがふっと抜けた。抜けた空間に、笑いが流れ込む。笑いと涙が同時に来る。わかりやすくて、わかりにくい顔。俺はカメラを固定したまま、スマホとは別に、目でも彼女を撮る。目にしか残らない角度はある。


 電光掲示板が数字を並べる。自己ベスト。ぱらぱら、と拍手が散り、すぐにまとまって波になる。彼女はしゃがみ込み、膝に手を置いて喘ぐ。息が落ち着いたところで、顔を上げ、観客席を探す。目が、すぐに一点で止まり、また動く。止まらない。——いない。彼女の母は、もういない。


 ここで、俺が受け持つ痛みの時間が始まる。足が、許可を求めるみたいに一度すくむ。霧島は、少し離れた位置で腕時計を見ている。久遠は、俺の隣に立って、静かに手を組んでいる。彼女の視線は、俺に向かっているが、俺を通過して彼方の空を見ているようにも見える。それはたぶん、二つの層を同時に見る眼差しだ。俺は、スマホの録画を止め、スクリーンショットでタイムの表示を保存し、それからゆっくりとトラックの内側に降りる。


 「おつかれ」


 呼吸がまだ深い彼女に、短く言う。言葉は軽く。俺の声を重くしない。


 「うん。——ねえ、見た?」


 「見た。録った」


 俺はスマホの画面を見せる。亜子は画面を覗き込み、笑いながら、すぐに顔を上げた。


 「お母……」


 言葉の途中で、彼女の顔が変わる。探す視線が、そこに誰もいないことを再確認する。笑おうとする筋肉が、ほんの少しだけ間違った方向に動く。


 「お母さん、仕事で、どうしても戻らないと。——動画、撮ってある」


 俺は、用意していたとおりに言う。用意していたとおりに言うことは、誠実ではないかもしれない。けれど、今は、言葉を間違えないことの方が、誠実に近い。胸の中で、いろんな言葉が行列している。トップにいるのは、選ばれた言葉。列の後ろにいるのは、まだ出番のない、正直や怒りや慰めの破片。彼女に見せるのは、一個でいい。


 「……わたし、勝ったのに」


 目の端に水の輪郭だけが出る。こぼれる前に、彼女は笑おうとする。笑いは、失敗する。失敗した笑いは、笑わなかった顔よりも痛い。俺の背中の内側で、何かが反射的に叫ぶ。巻けば、消せる。巻けば、三分前に戻れる。三分前に戻ったら、俺は彼女の肩に手を置き、冗談の一つでも言って気をそらすことができるかもしれない。違う。違う。今日、俺は巻かない。痛みを消すことは、彼女の「勝った」を薄めることだ。痛みも、勝利の成分だ。薄めたスポーツドリンクは、体に悪い。


 「次、だ」


 俺は、未来形で言う。「次は、一緒に観てもらおう。そのための準備、俺もする」


 「準備?」


 「今日みたいに、仕事の予定が重なるかもしれない。だから、事前に日にちを、ちゃんと合わせる。送迎の段取りも確認する。動画の撮り方も、工夫する。カメラの位置……俺、今日よりずっと上手く撮れる。——今日の“勝った”も、ちゃんと見せる。お母さんがいない、っていう事実を、今日の“勝った”の上にだけ置かないで済むように。次に持っていく。持っていく準備を、俺も一緒にやる」


 言いながら、自分で驚いた。俺の口から出たのは、慰めではなく段取りだった。けれど、亜子の目は、その段取りを嫌がらなかった。彼女は頷く前に一度だけ視線を落とし、唇の裏側で言葉を噛んだ。


 「……うん。次、ね」


 頷きは小さいが、折れていない。それでいい。立ち上がった彼女の背中に、汗が淡く光る。俺は、そこに触れない。触れないことも、支えの一部だ。触れたい手に、ポケットの時計の冷たさを渡す。蓋は、開けない。


 部室に戻ると、霧島がホワイトボードを指でとんとん叩いた。「湊、よくやった。巻かないで正面から受けた」


 「気持ち悪い褒め方はやめろ」


 「愛だよ」


 「それ、昨日も聞いた」


 霧島は薄く笑い、マーカーで新しい項目を追加した。「次の課題——“巻かない日”の翌日は、巻きたくなる。節制の反動。暴発注意」


 「暴発?」


 「今日、抑えた分だけ、明日以降のどこかで、感情が出口を探す。湊にも、亜子にも、亜子の母にも、起こりうる。特に親子は危ない。今日の『いなかった』が、夜になって膨らんで、ぶつかる」


 言葉の表面が冷たい。冷たいけれど、それが皮膚を刺さず、内側に沈むのは、俺が今日、現実の温度を正しく触ってきたからだ。霧島は続ける。


 「ここで巻くか、巻かないか。湊は巻かない。久遠は、状況を見て巻く」


 久遠が静かに頷いた。「私が見てる」


 「見てる、って言い方、怖い」


 「観測と介入は、違います。今日は、観測を先に。必要なら、一回だけ巻く」


 「一回だけ、は、強い言葉だな」


 「強いから、効く」


 久遠の言うことはいつだって、余計がない。不安も、慢心も、声に乗らない。声の中の空洞が、きちんと空洞のまま、響く。


 夕方、記録会が終わり、片付けの段取りが一段落した頃、俺は閑散とした観客席でひとり座っていた。空は、朝の均一から少しだけ陰影を取り戻し始め、雲の隙間から柔らかい光が斜めに落ちる。肩の内側に、重さが戻ってくる。巻かないで立っていると、重さは体のいろんな場所を選ぶ。ふくらはぎ、腰、背中。どこに置くかを自分で決められないのが、少しだけくやしい。


 スマホが震える。メッセージは、丁寧な言葉で短い。「今日はありがとう。動画、夜に一緒に見ます」。差出人は、沙織さん。紫のハートが最後にひとつ。絵文字は、句点の代わりだ。俺は「こちらこそ」と返したあと、送信ボタンに指を置いたまま止まる。余計な言葉は、今日だけは増殖しやすい。親切の皮を被って、自己満足が混ざる。送信。すこしほっとする。ほっとする自分に、わずかに苛立つ。感情の動きに、遅れて名前がつく。


 夜。マンションの前。街路樹の影が、風に揺れて、地面に水面みたいな模様を作る。久遠が、エントランスのガラス扉から出てきた。薄いパーカーのフードを下ろし、前髪を指で押さえる仕草が、くたびれているのに、揺らいでいない。彼女は俺を見ると、結論だけを言った。


 「大丈夫。少し泣いて、仲直りした。一回だけ巻いた」


 「……ありがとう」


 「当然」


 言い切る声。彼女の「当然」は、俺の想像していた「当たり前」とは違う。思考の近道ではなく、長く歩いた後で選んだ直線だ。


 「どうなった?」


 久遠は、手短に説明する。夕食のあと、リビングで動画を一緒に見ようとしたとき、沙織さんが「明日は早いから」と立ち上がった。亜子が「今日だけは」と引き止める。ふたりの声の高さが半歩ずつ上がり、同じ文の中に別々の主語が混ざる。「わたし」と「あなた」と「仕事」と「わたしたち」。久遠は、その場に座って観測した。限界が近づいたところで、一回だけ巻いた。巻く直前の言葉を記録し、巻いた直後、久遠は台所に立ってコップの位置を静かにずらした。ほんの少しの物音で、呼吸が切り替わる。小さな音の間に、短い謝罪が差し込まれる。謝罪は、ふたりのうちどちらからともなく起きた。そこから、泣く。泣くのは、良いことだ。泣き終わって、動画を見た。最後に、亜子が「次は一緒に」と言い、沙織さんが「次は合わせる」と言った。久遠は、そこで観測を終えた。


 「巻いたとき、酔わなかった?」


 「酔わない。耳鳴りは、あった。でも、数えた。十秒。数が数字から音に変わる瞬間を待つ」


 昨日、部室で彼女が教えてくれた方法。俺は頷きながら、彼女の目の奥を探る。そこに、薄い傷の層がある気がする。目に見えない、指で触れない。彼女の「当然」の中に沈んだ傷。助けられた側として助ける、という彼女の選択は、彼女自身の負荷をどこに捨てるかという問題を内包する。捨てる場所がないと、人は体のどこかに埋める。埋めると、時々、そこが疼く。疼くと、人は、平気な顔の仕方を覚える。


 「ありがとう。ほんとうに」


 俺の言い方は、感情が少しだけ遅れて追い付いた結果の厚みを持っていた。久遠は、首を横に小さく振る。


 「次は、あなたの番。巻かないで、話す番」


 「わかってる」


 「それから、あなた自身が暴発しないように」


 その可能性に、俺は正直、考えが浅かった。今日、抑えた。抑えた分、どこかで出る。それは、俺にも当てはまる。時計の蓋を開けてしまいたい衝動が、夜の方が強くなるのは、そういう構造のせいだ。


 帰り道、コンビニのガラスに映る自分の歩幅が、少しだけ不規則だった。家に着いて、シャワーを浴び、冷蔵庫の水を飲む。味のない水が、今日に味を与える。机の上のノートを開く。「巻かない日」のログ。朝の宣言。部内共有。沙織さんの依頼。削った言葉。レース。動画。伝達。未来形。霧島の暴発注意。久遠の介入。一回だけ巻く。仲直り。——箇条書きを書きながら、心拍がほんの少しずつ落ち着く。言語化は、心臓のペースメーカーだ。


 ペンを置くと、スマホが震えた。画面には短いメッセージ。差出人は、亜子。


 『明日、話せる?』


 たった八文字。句読点はない。絵文字もない。けれど、文の端がやわらかい。今日のランの最後に見せた笑い方に、似ている気がする。俺は、深呼吸を一つ。胸の中の言葉が、早足で前に出ようとするのを、片手で制す。慌てて賢いことを言おうとすると、古い延長コードみたいに、どこかでショートする。選ぶべきは、少ない言葉だ。


 『もちろん』


 送ってから、スマホを伏せる。伏せた黒い面に、自分の顔がうっすら映る。頬の角度が、朝よりも丸い。丸くなったのは、疲労のせいか、安心のせいか、やはりわからない。ベッドに入る前に、時計を取り出し、指先で縁をなぞる。開けない。開けない、が、今日の俺の唯一の誇りだ。誇りは小さくていい。明日、その小ささが、言葉の精度になる。


 灯りを落とした部屋で、暗闇は、穏やかに厚みを増した。耳の奥の音は、きぃでも、すぅでもなく、ただの静けさの粒になって、均等に散らばる。遠くで車が一台、ゆっくり信号を曲がる音。隣の家の洗濯機が止まる音。細い現実が、いくつも重なっている。重なり方を、今日は巻かずに見届けた。重なり目は、思ったよりも滑らかだった。


 目を閉じる直前、脳のどこかがぼんやりと今日のハイライトを再生する。スタートの三歩目。俺の短い言葉。ゴールの笑い。観客席を探す目。空席。動画。未来形。紫の手提げ。久遠の「一回だけ」。霧島の「暴発」。——それらを重ね合わせると、一枚の薄い写真になる。写真の中で、俺は走っていない。立っている。立っていることが、今日の勝ち方だった。


 眠りに落ちる寸前、脳の奥で、誰かの声がした。聞き慣れた、でも自分ではない声。「足して消すな」。昨日も聞いた言葉。今日も、あの声はそこにいる。足して消さない。引いて残す。残したものが、明日の会話の土台になる。明日は、巻かないで選ぶ言葉が、どれだけ磨けるかの勝負だ。磨くとは、削ることでもある。削るための紙やすりは、今日、ちゃんと用意できた。手のひらに紙やすりのざらつきを思い浮かべながら、俺は眠りに落ちた。


 朝が来る前の微睡の中で、一瞬だけ、紫のハートが暗闇に浮いた気がした。句点の代わりに置かれた色。あの絵文字が意味するのは、愛情という言葉だけでは足りない。選べなかった言葉の残り香。届かなかった時間の埋め合わせ。勝手に増えてしまう解釈を、俺は一度だけ深呼吸で押し戻す。解釈は、明日でいい。明日は、話せる。俺は、「もちろん」と、もう一度だけ心の中で繰り返した。自分に向けて言う。「もちろん」。巻かないで支える。そのための言葉の準備を、胸の中の静けさにそっと並べておく。落ちた眠りは、ぐらつかず、深かった。


第5話「分岐実験:友情エンドと恋愛エンド」


 屋上のドアは強い風に押し戻され、金具が短く鳴った。日差しは明るいのに、空気は冷たく、雲の影が校舎の白壁に薄い帯を走らせている。フェンスの向こうでは、体育の授業の掛け声が小さく千切れて流れてきて、グラウンドの石灰の線が風で微かに曳かれていた。ベンチは二つ。古い木肌は日焼けで灰色がかり、釘の頭は丸く潰れ、表面は指先にざらりとした抵抗を返す。亜子はその端に腰かけ、足をぶら下げ、靴の先で空を蹴るようにして揺らしていた。揺れのリズムは風と合わない。彼女の中の時間で揺れている。


 「昨日は、ありがと。……ごめんね」


 切り出しは、本人の体温より少し低い声だった。笑ったときの高さではない。謝る筋合いはない、と首を振る。振った首の軌道の先に、フェンスの影が二重に落ち、重なり目が風でずれ、また戻る。巻かないで受け止めた痛みは、言葉の密度を上げる。昨日の夜、紙やすりで文字を磨くように、俺は言葉から余白を剝いだ。残ったのは、どちらに倒れても折れない芯だけだ。


 「二つ、提案がある」


 亜子は靴先を止め、俺のほうを見た。眼差しは、レーンの先のゴールを測る目と同じだ。そこに余計な光はない。距離と角度。必要な情報だけが映る。


 「A:友情のまま、次の大会まで伴走する。告白は保留。——俺の気持ちは置いておくけど、無くすわけじゃない。いまは、それを話題にしないっていう約束」


 「……うん」


 「B:恋人になる。ただし、練習優先の“恋”を一緒に設計する。週に一度、三十分だけ“互いに近況を報告するミーティング”をつくる。試合前一週間は連絡頻度を下げる。校内での過度な接触はしない」


 風が、そこだけ狭くなったように感じた。言葉が通る道を、風が一度だけ避けた気がした。俺は続ける。


 「ルールを愛の否定と感じさせないために、先に言っておきたい。……ルールは君を守るためのものだ」


 亜子は視線を落とし、ベンチの木目を親指で撫でた。年輪の溝に白い粉がたまっている。体育館の砂だ。触れるたび、指先にわずかに白が移る。


 「選べって言われてる気は、してない。共同設計、って感じ」


 「うん。分岐を一緒に引く。どっちを通っても、同じ地図の上で」


 言いながら、腕時計の裏蓋が内ポケットの布越しに触れる。開けない。今日は、試す。十分快を、それぞれの分岐に投資する。戻すためではなく、確かめるために。


 ——一回目。Aの層。


 「Aを選んだ場合の会話を試す」と心に印をつけて、俺は腕時計の蓋に指をかけた。トリガーを押す。世界が、ゆっくり沈むエレベーターみたいにわずかに下に動く。耳の奥に金属の匂い。薄紙一枚ぶんの圧が戻り、風の縁が丸くなる。


 「Aにするなら、湊の気持ち、置いていくことになるよね」


 戻った層の亜子は、少しだけ先回りして言った。走るときのような正確さで、自分の課題を口にする。たぶん、この台詞はどの層でも彼女の口から出てくる。俺は頷き、言葉を選ぶ。


 「置く、じゃなくて、置いておく、にしたい。捨てないし、壊れたままにもしておかない。箱に入れて、鍵をかける。鍵は俺が持つ」


 「鍵、勝手に開けたりしない?」


 「しない。開ける日を、二人で決める」


 「その日、来なかったら?」


 「来るように、準備する。来なかったら——巻かないで、謝る」


 亜子が笑った。笑いの端っこは、昨日の失敗した笑いと違っている。音が少し高い。許す準備のある笑いだ。


 「友情のまま、って言葉、実は好き。楽じゃないから。——ただ、湊は、しんどくない?」


 「しんどい。でも、走るのもしんどいだろ。そこは、対等でいよう」


 言い切って、俺は蓋を閉じた。Aの会話は、行ける。芯が折れない。十分快の終端を指で確かめ、風の密度が元に戻るのを待つ。フェンスの影が半歩ずれて、また元に戻る。


 ——二回目。Bの層。


 再び、蓋を開ける。三分の逆再生。薄い段差が足裏に現れ、すぐに消える。亜子はさっきと同じ姿勢で、靴をぶら下げている。風の向きが、ひと呼吸ぶんだけ変わった。


 「Bを選ぶなら、わたし、守れるかな」


 彼女は自問するみたいに言った。守る、という語は、彼女の口から出るとスポーツの用語にも、生活の用語にも聞こえる。俺は事前に用意したルールを、カードをめくるみたいに一枚ずつ置く。


 「“週に一度、三十分だけ、互いに近況を報告するミーティング”。終わったら、どちらかが一言だけ、相手の言葉を要約する。『つまり、今週はこうだったね』って」


 「要約、好き」


 「“試合前一週間は連絡頻度を下げる”。これは俺の側に強く適用する。俺からのメッセージの数を減らす。読むか読まないかを、君が選べる状態にしておく」


「わたしも、読む時間を選ぶ」



 「“校内での過度な接触はしない”。あいさつはする。目は合わせる。長居しない。——それから、ルールを愛の否定にしないために、先に言う。ルールは君を守るためのものだ」


 言うと、亜子は風に髪を持ち上げられたまま、笑った。笑いの形は、レーンに立つ前の呼吸の形に似ていた。集中と解放の中間。


 「守れない日が来るよ。練習、崩れる日もある。わたしの心が、崩れる日も」


 「その日は、巻かないで謝ろう」


 「またそれ?」


 「便利だから。——ごめん、の前には巻かない、って言っとくほうが、嘘が少ない」


 「ふふ。勝手」


 肩がぶつかった。ぶつけられた肩に、悪意がない。触れたという事実の証明だけが、そこに残る。俺は、世界の端を確認するみたいに、指を開いた。二回目の十分快は、ここで終える。蓋を閉じる。耳の奥の圧が抜け、風が元の速度に戻る。空の色が、一段だけ薄くなる。


 ——三回目。フォローの層。


 「三回目は“選ばれなかった方のフォロー”に使う準備」と書いたノートの文字が頭の内側に起き上がる。どちらかが選ばれたとき、選ばれなかったほうが孤独にならないように、言葉の橋を早めに架ける。蓋を開ける。三度目の逆再生の音が、今度は短く感じられた。身体が慣れてきたのではない。覚悟が、手順を追い越し始めている。


 「“A”の良さも捨てない」


 俺は先回りして言った。「“B”を選ぶとしても、次の大会までは“B”の中に“A”を残そう。言い換えると、“恋のルール”の一ページ目は“友情”にしておこう。——たとえば、今週のミーティングは十五分にする」


 「十五分?」


 「君の脚に残したいのは、疲労じゃないから」


 亜子はベンチの縁に手を置き、握った。握る行為は、意思決定の前段階だ。指に血を集め、血の温度で言葉を温める。彼女はしばらく黙り、「B」と言った。短い。短いけれど、明瞭だ。


 「でも“恋のルール”は一緒に更新する。わたしたち、走ってるから。止まってるルールは、すぐ古くなる」


 「了解」


 「了解……って言い方、すでにルールっぽい」


 「じゃあ——“承認”」


 「それも堅い」


 「“よし”」


 亜子は吹き出し、肩で笑った。笑い声の最後に、風の音が重なった。重なるというより、世界のほうがわずかに反発した。フェンスが軋む。ベンチがわずかに揺れる。耳の奥で時間の層が重なる音がする。霧島の言った“世界側の矛盾”。分岐が確定するとき、別の層で別の線が細くなる。その細りが、こちら側の空気の密度を一瞬だけ変える。


 巻かない。俺は肩に入った力を意識して抜いた。選ばなかったAのフォローは、今、言葉にしておく。


 「“A”の良さは残す。急に恋人らしく振る舞うんじゃなくて、しばらくは“友だちの距離”に“恋の輪郭”を薄く重ねる。境目が痛くないように」


 「境目、痛いものね」


 「痛みは、無いふりをすると増える」


 「言い方が医者」


 「保健室の知識」


 そんな話をしていると、屋上のドアが開く音がして、霧島が顔を出した。白いイヤホンを片耳にだけさし、風に押されて一歩分だけ重心をずらす。彼は俺たちを見て、何も言わず、親指を立てた。ジェスチャーは子どもじみているのに、ここでは、まっすぐ効く。久遠は彼の少し後ろ、ドアの影に立ち、風を見ていた。目は、風の方向ではなく、風に削られていく空の模様を追っている。彼女は短く言った。


 「恋、成功。事件、未解決」


 句読点みたいな声だった。俺は笑って、そうだな、と返す。未解決のほうに、視線が少しだけ重く落ちる。倉庫の延長コード。掲示板のメモ。短く鳴って止む非常ベル。層の重なり具合。昨日の火は、今日の俺たちの選択に直接の影を落とさなかった。だが、見過ごせば次の層で燃える。世界は、恋と安全を別々の棚に置かせてくれない。俺たちの“恋の設計”と“学校の安全”は、ひとつの連続体になった。線は一本。太さの違う区間が連なっているだけ。


 「放課後、理科準備室。バグのコアが動く」


 霧島のスマホが、短く震いた。彼は画面を見て、俺にだけ聞こえる声量で告げた。「先生側の動き。実験薬品の貸し出し台帳、空白がある。昨日の午前のページに、不自然な間」


 「燃える方向?」


 「燃えない方向で燃えるやつ。——酸素が多すぎる」


 わざとわかりにくい言い回しをするのは、彼の癖だ。俺は頷く。頷きの強度は、亜子には伝わらない程度に抑える。


 「午後は、部室で一度、共有。そこから準備室」


 「了解」


 今度の了解は、堅くていい。堅さで支える場面がある。亜子は風を背にして立ち上がり、髪を後ろで束ね直した。輪ゴムが小さく鳴る。髪の束が肩に触れ、影が首筋に細く落ちる。


 「ねえ。ルールのノート、買いに行かない?」


 「ノート?」


 「“恋のルールを更新するノート”。見出しは、わたしたちで決めるの」


 「いい。——一ページ目は『巻かないで話す』」


 「二ページ目は?」


 「『巻いても謝る』」


 「ずるい」


 「便利だから」


 また笑って、ベンチを離れた。風の中で階段を降りる。鉄の手すりは冷たい。手の平に残る温度は、現実の温度だ。巻かないで支えると決めた日から、手すりの温度の具体さに救われる瞬間が増えた。目に見え、触れられるものが、時間の層に束の目を作る。そこを指でなぞれば、落ちない。


 放課後。文具店でノートを選ぶ。棚に並ぶ罫線の種類は、思っていたより多い。ドット方眼。普通の横罫。無地。迷わないための基準を先に作る。「書き直せること」。つまり、紙が強いこと。インクが滲まないこと。表紙は硬いほうがいい。片手でも書けるから。——選んだのは、生成りの表紙のA5判。背の糸綴じが見えないタイプ。最初のページを開くと、紙の匂いが新しい。丸い匂い。インクの匂いはまだない。そこに、俺たちの字の匂いを足す。


 「タイトル、どうする?」


 「“ルール”だと堅い。——“やり方”」


 「“やり方”。いい。——“わたしたちのやり方”」


 「所有格、強い」


 「強くていい」


 表紙の裏に、“わたしたちのやり方”と書く。ペン先が紙に沈む深さで、今日の力加減がわかる。1ページ目の見出しは「巻かないで話す」。二ページ目は「巻いても謝る」。三ページ目は、彼女が書いた。「“大会前の曜日を決める”」。四ページ目、俺。「“要約で締める”」。五ページ目、彼女。「“寂しさの予告”」。——そこに彼女は、小さな字で付記した。「寂しいとき、わたしは、言葉が短くなる」。俺はその下に、矢印を書いて、「短いとき、湊は、返事を遅くする」と足す。遅くすることで、言葉が増殖するのを防ぐ。遅い返事は拒絶ではない。ルールの中で、遅いは守りになる。


 インクの匂いが指先に移る。彼女は親指の内側に小さな黒点をつけて、「証拠」と言って笑った。笑い声は、午後の光の温度にぴたりと合っている。外では、誰かが自転車の鍵を探している音。窓の外の空は高い。時間は静かに流れる。流れて、止まり、また流れる。——その静けさの裏側で、ポケットの中のスマホが短く震えた。霧島からだ。


 『理科準備室。バグのコアが動く。十七時二十分、空白の頁、穴が繋がる。久遠、観測。湊、共有。蜂谷、教員対応。——“巻かない”優先』


 スクリーンの白が、紙より冷たく見える。俺は「了解」と返し、ノートを閉じた。表紙の生成りは、手の汗を少しだけ吸い、色が濃くなった。変化は、悪いことではない。使う道具は、使った分だけ人の体温を記録する。記録は、後戻りの練習をしない。記録は、記録でしかない。


 その足で部室に向かう。夕方の廊下は、声の種類が変わる時間だ。昼の賑やかさの残響が薄れ、鍵の音やモップの音、ため息の音が主役になる。部室のドアを開けると、霧島がホワイトボードの前に立っていた。四角が二つ。「恋」「安全」。今日も、隣り合っている。太さは同じになっていた。


 「共有、いこう。——まず、恋のほう」


 「成功。B。ただし、Aの良さを内包。ミーティングは今週十五分。要約で締める」


 「よし。——安全」


 「準備室の台帳、午前の頁に空白。酸素ボンベのチェック欄、印が二重。誰かが押し直した形跡。——巻かないで入る。観測最優先」


 久遠が頷いた。「私が前に立つ。酔わない。耳鳴りは、数える」


 「俺は?」


 「湊は“巻かない”の守備。誰かが巻きに入ったら、止める言葉を用意。——“巻いても謝る”は、今は使わない」


 「ノート、役に立たないの、早い」


 「役に立ってる。今日は“巻かないで話す”の章を使う」


 霧島の言い方は、冗談と本気の中間を歩く。俺の胸の奥の鼓動は、さっきよりゆっくりだ。緊張が怖くなくなったわけじゃない。緊張の形を、言葉が知っている。


 理科準備室の前に立つと、ドアのガラスの向こうで、白衣が二枚、影になって動いた。ひとつは理科の佐伯先生。もうひとつは、三年の実験係。空白の頁の時間帯に、この組み合わせは珍しい。霧島が俺たちを後ろ目で制し、咳払いをひとつ。音は控えめ。控えめな音は、嘘をつかない。


 「失礼します」


 ドアを開ける。薬品棚の鍵は開いている。固定金具の角度が普段より浅い。ボンベの固定ベルトは、二段目が緩い。書類の上には台帳。午前の欄に、名前が斜めに入っていて、判子が重なっている。二重の朱は、火の条件だ。酸素が過剰になれば、燃えないはずのものが燃える。——“燃えない方向で燃えるやつ”。霧島のわざとらしい言い回しが、正確に意味を持つ。


 「台帳、確認しておきたいのだけど」


 霧島は、穏やかな声で切り出した。佐伯先生は驚いた顔をするでもなく、面倒そうに眉を動かした。「今、忙しい。終わってからにしてくれる?」


 「十分で終わります」


 「十分?」


 「十分快」


 言い直した。俺は、時間の単位を自分の生活に引き寄せる。佐伯先生はため息をつき、腕を組んだ。久遠が一歩、前へ出る。視線は泳がない。泳がない視線は、相手の肩の高さを少しだけ下げる。先生の腕の組み方が、浅くなった。


 台帳の午前の欄。判子が二重に押された名前の横に、ごく小さな鉛筆の削りカス。朱肉の蓋の裏に、指の跡。ボンベのバルブの目盛りに、指の油の輪。巻かない目は、匂いも見る。鉛と油の匂いは、火の匂いとは別の扉から現実に入ってくる。


 「ここ、二重に押されてる」


 久遠が指先で、台帳の朱の重なりの角だけに触れた。触れる、というより、触れたという事実をそこに置いた。佐伯先生は、面倒くさそうに見えながら、目だけが真面目になった。


 「誰が?」


 「午前の十時三分」


 霧島が答える。時計の針が合わせられる音が、小さく胸の奥で鳴った。十という数字に、俺は安心する。十は、今日ずっと使ってきた単位だ。


 「三分?」


 「三分は、誤差を許さない時間です」


 久遠の言い方は、ほとんど詩だ。詩を理科準備室で言うのは奇妙だが、意味は通じる。誤差を許さない時間。三分は、巻ける時間だ。ここでは巻かない。巻けるという可能性が、誰かの行為を変える。二重の朱は、巻いた層の影かもしれない。


 「——確認しよう」


 佐伯先生は、観念したように頷き、台帳の前の椅子に腰を下ろした。椅子の脚が床を鳴らす。音は乾いている。乾いた音は、燃えない。安心ではないが、恐怖でもない。


 十分。十の分。俺たちは観測だけをした。観測だけでも、世界の端は少しだけ揺れる。揺れに抗わず、数える。耳の奥の音が数字から音に変わる瞬間を待つ。待っている間、俺はポケットに入れたノートの生成りの表紙を思い出す。表紙のざらつき。指先に残ったインクの点。ノートは、恋の側の道具だ。けれど今日、恋の道具が安全の側で俺を落ち着かせる。連続体。線は一本。


 十分が終わるころ、空白の頁の穴は、ひとつ繋がった。午前十時三分。三年の実験係が、薬品棚の前で立ち話をしている間に、別の生徒が台帳に印を押した。名前を借りて。借りた名前は、返すときに重なる。二重の朱。——その借りは、たぶん、悪意ではない。善意でもない。空白を埋めるための習慣。習慣が火を呼ぶことがある。火は人の都合を知らない。都合は、火の条件を知らない。


 準備室を出ると、廊下の空気が温かく感じられた。夕方の光が、理科室のガラスを薄く琥珀に染める。久遠が立ち止まり、俺のほうを見ずに言った。


 「“巻かないで話す”の、勝ち」


 「まだ途中」


「途中で勝つの、大事」



 霧島が顎を上げ、「ノート」とだけ言う。俺はうなずく。うなずきは、紙に書くときと同じ筋肉を使う。筋肉は、言葉の道具だ。道具は、使い方で意味が変わる。


 帰り道。日が落ち、風は昼より重くなった。電線の交差に小さな星が灯り、交差点の信号が二度変わるのを待ちながら、俺たちは文具店の袋を交互に持ち替えた。亜子が袋の取っ手を指でくるくる回し、突然思いだしたように笑う。


 「“ミーティング十五分”、今週のね。——どこでやる?」


 「図書室の横の外階段」


 「寒い」


 「寒い日は、話が短くなる。短い日は、いい日」


 「論理の飛躍」


 「飛べるだけ、飛ぶ」


 彼女は首を傾げ、かすかに笑い声を漏らした。笑いの粒は、夜の空気にまっすぐ上がって、街灯の光に当たって消えた。消えたものが残す温度は、熱ではなく、湿度だ。湿度は、言葉を滑らせすぎない。——ポケットのスマホが震える。霧島からの短いメッセージが、背中の内側を薄く撫でる。


 『放課後、理科準備室。バグのコアが動く』


 もう行って、もう出てきた。今日の一連は、一本の線の上にきちんと並ぶ。恋の線。安全の線。重なるときもあれば、平行のときもある。どのときも、巻かないで見て、巻かないで話す。巻かなかった言葉は、遅い。遅い言葉は、長く残る。長く残る言葉で、明日を磨く。——ノートの一ページ目に戻る。見出しの下に、今日の日付を書く。日付は、相互の証拠だ。証拠があると、未来が少しだけ具体になる。


 家に戻って、机にノートを置き、ペンを握る。表紙の生成りのざらつきを再確認し、ページを開く。今日の「更新」を追記する。〈ミーティング十五分/要約で締め/寂しさの予告/遅い返事は守り〉。ページの右上に、小さくハートを描いて消す。消し跡が、紙の繊維に残る。紫のハートではない。色はつけない。色は、明日の会話が決める。色は、巻かないで、増えていく。


 電気を消す前、スマホが震えた。短い通知の光が、天井を薄く照らす。差出人は、亜子。


 『ノート、かわいいね。今日の字、下手だった』


 『好きだよ、その下手』


 打って、消す。消して、『よし、から直す』と打つ。送信。既読。スタンプは来ない。句読点のない「おやすみ」が届く。句読点の位置は、今日、いらない。息の位置で代用できる。息は、届く。巻かない息が、届く。


 布団に潜り、時計の蓋に指を乗せる。開けない。今日は、とても開けない。開けないで済むほど、話した。話すことが、今日の勝ちだった。目を閉じる。耳の奥の音は、数字ではなく、ただの夜の粒になる。粒と粒の間に、明日の十五分の空洞がある。空洞は、空いているから埋められる。埋めるとき、紙の匂いが必要だ。紙の匂いは、恋の道具だ。恋の道具は、世界の端で火を遠ざける。遠ざけるために、近づきすぎない。近づき方を、明日も更新する。更新のためのペンは、机の右上で眠っている。俺も、眠る。風の音は弱く、時計は黙り、時間は静かに重なる。重なって、どちらにも偏らず、明日に続く。


第6話「理科準備室の心臓」


 放課後の廊下は、色温度が一段落ちる。午後の光が窓ガラスを斜めに抜け、掲示板の画鋲の頭だけが点々と光る。理科棟に続く渡り廊下は、人が少なくなると途端に音が増える。モップを絞る水の音、どこかの教室の椅子の脚が床に擦れる音、古い蛍光灯のブーンという低い唸り。その奥で、俺の心拍の音が、少しだけ早いテンポで重なる。


 メッセージの指示どおり、理科準備室へ向かう。扉の窓はすりガラスで、向こうの気配が曖昧な影になって揺れている。取っ手に指をかける前、ドアの隙間から鼻に刺さるような匂いが届いた。金属を擦ったみたいな、雷の前ぶれみたいな——オゾン臭。喉の奥が薄く痺れる。


 「来たね」


 霧島が廊下の角から現れた。白いイヤホンを片耳にだけさし、反対側の手には自作の簡易センサー。黒いプラスチックの箱に、針の短いメーターと、手書きの目盛り。針は、今は落ち着いている。彼は指先でメーターのガラスを軽く叩いて、俺を見た。


 「今日の準備室、呼吸が変だ。空気の電気的な粘度が上がってる」


 「比喩か理科か、どっちだよ」


 「両方。——入るよ」


 ドアを押し開ける。ひやりとした空気。棚の最上段、暗がりに金属の箱が置かれている。表面は網目で覆われ、古いラベルに英語の文字。ファラデーケージ。中に、丸い文字盤の研究用の手巻き時計が鎮座していた。白い盤面の一部は焼けたみたいに黄ばみ、秒針は震えている。震え方は、不規則のようで、よく見ると薄い周期を持っている。


 壁には無骨な札。「取扱注意:高電圧実験歴有」。マステの端が剝がれかけ、紙の角が丸まっている。隅の棚には薬品瓶。ヨウ素液、ホルマリン、硫酸。手前の延長コードの束は、黒いビニールが硬化して波打ち、プラグの根本に白いひび。昨日、倉庫で見た危うい風景の、親玉のような広がり。ここは、学校の安全の“中心”であり、バグの“心臓”でもある。


 霧島がセンサーを持ち上げ、室内をなぞるように歩く。針が動き、時々、メーターの端で小さく跳ねる。彼は黒板の前で立ち止まり、チョークを取った。白い粉の匂いが、オゾンと混ざる。


 「十分快の人——つまり、湊みたいな“巻く者”の主観時間と、あれの周期が、共鳴してる」


 黒板に二本の波線を引く。一方は滑らかに、もう一方はギザギザに。二つが重なって、周期的に大きな山を作る。


 「普段は越えない閾値が、層が重なるときだけ超える。ここでは“微弱な放電”として現れる。ここの空気、薬品、延長コードが、その山の時刻にだけ危ない。——タイムバグの核は、たぶんこれだ」


 彼はファラデーケージを顎で指す。ケージの中の時計は、針を微細に震わせたまま、音を立てない。けれど、見ていると、耳の内側でカチ、カチと幻聴が鳴る。音のない音に、体が勝手に音を当てる。そうしていると、部屋の角の実験台の上で、古い放電コイルの頭がきぃ、と小さく鳴った。空気が乾く音。霧島のメーターの針が、十の目盛の手前で震える。


 「十分快の山は、ここに出る。十の数え方を間違えると、世界が躓く。把握しておけば、転ばない」


 彼の言い方はいつだって現実を整然とした数式に戻す。数式に戻すと怖さが少しだけ和らぐ一方で、数式が崩れる瞬間の怖さが増す。俺は黒板に描かれた“層”と“揺らぎ”の図を見ながら、胸の奥のどこかがひやりと縮むのを感じた。


 「で、誰が触ってる?」


 俺の視線はケージに戻る。時計は手巻き式だ。誰かが巻いていなければ、止まるはず。止まらず、震えているということは——。


 「容疑者像は二重化して見える」


 霧島がチョークの先で二つの丸を黒板に描く。片方に「小田」、もう片方に「財前」。


 「小田は理科助手。設備管理の責任者。更新予算が渋く、申請は通らない。点検の義務と、不良の現実の間で擦れてる。——“正しさ”の側」


 もう一方。「財前。二年。生徒会のイベント電源を握る。文化祭の電源ラインを、準備室から勝手に引いたログが残ってる。禁止テープを、一度剝がして戻した形跡。——“近道”の側」


 黒板の丸の間に、細い線を引いて「交差」と書く。交差点。二人は別の動機に見えて、同じ交差点に立つ可能性がある。正しさと近道が重なる場所。そこに、バグの揺らぎはよく溜まる。どちらも、火をつけたいわけではない。けれど、火の条件に触れやすい位置にいる。


 「十分快×三回。どう配分する?」


 霧島が振り返る。蜂谷は部室で教師側のルートを当たっていて、今ここにはいない。久遠は廊下側の窓から風の向きだけを眺めている。俺は黒板の数字を数え、指先でケージの縁を探り、息を整える。


 「案一。初回は観察に全振り」


 「案二。一回を小田の行動追跡、一回を財前の配線チェック、一回を研究時計の隔離」


 「核に触る介入は反動が大きい。二日に分散しよう」


 霧島が提案する。十の単位で区切っても、ここは“心臓”だ。いきなり刃を入れると、反動が来る。俺は頷きながら、内ポケットのノートを指で押えた。今日の夜は“週一ミーティング十五分”の初回。亜子と決めたルールを守りながら、安全の側の十分快を捻り出さなくてはいけない。恋のページと、事件のページ。同じノートに、違う線。線はどこかで重なる。重なるとき、言葉が要る。


 「いくよ。——まずは観察」


 霧島の合図で、俺は蓋に指をかけた。トリガーを押す。世界が、わずかに縮む。耳の奥の圧。黒板の白が新しくなる時間の手触り。戻った分の空気が、胸の内側に薄く貼り直される。


 ——一回目。小田。


 理科準備室の奥、用具棚の前で小田は記録用のバインダーを片手に、点検表に丸をつけていく。白衣の袖は肘で少し汚れ、眼鏡のレンズに気泡の跡。動きはきっちりしている。瓶のラベルを指でなぞり、バルブを軽く回し、タグの期限を見て、丸。丸。丸。途中、古い延長コードの束の前でペンが止まった。申請書のコピーに赤いスタンプが並んでいる——却下の印。三つ、四つ、五つ。年月が古くなっていく。スタンプの朱は、新しいほど濃く、古いほど乾いてひび割れている。


 小田はそのページをじっと見つめ、喉の奥で短い息を漏らした。ため息、というより、空気の隙間を探す音。怒りの匂いではない。倦怠の匂い。続けるための筋肉が薄く摩耗してきたときの音だ。ファラデーケージには目をやらない。知らないのか、知っていても「仕様」として棚に上げているのか。彼は時計の存在に“触れない”仕事を続けているように見えた。


 「小田は、切れてはいない。切れないように調整してる」


 巻きから戻ったとき、俺は霧島に言った。霧島は頷き、「倦怠は危険」と短く書いた。「怒りは声になるけど、倦怠は沈む。沈んだものは、火の下に溜まる」


 ——二回目。財前。


 俺たちは生徒会倉庫へ移動する。鍵は開いていた。段ボールの積み方に規則性はあるが、美しさはない。「間に合わせ」の匂い。棚の上段に延長ケーブルの束。黄色と黒の禁止テープが巻かれ、しかしそのテープは一度剝がされ、また貼られている。端が二重になっている。写真ログのファイルもあった。文化祭の準備風景。廊下に這うコード、たこ足のタップ、ガムテープで固定された分岐。笑っている生徒たちの足元に、火の線が走る。


 「財前は、火をつけたいわけじゃない。『間に合わないから、やる』の人」


 霧島が言う。「近道の人は、いつも火の近くにいる。最短路は、熱い」


 「でも、ここから準備室に電源を引いてたログは——」


 「規則の死角。善意で破るタイプ。——嫌いじゃないけど、危ない」


 扉の外、久遠が時計を見て指を折る。十。今の十は、短く感じる。俺は蓋を閉じ、目の奥についた延長ケーブルの黄色い縞を払い落す。目に付いた色は、言葉の速度を上げる。速度は、ミスにつながる。落とす。落としてから、次へ。


——三回目。心臓。



 再び準備室。ケージに近づく。近づくほど、空気の粒が細かくなる。手袋をはめる。ファラデーケージの蓋を持ち上げると、古い蝶番がうすく鳴く。中の時計は、近くで見ると、竜頭の金属がすり減って小さな傷が走っている。触れる。触れる前に、一瞬だけ躊躇する。触れた指先に、冷たさが刺さらず、むしろ乾いた温度が広がる。


 竜頭をわずかに回す。重さ。古い時計特有の、ぜんまいの巻き戻りを手に返す感触。——回した角度を、手を離すと、一定角度で勝手に戻る。戻り方が、規則的だ。癖。時計の癖。金属の疲労にも見えるが、それだけではない。触っていないときにも、微細に震える癖。霧島が目を細め、メモリの針を睨む。


 「……この時計、巻いてる。誰かが定期的に。十の山の直前で、毎回、巻かれてる」


 彼は黒板にもう一本、短い縦線を等間隔に引いた。「巻き」のタイミング。誰かは、ここに来て、竜頭に指をかけ、同じ角度で戻す。その指の癖が、時計の癖になっている。誰か。——小田? 財前? あるいは別の誰か?


 「核に触るなら、名前を持ってから」


 霧島がケージをそっと閉じる。「今日はここまで。——二日に分散」


 俺は頷く。頷きながら、胸のどこかが小さく軋む。十の山に合わせて“巻く”誰か。それは、俺たちの部の“巻き”と同じ行為のようで、違う。俺たちは“取り返すために巻く”。誰かは“動かすために巻く”。似た姿勢で、異なる動機。似ている分だけ、近い。近い分だけ、危ない。


     *


 夜。約束の十五分。学校の外階段、図書室の横。風は昼よりも柔らかく、外灯の光が階段の縁を薄く縁取っている。亜子は先についていて、パーカーのポケットに両手を入れ、足元で靴先を揃えていた。目が俺を見つけたとき、わずかに笑う。笑い方の角度は、記録会の日よりやわらかい。無理のない笑い。


 「今日、最後の二百、いい感じだった」


 開口一番。声はまっすぐ。俺は“聞き役”の姿勢に自分を合わせる。頷き、要約のための言葉を頭の中に並べる。彼女は、コーチとのやり取り、ピンの交換、風向きの癖、スタートのリズム、学校での小さな出来事を、息継ぎを挟みながら淡々と話す。俺は「つまり今日は——」で要約し、彼女がそれを「うん」と受け取る。その往復が、十五分のうちの十を使う。残りの五を、俺は「安全」の側に割く。


 「少しだけ、事件のこと。危ないことはしないって、約束してほしい」


 命令の形にならないよう、お願いの形で置く。「巻く時は、部で申告する。できるだけ、巻かないで観る」


 「任せる」


 彼女は笑って言う。「わたしも、“巻かない日”つくる。——四日に一回、でどう?」


 「いい。『寂しさの予告』に書いとく」


 ふたりで買ったノートの、二ページ目を思い出す。〈巻いても謝る〉の下に、〈寂しさの予告〉。短い言葉が、具体の形を持ち始める。亜子はポケットから小さなメモを出し、そこに「四」と書いて見せた。インクの匂い。階段の冷たい金属。夜の空気。全部が、やわらかい音を出す。


 「湊は?」


 「理科準備室。——十の山に合わせて、誰かが“巻いてる”」


 俺は、薄く共有する。詳細は避け、核だけを渡す。「近道の人と、正しさの人。どっちも“火”の近くにいる」


 「巻いてる人が“悪い人”とは限らない」


 「うん。だから、急がない。——ただ、巻く時は、申告して。部の外でも」


 「了解」


 了解、という言葉が、今日だけはやさしく響く。彼女はすぐに「よし」と言い直し、二人で笑う。笑いながら、十五分の終わりを数える。数えながら、沈黙の置き場所を探す。沈黙が居心地を悪くしないのは、そこに「次」があるとわかっているときだ。次週の十五分の形が、もう薄く見える。見えるから、今は話し足りなくていい。


 階段を降りる前、亜子がふと立ち止まる。「“巻かないで話す”って、たぶん、走るのに似てる。ルールを守ると、自由になる感じ」


 「うん」


 「だから、更新しよう。止まったルールは、すぐ古くなる」


 「承認」


 「堅い」


 「よし」


 彼女は肩で笑い、手すりに手を滑らせながら降りていく。その背中に、言葉にしない約束が薄く重なる。言葉にしないものは、ノートには書けない。書けないものは、息で残す。息は、覚えている。


     *


 夜の校舎裏は、音が少ない。ゴミ置き場の金網が風にちいさく鳴り、体育館の換気扇が遠くで唸る。理科棟の窓はほとんどが暗い。理科準備室の窓だけ、うすく明るい。明るさは人の気配にしては弱い。蛍光灯が劣化したときの、ちらつく灯り。


 「——今夜も巻いてる」


 久遠が白い息を吐いて言った。彼女の声は、蒸気の形に近い。形になって、すぐ空気に溶ける。彼女の横顔は夜の光に塗られ、瞳の奥は暗いけれど、濁ってはいない。酔わない目。耳鳴りを数える癖。十の前で、彼女は数え、数字が音に変わる瞬間を待つ。その待ち方が、彼女を平らに保っている。


 俺と霧島は影に身を寄せ、準備室の窓を見上げる。明かりが一度だけ点滅した。薄い点滅。時間の層が重なって、きしむ音が、耳の奥のほうで金属みたいに鳴る。ケージの中の時計が、震えながら巻かれる。誰かの指が、竜頭に触れる。触れた指は、同じ角度で戻す。癖は、犯人の手の形だ。


 「定期的に巻く者。——特定に移る」


 霧島の声は低く、乾いている。黒板の前の声ではない。現場の声。俺は頷く。頷きと同時に、ポケットのノートに指を入れて、一行だけ小さく追記した。〈事件優先の日は、ふたりで〉。ふたり、は、俺と亜子のことだ。恋のページは、安全のページに触れてしまった。触れた指先に、インクの匂いが移る。匂いは、どちらにも偏らない。


 「監視カメラの死角、洗い直した。準備室の窓辺は、八秒の穴がある」


 霧島が続ける。「八秒。十の山の手前に、八。そこを通る」


 「小田の動線は?」


 「今夜はもう帰った。生徒会の鍵は、財前が持ってる。——彼は今日、部活後に校庭のコンセントの蓋を閉め忘れた。俺、見た」


 近道の人は、細部で躓く。躓くのは悪ではないが、火の条件にはなる。俺は肩で息をし、準備室の窓の光がほんの少しだけ強くなるのを見た。強くなって、すぐに落ちる。落ちて、消える。消えたあと、夜はがらんとする。


 「明日は二日目。——十分快×三の配分、変える?」


 「変えない。初回観察、二回目、財前の行動追跡、三回目、ケージの監視。核に触れるのは、名前を持ってから」


 霧島が言い、久遠が頷き、俺も頷く。頷きは、今日いちにちで何度したか数えきれない。頷くたび、頸椎の間のクッションが少しずつ温かくなる。温かさは、眠気を連れてくる。眠気は、油断と違う。眠るのは、生きる準備だ。


     *


 家に着くと、机の上のノートが、今日より少しだけ厚く見えた。表紙の生成りは、もう新品の白ではない。指の脂と、カバンの布の染料と、学校の空気の粉塵が混ざり合って、街の色になっている。ページを開く。一ページ目〈巻かないで話す〉の下に、小さな行を足す。〈短い日は、いい日〉。階段で言った冗談の断片を、残しておく。二ページ目〈巻いても謝る〉の下に、〈ただし今日ではない〉。三ページ目〈大会前の曜日を決める〉の右に、〈四日に一回“巻かない日”〉。四ページ目〈要約で締める〉の下に、〈要約の前に十秒〉——言葉が増殖しないための空白。


 最後に、さっきの追記。〈——事件優先の日は、ふたりで〉。ふたり、という字の横に、丸をひとつ描く。紫のハートではない。色はつけない。色は、会話の方で決める。決めるのは、明日の十五分と、明日の十分快。


 ペンのキャップを閉め、時計の蓋を指先で確かめる。開けない。今日は、開けない。開けないで、進む。開けないで、見張る。開けないで、話す。その三つで、俺の一日は、意外なほど満ちていた。満ちたまま眠ることを、体が許している。


 電気を消して布団に入る。暗闇は、昼よりも肌触りがある。耳の奥の音は、数字からただの空気の振動に落ち、心臓の音が深くなる。微睡の縁で、理科準備室のファラデーケージがゆっくり閉じる映像が浮かぶ。竜頭に触れた見えない指。戻る角度。癖。癖には、持ち主がいる。持ち主は、明日、名前が与えられるかもしれない。名前を与える前に、俺は眠る。眠る前に、亜子の「よし」を思い出す。よし。——よし、で、目を閉じる。


     *


 翌日。午前の空気は乾いて、廊下の埃の粒が斜めに泳いでいる。授業の合間に、霧島から短い紙片が回ってきた。〈十七時、八秒の穴/準備室前〉。紙は薄く、角が少し丸く、鉛筆の線が浅い。俺はそれをノートの最後のページに挟み、授業が終わる鐘の音が階段の壁を跳ね返るのを聞いた。時間は層を作り、層は揺らぎを持って、心臓はそこにいる。心臓は、止まらない。止めないように、動かしすぎないように、見張る。見張りながら、話す。話しながら、好きでいる。好きでいることと、守ることを切り離さないやり方を、俺たちは選んだ。選びながら、更新する。更新しながら、進む。進みながら、ときどき戻る。その戻り方さえ、いつか“よし”と笑えるように。


 放課後、準備室の前に集まる前に、俺はノートにもうひとつだけ線を足した。〈十の山の手前で、深呼吸〉。ちいさな、まっすぐな線。線を引くことは、未来に目印を置くことだ。目印は、巻かない日の方向を教えてくれる。俺は、その矢印に従う。矢印の先に、八秒の穴がある。穴の向こうに、誰かの指。その指の形を確かめに、俺は階段を降りる。階段の金属は、昨日より少し温かい。温かさは、俺のせいか、世界のせいか、もう判別できない。どちらでもいい。どちらでもいいと、素直に思える程度には、俺は今、自分の速度を信じている。信じた速度で、角を曲がる。曲がった先に、準備室のドア。ドアの隙間の、あの匂い。金具が短く鳴る。針が、どこかで震える。十の山に、指を合わせる。息を合わせる。言葉を合わせる。全部が、同じ方向を向く。向いた先に、心臓がある。心臓は、今日も、黙って震えている。震えているから、俺たちは話す。話すから、俺たちは戻らない。戻らないで、進む。それが、今日の実験の始まりだ。


第7話「三回制限の重さ」


 翌日の朝、部室の扉を開けると、机の中央に透明な小箱が置かれていた。中には、白いプラスチックのチップが人数分三枚ずつ。霧島が黒い油性ペンで「巻いたら一枚、窓際に表向き」と短く書いた紙を貼っている。メモの四隅にだけ、やわらかいテープ。角が立つものを部屋に増やしたくない、という性分が、彼のこういうところに出る。


 「——見える化は、圧になるけど、暴発予防でもある」


 霧島は、いつもの片耳イヤホンを外して言った。白い線が胸元で揺れる。言葉は乾いていて、しかし責める温度はない。ただ、事実の形をして定着していく。


 久遠は、箱に近づき、躊躇いなく三枚を自分のポケットに入れた。「私は平気」。相変わらず、等温の声だ。感情の山谷で言葉の高さが揺れない。揺れないのは、彼女が「揺れ」を別の場所で数えているからだと、最近少しわかってきた。


 「俺は平気じゃない」


 苦笑して、三枚を手のひらに載せる。軽い。軽いのに、やけに重い。三という数字は、思っていたより短い。十の山の上に置かれた三つの白い点。視界の片隅で、ずっとこちらを見ている。


 「三回は“余裕”じゃなく“天井”。忘れずに」


 霧島は、ホワイトボードに二つの四角を描いた。「恋」「安全」。そして、その間に、少し太い矢印で「説得」と書く。「今日は“説得”が主役。巻かないで押す。押せないときに巻く。順番を間違えない」


 うなずく。うなずきながら、内ポケットのノートの存在を確かめる。昨日の最後に書いた一行〈——事件優先の日は、ふたりで〉が、紙の繊維の奥で静かに乾いている気がした。


     *


 午前のホームルームは、曇り空の明るさの中で始まった。担任が配布物の束を抱えて教卓の端に置き、生活指導の報告がやけに長い。俺は、視線の三分の一を黒板に、三分の一を担任の手元に、残りの三分の一を窓の外の風に配分する。教卓の端、銀色の電気ポット。中身は熱湯。蓋はロックが甘い。角度は、わずかに斜め。誰かの鞄がぶつかれば、落ちる。


 隣のクラスの一年が手伝いに入ってきて、教卓の端の配布物に手を伸ばす。指先が白い紙の束の端に触れると同時に、ポットがぐらり、と動いた。ポットの銀の腹に、窓の光が流れる。時間が、目の前で“スローモーション”に変わる。脳が先に「巻け」と叫ぶ。三回の白いチップが、胸の裏から、こちらを覗く。


 ——巻きたい。巻けば、間に合う。けれど、生命に近い領域は負荷が桁違いだと、身体が昨日教えられたばかりだ。しかも、これは“今、巻かなくても届く”距離だ。届かせる方法は“巻き”だけじゃない。脳の奥の熱が、言葉を焼く。焼ける前に、椅子を蹴った。脚が床を鳴らし、机の間を抜ける。腕が自動で伸び、落ちてくるポットの下に滑り込む。肘で支える。重い。熱が皮膚を撫でる。蓋は閉じている。床に落ち、少し跳ねる。湯は漏れない。


 「危ないだろ!」


 担任の叱責が背中に刺さる。わかってる。叱られて当然だ。けれど、当人の手は無事だ。小さな皮膚の赤みもない。俺は「すみません」と頭を下げ、席に戻る。戻りながら、胸の奥にざらついた石ころが残るのを感じる。使わずに済んだ安堵と、使わなかったことでほんの少し遅れた自分への苛立ち。その混合物。


 視界の端。窓際の棚に置かれた白いチップは、まだ三枚。使わないで守れた。守ったのは誰かの手。それから、これからの三回。


     *


 昼。理科準備室の前の廊下は、昼休みのざわめきが薄く届く。揚げ物の匂いと漂白剤の匂いが混ざる、学校独特の空気。久遠が鞄から、薄い紙片を出した。付箋よりも薄く、角を丸く切ってある。裏には極小の導電インクの回路が描かれていて、端にちいさな金属片。霧島の工作。開閉の微細な静電変化を拾う、簡易の紙センサーだ。


 「一回目、使う」


 久遠は、迷いなく腕時計の蓋を開けた。彼女のトリガーは、俺より静かな音を立てる。同じ三分の巻き戻しでも、彼女の世界の沈み方は、表面張力のある水みたいに滑らかだ。


 巻いた層で、彼女はドアの縁にセンサーをほんのわずかな厚みで仕込む。目立たない。目立たないことを、彼女の指はよく知っている。貼り終えて、戻る。センサーの微細な数値が、霧島の小箱に統計として蓄積され始める。十の山の前後で、反応が増える。薄く、しかし確かに。


 「二回目」


 久遠は、二枚目の白いチップを指先で確かめ、また蓋を開けた。今度は、ファラデーケージの前。金網の目の隙間から、ケージの中の手巻き時計に耳を寄せる。音は本来聞こえないはずだが、彼女は「微細なチクタク」を身体で拾う。耳の骨で、数える。三分巻き戻って、十の分の山と、数秒のばらつきをログする。十±数秒。ばらつきは、誰かが巻く時刻と一致している。


 「三回目は温存」


 久遠は、そう言って、白いチップを一枚だけポケットに戻す。「夜、使うかもしれない」。酔わない彼女にも、連続巻きの薄いノイズが指先に残るのを、俺は知っている。彼女の爪の白い半月が、わずかに青みを増す。血の配分が、深い場所へ移動している。


 「湊の分は?」


 「まだ、ゼロ」


 ゼロでいられたのは、午前のあの瞬間に体を投げ出せたからだ。体で取った選択は、後で身体に戻ってくる。肘の皮膚の真ん中に、うっすら赤い帯が残っている。痛みは、薄い。


     *


 放課後。トラックの赤は夕方の光で柔らかく見え、線審台の影が長く伸びている。亜子のフォームは、この時間特有の伸びやかさを帯びていた。肩の力が抜け、腰が高い。その高い位置が、最後の直線まで保たれるかどうか。それが今日の課題。


 恋のノートに従って、順番を守る。「褒め→一個だけ改善点→約束の更新」。この順番は、言葉の血圧を一定に保つための配列だ。


 「カーブの入り、きれい。内に落ちすぎない。——ひとつだけ、腕の戻し。終盤、拳が閉じすぎると肩に上がる。小指を気持ち、外へ」


 「小指」


 亜子は復唱する癖の角度で、短く言う。それから、髪を耳にかけ直し、「次のミーティング、三十分に戻していい?」と笑った。嬉しい。嬉しいのに、胸の中で、三枚の白いチップが同時にカタ、と鳴った気がした。三は短い。短さを意識すると、喉の奥が熱くなる。事件の層が夜に重なる見込み。恋を言い訳に巻きたい衝動が、首の後ろの筋肉を固くする。


 「戻そう。ただ、前半十分、要約で締めよう。残り二十分、更新」


 「更新」


 彼女は言葉の響きだけを味わうみたいに繰り返し、笑った。笑いに、焦りがない。焦りは、こちらの側だけにある。


     *


 夜。理科棟の裏の空気は、昼の匂いを半分くらい忘れている。紙センサーの受信端末が、静かに震えた。霧島がそれを掌に受け、時刻を読む。「二十時一〇分、開。二十時二〇分、開。二十時三〇分、開」。十の刻み。ぴたりとした規則性に、逆にゆらぎが混ざる。十の山は一つの手元からだけは立たない。“一人”ではつくれない拍。霧島は短く言う。


 「今夜の“巻く者”は二人以上」


 ひとりの周期では出ないパターン。俺の喉の奥で、白いチップがまた鳴る。一回目を切るか、逡巡。切って、近づいて、見る。見れば、名前がわかるかもしれない。名前を持ってから触るのが原則。でも、今は——。


 「私が行く。湊は温存」


 久遠が肩に手を置いた。手のひらは軽く、体温は低い。その低さが、逆にこちらの熱を鎮める。彼女は、夜の空気の縁に沿って、音を立てずに滑る。白いチップを二枚、窓際の棚に置いた——表向き。小さな円が、部室にいない俺の胸にも影を落とす。


 彼女は軽やかに二度、巻いた。八秒の穴を抜け、準備室の内側に立ち、ファラデーケージの前で耳鳴りを数える。十の山の直前、ドアの金属が吐息を漏らすように鳴る。小田が入る。彼の靴音は規則的。点検表を開く紙の音。ボンベのベルトの締め直し。古い延長コードに視線を落とす時間が、ほんの少し長い。ため息は聞こえない。けれど、空気の密度がひと呼吸だけ重くなる。彼は「仕様」の棚に何かを上げ直し、出る。


 十分後。財前が来る。扉の開け方が軽い。肩の力が違う。生徒会の鍵、という権限の軽やかさが指先にある。封鎖してあるはずの差込口の禁止テープに、彼の爪の跡。テープを一度剥がし、また貼る。端が二重。いそがしい足取り。たこ足の白いタップを一つ、ポケットに入れて帰る。間に合わせの匂い。悪意ではない。だけど、近道は熱い。


 戻ってきた久遠の指先が、ほんの少し震えていた。彼女の耐性は異様に高い。酔わない。耳鳴りを数える。十秒で数字が音に変わるのを待つ。そのルーティンがあっても、連続巻きは身体の奥に薄いノイズを残す。震えは、ノイズの可視化だ。俺は胸が痛む。無理をさせた。そして、これからも無理を頼むのだと思うと、痛みは形を持つ。


 「小田と財前。両方来た。小田は点検。財前は延長ケーブル。二人とも、悪意じゃない。でも重なると、危ない」


 久遠は、報告を短く整えて言い切る。霧島は、頷き、次の手を配る。「——明日、小田には予算の代替案を、財前には電源の合法ラインを提示する。巻かないで説得できるか、やってみる。湊は資料作成。久遠は観測の持久。蜂谷先輩は教員ルートの根回し」


 「代替案?」


 「更新が通らないなら、寄付と共同利用。理科室の在庫の転用。地域の余剰品の斡旋。責任者に“選べる正しさ”を渡す。——財前には、体育館の補助盤から許可のもとで引くルート図。“合法最短路”。近道の人には、合法の近道を提示する」


 説明はぶっきらぼうでも、筋が通っている。説得の相手に合わせて、言葉の道を地図にする。そこを歩けば、火に近づかない。近づかないで済むのなら、誰だってその道を選ぶ可能性がある。


 俺は白いチップを一枚も置かなかった夜に、かえって疲れを感じる。使わなかったことで残る疲れ。温存は、体力ではなく判断力を消費する。判断の筋肉がじわじわ熱を持つ。胸の真ん中の時計の蓋は、今日一日で少し重くなった気がする。


     *


 帰り道。マンションの前の街路樹に、薄い風が通る。枝先の小さな葉がひとつ、遅れて揺れる。スマホが震えた。画面には、亜子からの短いメッセージ。


 『明日、朝練の前に会える?』


 迷う。迷いは、白いチップの重さを増幅させる。三回。三という天井。恋と事件の両立は、言葉でしか回避できない瞬間がある。言葉の精度で落石を避けるしかない。俺は深呼吸をして、『はい』と返した。ひらがなの「はい」は、堅すぎず、軽すぎず。送信。既読。画面の白に、夜の黒が薄く映る。


 家に入り、机のノートを開いた。生成りの表紙は、指の脂で光を拾い、少しだけ艶が出ている。ページの余白に、今日の更新を足す。〈——巻かないで、説得〉。二重線で囲み、右上に小さく〈三回制限〉と書き添える。言葉に四角を与えると、胸の奥のざらつきが少しだけ整う。角が落ちる。


 ペンを置いて、時計の蓋に指を当てる。開けない。今日も開けない。開けないことで、誰かを守れた回数はゼロじゃない。ゼロは時々、誇りになる。誇りは、小さくていい。小さいほうが、翌朝の筋肉に馴染む。


     *


 翌朝に近い夜の底、浅い眠りの中で、俺は白いチップを三枚、掌に載せている夢を見た。一枚が風で転がり、机の端から落ちる。落ちる前に、指が伸びる。指を伸ばした瞬間、誰かの声がする。「足して消すな」。その声に反射して、指が止まる。止まると、落ちない。落ちないと、風が弱まる。風が弱まると、部屋の影が形を取り戻す。目が覚める直前、扉の向こうで金具が短く鳴った。現実の音。理科準備室のものではなく、うちの玄関の金具の、ただの音。


 朝は、思ったより軽かった。空の明るさが均一で、影が立たない。顔を洗い、タオルで押さえ、紐を結ぶ。輪を弾く。跳ねを見届ける。内ポケットのノートを確かめる。「説得」の四角が、紙の上でまだ新しい。新しい四角は、声にしやすい。声にしやすい言葉は、相手の耳の中で角を丸くする。


     *


 登校すると、霧島がホワイトボードに“説得”の地図を描いていた。小田へのルート、財前へのルート。矢印の先に、具体の言葉。「現行品の代用」「寄贈の一覧」「許可済みライン」「担当教師の合意」。それぞれの言葉が、棒線で結ばれている。棒線は細いが、切れにくそうな顔をしている。


 「今日は“巻かないで押す”。湊、行ける?」


 「行く」


 白いチップは、まだ三枚。けれど、白の光沢に、もう色の名前をつけないようにする。チップは、ただの制限だ。制限は、助走の角度を決める。助走が決まれば、踏み切りのコツは、身体が思い出す。


     *


 昼前、理科準備室。小田は台帳の前で、ペンを止めた。指先にわずかに力を込め、朱のスタンプが並ぶ欄を見つめる。俺は、ノックをして、入る。霧島が作った「代替案」の紙を差し出す。紙は、文字が少ない。見出しが多い。


 「更新が通らないなら、借りる。学校外から。使っていない予備の器材の提供リスト。地域の理科室の余剰品。——共同利用の申し込みフォーム。試しに、一台だけ、取り寄せる」


 小田は、俺の顔ではなく、紙の棒線を見た。見てから、ゆっくり呼吸をした。倦怠の匂いは、昨日より薄い。薄くなると、怒りが露出することがある。露出した怒りは、声になる。彼は怒らなかった。代わりに、筆圧が下がった。


 「……やってみるよ」


 声は小さく、しかし前に出る足取りをしている。朱のスタンプの列の端に、鉛筆で小さく印がついた。鉛筆の薄さは、弱さじゃない。仮置きの印は、撤退のためではなく前進のために必要だ。


 午後。体育館の脇。財前は、コードの束を腕に抱えていた。挨拶をし、紙を渡す。「合法最短路」。電源盤の位置、許可の取り方、ケーブルの長さ、養生の仕方。図が多い。文字が少ない。彼は、図から文字に、文字から図に、視線を往復させた。


 「これ、ちゃんと許可取れば、ここから引けるの?」


「取れば、引ける。時間はかかる。でも、かからない手順も書いてある。最短路の“正規化”」



 彼は、ため息をつかなかった。かわりに、肩の力が少し抜けた。抜けると、彼は笑った。「これ、先に知りたかった」。先に知っていれば——と人はよく言う。その言葉は、巻き戻しの誘惑に似ている。俺は「今、知ったから、今から変えられる」とだけ返す。返した言葉が、自分の胸にも弾んで戻る。


     *


 その日の夜、白いチップは結局、俺の手からは一枚も離れなかった。窓際の棚には、久遠の二枚が表向きで並ぶ。彼女は平気だと言うけれど、指先の震えはまだ薄く残っている。俺はその震えの輪郭を目に刻み、胸のノートの「説得」の四角を指でなぞる。四角は、まだ新しい。新しいうちに、使い込む。


 ベッドに入る前に、ノートにもう一行だけ足した。〈“説得”の前に十秒〉。要約の前の十秒。怒りの前の十秒。巻きの前の十秒。十は、俺たちの単位だ。十が、今夜はいつもよりやさしい。


 スマホが震えた。亜子から「おやすみ」の八文字。句点も絵文字もない。けれど、息の位置が正しい。「おやすみ」の右側に、ちいさく空白がある。その空白は、明日の“朝練前の十五分”の予告だ。空白の予告。予告は、落石を避ける。避けられる未来を、小さく増やす。


 目を閉じる直前、理科準備室のファラデーケージが暗闇の向こうでうっすら光る映像が浮かんだ。竜頭に触れる見えない指が、一定角度で戻す癖。癖には持ち主がいる。持ち主を、巻かないで特定する。巻かないで、説得する。説得できなかったときだけ、巻く。順番を間違えない。間違えないために、白いチップが見える場所にある。見える圧は、ときに救いだ。


 眠りに落ちる。耳の奥の音は数字ではなく、ただの夜の粒に戻り、胸の中の時計は、重さを増さずにただそこにある。三枚。三という天井。天井があるから、言葉が磨ける。磨いた言葉で、明日の朝を迎える。朝の光の中で、俺は白いチップを胸ポケットに入れ直し、階段を降りる準備をする。降りる先に、説得の扉。扉は、押せば開く。押す手は、巻かない。巻かないで開く扉を、今日、ひとつでも増やす。そのために歩く。歩く速度は、昨日より少しだけ、正確だ。


第8話「霧島先輩の後悔」


 朝練の前、校門の影はまだ細く、空の青さは昨夜の温度を少しだけ抱え込んだまま、吐く息の白をすぐにほどいてしまう程度の冷たさだった。トラックに向かう生徒たちの足音が砂を細かく噛み、スパイクのピンが金属の鳴き声をちいさく残す。グラウンド脇で、亜子は髪をひとつに束ね、ゴムをきゅっと二回転、三回転。結び目に指を添えたままこちらを見た。目は既に走る目だ。余計なものを撥ね、必要なものだけを収める透明な器のような視線。


 「今夜は——準備室の安全対策で動く。会えない」


 俺が言い終わらないうちに、彼女は頷いていた。頷きの角度は深すぎず浅すぎず、了承の角と、次へ進む角の中間。「わかった。代わりに朝の三分、くれる?」


 「くばるみたいに言うなよ」


 「三分の“やり方”で」


 ふたりで買ったノートの言い方を、そのまま使う。俺は腕時計を見ないようにして、呼吸だけで三分を数えることにした。彼女の足元がレーンに向かい、スタートのセットの姿勢に入る。肩は低く、腰は高く、首の後ろに余計な皺が寄らない角度。ピストルの代わりに、俺の息が三度、静かに切り替わる。その三つめで、彼女は土を蹴った。最初の三歩。昨日までの自分より半歩だけ、新しい三歩。俺は言わない。「よし」と言わない代わりに、目で線を引いて渡す。彼女はその線を踏み続け、カーブの外へ消えた。背中が小さくなっていくのを見送ってから、俺は部室へ急いだ。


 部室の扉を開けると、霧島が、いつもの白衣ではなく、学校指定のジャージで椅子にもたれていた。肩のラインがいつもより丸い。黒いマグカップの口が机に下向きに置かれていて、飲み物が入っていないことを示している。白いイヤホンの片方は机の角に引っかけられ、もう片方はポケットの中に沈んでいる。


 「——個人の説得は、巻かないでやる」


 言い出しは直線だった。霧島はホワイトボードに描きっぱなしの「恋/安全/説得」の三角形を見ず、視線を窓の外の一点に固定している。窓の外には何もない。ただ冬枯れの桜の枝が二本、空の中で細い文字を描いているだけだ。


 「けど、俺は……過去に、巻きすぎて壊した」


 ジャージの袖口の糸が一本、手首の下でほどけかけているのが見えた。霧島はそれを気にするでもなく、拳をゆっくり握り、開いた。指の第二関節が白くなる。話は、その白さの上に置かれた。


 「日高さん、って知ってる?」


 聞いたことのない名だった。俺は首を横に振る。


 「理科準備室の前任の助手。俺が一年の終わりに会った人。小田さんの一個前。研究時計の調整に異常な執着を見せてた。事故を未然に防いで、“英雄”って呼ばれた時期があった。火の匂いの条件を全部覚えて、何層も先回りして、ぜんぶ消して回った。——翌日、部屋で倒れてた」


 乾いた言い方だった。乾いているのに、喉の奥の地面だけが濡れているような響き。


 「ループ疲労が蓄積して、脳の電気信号が乱れてた、って。医者は曖昧な言葉を選んだ。日高さんは、『巻けば善いことが増える』って短絡を信じた。『巻いた層は安全になる。巻かない層での違和感は、誰も拾えない』。孤独は、加速した。俺は気づいていた。——止めなかった」


 机の角に霧島の拳がそっと触れて、接触面が白くなる。その白さが、ゆっくり、ほんの少しずつ戻ってくるまでの時間が、部屋の空気から音を抜いた。


 「研究時計は、もともと時相実験の副産物だ。十分快の周期で微弱な電荷を出す旧式装置。生体の時間感覚にどれだけ影響するか、っていう、創設期の理科主任の遊びみたいな研究。メモが残ってる。『主観時間の同期化の兆し』——って、嫌な言葉」


 「同期化?」


 「巻く者同士は、無意識に同期してしまう可能性。昨日、二人同時に扉が開いたのも、その一例かもしれない。十の山のところで、誰かの“巻く”が、別の誰かの身体の十を呼ぶ。呼び鈴みたいに。——呼ばれる方は、呼ばれていることに気づかない」


 彼はそこで、ようやく俺を見た。目の奥の色は濃いのに、輪郭が曖昧だ。眠れていない目の色だと、わかった。俺はいつもの「軽口」で逃避しないことにする。「止められなかった、って言ったけど、止められる?」


 「止めるのは、たぶん、説得だ。巻かないで、言葉で、筋道で。もしそれでも止まらないなら——装置の側を切る」


 装置。ファラデーケージの中の、呼吸のない心臓。時計。竜頭の癖。十の山の前に、指の角度。俺の胸の奥の時計の蓋が、彼の言葉に合わせて、触れてもいないのに冷たさを帯びる。


 「今日は二段構え。午前にそれぞれの説得。夜に“核”の絶縁。……湊、お前は——チップ、温存。最悪、同調崩壊が起きたら、追いつけるの、お前しかいない」


 「同調崩壊?」


 「同期が破れる瞬間。片側だけ落ちる。片側が“巻いた層”に、片側が“巻かない層”に取り残される。通信が消える。誰かの十だけが、世界と合わなくなる。そういう崩れ方を、俺は一度だけ——日高さんのときに見た」


 彼はそこで言葉を止め、口を閉じた。閉じた口の中で噛んだ言葉の味が、部屋に静かに滲む。味は苦い。けれど、それを俺は嫌いだと思わない。苦さは、舌を起こす。


 「……わかった」


 俺は言う。言いながら、ノートの「説得」の四角に指を当てる。午前の俺の仕事は、それだ。巻かないで押す。押して、糸を少しだけ緩める。二人の、違う種類の強さから、十の山の角を欠く。


     *


 午前。霧島の作ってくれた資料の束は、必要最小限の文字と、必要最大限の図でできていた。矢印は細く、角は丸い。説明する言葉も、角を持たないように整えられている。


 まずは小田。理科準備室の片隅、台帳の白と朱の波の中で、彼はペンを持つ指を静かに置いていた。指の甲の血管の浮き方は、昨日より少しだけ薄い。眠れたのかもしれない。俺はノックしてから入る。紙の束は、見出しだけが目に入るように並べてある。「代替案/安全投資の回し方/共同利用の窓口」。


 「古い配線の更新予算、通らないなら、生徒会の余剰を“安全投資”名目で回せないかと。文化祭で使った仮設の分電盤、いま倉庫で眠ってます。それを……」


 小田は俺の顔ではなく、紙の矢印を見ていた。視線は紙から紙へ移り、そこで止まり、細く息を吐いた。「生徒会の、財前くんに?」


 「同時に行く。向こうには『ルールを破るほうが遅い』って話を」


 ため息は、昨日のより浅い。浅い息は、先へ行く意思の前段階だ。彼は小さく頷き、「——責任が、軽くなる」と言った。責任、という語の重さを、彼は日常的に肩に乗せている。軽くなる、という語の明度を、彼が口にしたことが、紙以上に効いた。


 次に財前。体育館脇で、コードの束を肩に掛け、「今日が締め切りなんすよ」と笑ってみせる手つきが、少しだけ不器用だ。禁止テープの写真を見せる。テープの端の二重。剝がして貼り直した爪の跡。俺は矢印を彼の視線と同じ速度で辿る。「こっちの迂回手順で、総時間は——二割短い。許可書と連絡の並列処理。今の“禁止を超える”やり方は、猶予のあいだは早く見えて、実は遅い」


 「……俺、早く終わらせたいだけだった」


 彼は渋い顔をし、言葉の最後をわずかに落とした。罪悪の音ではない。速度の認識を、少し変えたときの音。敵じゃない。近道の人は、遠回りの言葉で説得してはいけない。最短の中に正規を挿し込む。それだけだ。


 霧島は、教師側の根回しを短く走らせ、蜂谷先輩は「寄贈の一覧」を印刷して教務に滑り込ませた。久遠は廊下の風の向きを見る役。俺は、伝達の要約をノートに記す役。筆圧は均一に。間違った言葉は消して書き直す。消し跡の白が、今日一日を明るくしないように。


     *


 夜。理科準備室は、昼より少し温かかった。蛍光灯を一本抜いたせいか、天井の光は柔らかく、棚の影は浅い。ファラデーケージの網目には、薄く指紋が残っていた。拭いても拭いても、人の油は薄く重なっていく。心臓に触れるたび、指紋が増える。


 「一回目、俺が切る」


 霧島は白衣を着ず、ジャージの袖をまくり、絶縁手袋を丁寧にはめた。黒板に描いたモデルは、昼よりも線が少ない。必要な角だけが残る。その角の一番手前に「絶縁」と書かれている。彼はケージの側面の端子から、細いリード線を抜き、古い布テープで固定していた絶縁体を新しいものに換え、接地のルートを別系統に逃がす。針のような音が一瞬だけ空気を刺す。「——切った」


 「二回目、私」


 久遠が、薬品棚の前に立つ。彼女は一つ一つの瓶のラベルを読み、危険度の高いものから「距離」を置く。距離という行為は、ここでは空間のことではなく、時間のことだ。十の山の近くにあるものを、少しだけ遠ざける。彼女の指先は、震えていない。昼間の薄いノイズは、静かな呼吸の中で、どこか別の層へ沈んでいる。


 俺はチップを胸ポケットに入れたまま、温存。温存という言葉の中には、いつでも「跳べる」準備の筋肉が入っている。筋肉は熱を持ち、熱は冷えに弱い。冷やさないように、呼吸で包む。耳の奥の音を数える。数が数字から音へ変わる前に、気配が変わった。


 ——薄いひっかき傷のような、静電の音。蛍光灯が、誰かのまばたきと同じリズムで二度だけ瞬く。室内の空気の密度が、同じ部屋の別の場所のものになって、すぐ戻る。霧島の顔が、紙のように白くなる。


 「崩れる」


 彼の声は、空気より先に届いた。次の瞬間、世界が、薄紙一枚ぶん左右に滑った。いつもの三分の逆再生の沈み方とは違う。静かに、破れる。布が片側だけ解けて、縦糸が一気に引き抜かれる感じ。——ループが片側だけ適用された。久遠が、消えた。いや、見える。見えるのに、音がない。彼女の口が何かを言っている。耳が拾えない。目だけが拾う。準備室の灯が二重写しに瞬き、俺と霧島は「巻かない層」に、久遠は「巻いた層」へ落ちた。


 「これが一番危ない」


 霧島の声は、紙の端の音に似ていた。破れ目の角で指を切らないように、声の角を丸くしても、切れるときは切れる。俺は窓の外の廊下に走る影を見た。二つ。小田の歩幅と、財前の肩。二人が、偶然同時に扉に手をかける未来を、久遠はそっち側で見ているはずだ。俺はこっち側で、扉の外に立つ彼らに声をかけることしかできない。


 「——今、開けないで!」


 叫びは、金属に跳ね返り、廊下の壁で鈍くなる。影が止まる。止まった影は、止まっているだけで、何も理解していない顔の影だ。扉の上の小さな窓に、二人の目の白がふたつ、少しだけ映る。それは、こちらの層にいる目だ。層は、目の白では区別できない。


 準備室の内側では、久遠がケージの前に立っている。立って、片手を上げている。何かの合図。彼女の口が「待って」と言っているのが、唇の形でわかる。音がない「待って」は、世界に擦り切れて消えかけのチョークの線みたいだ。


 霧島の片手が、机の角に置かれている白いチップに伸びる。握らない。指を止める。止めた指が、わずかに震える。彼は震えを嫌うように、指を握り直してポケットに戻した。


 「湊——行け」


 合図を待つまでもない。俺は胸ポケットのチップを掴んだ。白は、軽い。軽いのに、おそろしく重い。「三回は天井」。さっきまで霧島が言っていた言葉が、急に床板のように固くなる。踏み切る場所は、いつも床板だ。音を立てずに、でも確かに。俺は腕時計の蓋に指をかけ、トリガーを押した。


 胸の奥が裂けるように痛んだ。いつもの元へ帰る感じと違う。引きちぎられて、押し込まれる。耳の圧は、数字になる前に痛みになり、痛みは、言葉を焼く。焼ける音が、遠くの雷のように遅れて届く。三分の逆再生の間に、時間の脇道がひとつ開いたような、そんな奇妙な曲がり方。曲がり角で、何かが落ちた感覚。落ちたのが何か、すぐにはわからない。


 ——世界がしばらく、縫い目を見せたまま止まり、また動いた。久遠のいる層に、俺は着地する。彼女の耳鳴りの数の途中に、俺の呼吸が割り込む。久遠がこちらを見た。目は驚かない。驚く人は、驚く前に数える。彼女は数えていた。数え終わったところで、俺が現れた。だから、平らに見える。


 「来た」


 彼女の口が動き、今度は音が乗る。音は薄いが、音だ。音は、層の確かさだ。


 「小田と財前、十の山で同時。扉、今、触れたら——放電が重なる」


 「外は止めた。けど、完全じゃない」


 「完全は、ない」


 「ないな」


 背中のほうで、金属の触れる音がした。扉の外の世界で、誰かが取っ手から手を離した音。こっちの層では、その音は少し遅れて届く。遅れのぶんだけ、燻りが残る。


 霧島は、扉の隙間からこちらを見ている。こちら、と言っても、彼の視線がどの層に届いているのか、はっきりしない。視線は層をまたぐのか? またげないのか? 彼の口が何かを言い、俺の耳には届かない。彼の眼差しの中心に、小さな痛みの色がある。日高さんのときに、彼が持ち続けた色。「止められなかった」の色。


 「霧島——」


 俺は口を開き、言葉をやめた。言葉は層をまたがない。届けるべき言葉は、こっち側にも、向こう側にも、別の形で用意しておくべきだ。今、必要なのは、こっち側にいる相手への言葉。


 「久遠。ケージ、触るな。触らせない」


 「うん」


 彼女は頷き、ファラデーケージの手前に体を入れた。扉の外で、財前の足音が半歩下がり、小田のため息が半拍、遅れた。遅れた息は、火の条件からひとつ、距離を置く。


 「十の山、あと二十秒」


 久遠が低く言う。耳の奥で彼女が数えている音と、俺の胸の奥で数えている音が、少しだけずれ、やがて近づく。同期化と、非同期。研究主任のメモの嫌な言葉が、現実の中でゆっくりと形になる。——主観時間の同期化の兆し。兆しは予感ではない。現象の端だ。端は、手で触れても崩れないように、言葉で縫うしかない。


 「湊、三——二——一」


 彼女の声に合わせ、俺はケージから目を離さず、扉の向こうへ向けて言う。「今、開けないで。十秒だけ、待って。十秒で——終わる」


 層をまたがないはずの言葉が、扉の金属をつたって、指の温度に変わる。金属の温度は、時間とよく似ている。触っている間だけ、こちらに寄ってくる。十秒は、長くない。長くないのに、十の中には全部入る。待つ、という行為は、その全部を一度抱え込む勇気だ。抱え込む手が、扉の向こうで、一つ、二つ、少し強くなった気がした。


 十の山が、過ぎた。久遠の肩の力が、ほんの少し抜ける。ケージの中の時計は、秒針を震わせながら、音を立てない。蛍光灯は、一度だけ小さく瞬き、すぐに落ち着いた。こっちの層と、向こうの層の重なり目が、薄く縫い直されたように見えた。


 「——戻る?」


 俺が言うと、久遠は首を傾げ、「まだ」と答えた。彼女の「まだ」は、感覚の言葉だ。理屈より先に、耳鳴りの数で答える。「霧島が、向こうで、止まってる」


 「止まってる?」


 「動けないんじゃなくて、止めてる」


 俺は振り返って、扉の小窓を覗いた。霧島の目は、こっちを見ている。こっち、とは、やっぱりどちらでもない。層の縫い目を見ている目だ。彼は俺の見えない何かに頷き、見える何かに頷かない。頷きの数は、いつもの彼の数え方と違う。一つずつ、遅い。


 「湊」


 久遠の声が、呼吸の側から降りてきた。「さっき、痛そうだった」


 「うん。変な、裂け方」


「一回目、もう、置いた?」



 「置いた」


 窓際の棚に、俺の白いチップが一枚、表向きに置かれているのが見えた気がした。見えたのは気のせいだ。棚は今、向こうの層にいる。けれど、見えた気がするのは、たぶん、俺が覚悟を棚に置いたからだ。


 「二回目、三回目は——できるだけ、置かない」


 久遠の言う「できるだけ」は、彼女の誰よりも厳しい「できるだけ」だ。彼女は酔わない。酔わないけれど、震える。震えるけれど、数える。数えるけれど、止まる。止まる、と彼女が言うとき、止めるのは自分だ。誰かの十に同調しないように。自分の十を自分の耳に戻すように。


 「霧島——」


 俺はもう一度、彼を呼んだ。届かないのを知りながら、口の形を作る。作った口の形は、俺自身の耳にだけ届く。「止められなかった」を、「止められた」に変える言葉を、探すのは今じゃない。今は、十が過ぎるのを見届ける。過ぎたら、戻す。戻す、は、巻くのとは、違う。戻す、は、呼吸を戻す。呼吸の場所に、言葉を戻す。


 「戻ろう」


 久遠が言った。耳鳴りの数が、日常の音に戻った合図。俺は頷き、彼女と同じタイミングで蓋に指をかける。こっちの層から向こうの層へ、向こうからこっちへ、同時に戻る。戻る瞬間、薄い紙片みたいなものが胸の中で擦れて、音を出した。紙片にはたぶん、文字が書いてある。書いてあるのは、「三」。三は、天井だ。天井は、頭を打つ目安でもある。


 世界が、縫い目を隠した。蛍光灯の光は、ふつうに白い。霧島は、こちら側で息を吐き、椅子の背にもたれかかった。背中の線は、さっきより少しだけ、まっすぐだった。


 「……崩れた」


 「崩れた」


 答え合う声は、裏返らない。裏返らないのは、今日の十をちゃんと数えたからだ。霧島は、ゆっくりと立ち上がり、黒板の「絶縁」の横に小さくチェックを入れた。それから、もうひとつ新しい項目を書いた。「同期の切断」。チョークの粉が薄く舞い、俺はくしゃみを一つ、飲み込んだ。


 「今日はここまで。日高さんの時みたいになる前に、止める」


 霧島は、自分に言っている。俺たちにも、言っている。日高という人の名が、部屋に小さく残る。残り方は、匂いに似ている。誰かの名は、時々、匂いで残る。匂いは、火と同じくらい、時間の中で長く生きる。


     *


 帰り道、夜は昨日と同じように薄く、違うように濃かった。スマホに何度か光が走り、亜子からの「おやすみ」が届いた。句読点のない八文字。俺は「おやすみ。明日の朝、三分」と返し、送信。言葉の右に、少しだけ空白を残す。空白は、約束の形をしている。約束の形をしている空白は、今の俺たちを軽くする。


 家に着き、ノートを開く。今日のページの余白に、今日の十の数を書き足す。「絶縁/薬品距離/同期崩れ/一回目使用(痛み)」。痛みの横に、小さく括弧で「裂け方」。記録は正確に、感情は正直に。最後に一行。「——止められなかった、を、止める」。霧島先輩の後悔の文法を、未来形に直す。直した文は、明日のための道具になる。道具は、使ってこそ意味が出る。


 枕元に時計を置き、蓋に指を添える。開けない。開けないで、眠る。眠る前、胸の中の紙片がまた擦れた気がした。「三」。天井。天井を見上げると、そこに薄い影が歩いている気がする。影は、たぶん、俺だ。歩いているのに、上を向いている。上を向きながら、下に降りる階段の段差を数える。階段は、明日の朝に繋がっている。明日の朝は、三分。三分は、短くて、十分だ。十分は、俺たちの単位だ。単位を信じる。信じて、目を閉じる。


     *


 翌朝。空気は昨日より乾いて、雲は薄く、影はまだ立たない。亜子はすでにレーンに立ち、軽く跳ね、足首のバネの確かさを確かめている。俺は「三分」とだけ言い、彼女は頷き、スタートの姿勢に入る。三分の間、俺は一度だけ言葉を置いた。「三歩目、落とさない」。それだけ。彼女は短く笑い、土を蹴る。昨日より、また半歩だけ、新しい走り。三分が終わる前に、俺は言う。「今日も夜は、準備室」。彼女は「よし」と返す。よし、の一語には、いろんな層の意味が折り込まれている。折り紙は、広げると皺が残る。残る皺が、地図になる。


 部室に戻ると、窓際の棚に白いチップが一枚、表向きで置かれているのが目に入った。俺の一枚。久遠の昨日の二枚は、もう裏返されていた。裏返すのは、儀式ではない。終わったことに「終わった」という印をつけるための、小さな動作。印は、心を軽くする。軽くなった心で、今日の十を数える。十の前に、十秒。十の後に、十歩。十の横に、十の言葉。霧島が黒板の前へ歩き、ジャージの袖口のほどけかけの糸を、やっとちぎった。


 「——続きだ」


 彼は言う。言いながら、ほんの少しだけ、笑った。その笑いは、後悔の影を消しはしない。ただ、影の輪郭をはっきりさせる。はっきりした影は、避けやすい。避けやすい影の上に、俺たちは言葉を置く。置いた言葉は、巻かないで重くなるように、今日も磨く。磨くのに、俺の三分の朝は十分だった。十分は、俺たちの単位だ。単位は、昨日も今日も、たぶん明日も、変わらない。変わらないものの上に、変わるものを重ねて、俺たちは進む。進みながら、時々、戻る。戻る時は、誰かの後悔を、未来形に直す。直し方を、俺は覚え始めている。まだ途中だけど、途中で勝つ方法を、俺たちは何度も練習してきた。今日も、練習の続きだ。練習は、本番だ。そういう一日が、静かに始まる。

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