2話  ソフィ・マリア号の出現

 メインマストの一番高い位置に居るジルが、銃に取り付けた特注の遠眼鏡で東南の方角を見ている。


「ああもう!これじゃよく見えないわよ!」と苛ついたように銃を下ろして、下方のトップヤードに居る仲間の狙撃手に叫んだ。


「ジョシュ! アンタ見える? こっからはガレオン1隻とカッター2隻、ランチ3隻が見える! どこの奴かわかる?!」


 ジョシュと呼ばれた飴色の髪をした若い痩身の男は「ん〜?」と望遠鏡を眺めていたが、やがて「デッキ!」と下に報告した。


「ガレオン1隻に小艇5隻! 旗は無い! 船体は緑、船首像は大鷲!」


 それを聞いたウィリアムが、「訓練は中止だ!」と叫んだ。記憶を手繰るように顎に手を当てて軽く頭を捻る。


「大鷲の船首像…覚えがあるぞ」


 ウィリアムが思い出す前にレオナルドが説明をしてくれた。


「ソフィ・マリア号。元は、政府の要人や機密を運ぶ船として作られた我がネオス国の船だ。一年前に海賊に襲撃され、奪われた」


 その事件ならウィリアムも知っている。


「ということは、あれは海賊ビーク・ゲイルか」


 ビーク・ゲイルは齢五十八。長きに渡り海賊稼業で近海を荒らし回って名を知られていたが、ジョン・ミラーとウィリアム・グレイという二つの若き大海賊が台頭してからというもの、こそこそとしみったれた悪事を働く程度の小物に成り下がっていた。


「まさか、襲っては来ないだろう」


 ウィリアムはそう考えたが、さてどうだろう。

 本来こちらは勇壮なガレオン六隻の船団であるが、現在フローラ号は訓練のために単身で足を止めていたので、案外向こうからは、護衛船とはぐれて取り残されているたった一隻の商船にでも見えるかもしれない。それならば相手にとって恰好の獲物だろう。しかし、他を威圧するような先ほどの大砲の轟音や湧き上がる硝煙が向こうから見聞できたはずだ。それならば仕掛けてなど来ない。力の差が圧倒的なのだから。


 ウィリアムの考えを読んだらしいレオナルドが、発言をする。


「こちらは風下だ。もしかしたら訓練の音は聞こえてないかもしれぬな」

「いやいやまさか。これだけ離れているとはいえ、少しくらいは聞こえているさ」

「奴らはソフィ・マリア号を得てから、調子づいている。こちらに多少の戦力ありと見ても、襲ってくるだろう」

「…そうか」


 それは困ったな。とウィリアムは眉尻を下げた。

 ミラーとの大戦を控えた今、面倒ごとは避けたい。弾薬を無駄に失うのも足を止められるのもごめんだ。これは逃げるに限る。

 ウィリアムが背後に控えたレナートに指示を出そうとしたとき、レオナルドがそれを制止した。


「今、戦った方が良いのではないか? ビーク・ゲイルに追って来られたらどうする」


 レオナルドが諭すように続ける。


「ここで我々が逃走して仲間の船団に合流するところを目撃されたら、行く先を不審に思われるのは間違いない。そうなれば口封じのために戦闘をするしかなくなる。結局は同じことだ」

「この船は速いし、まだ相手と距離が離れている。今なら簡単に相手を撒けるぞ」

「こちらの戦闘準備はすでに整っているではないか」

「…先を急ぐんじゃないのか?」

「勝てる戦いを逃すなど、それでも海賊かグレイ」

「……」


 レオナルドはこちらを見ずに、不自然にまっすぐ前に視線を向けていた。

 …どう考えても説得されているなこれは。


「もしかして、戦いたいのか? レオ」

「……」


 レオナルドはぎゅっと口を引き結んでから、はあ、とため息をひとつ吐いて「なぜ自艦ではないのだ…」と悔しそうに呟いた。


「ずっとゲイルを追っていたのだ…まさかこんなところで遭遇するとは…」


 とブツブツ独りごちると、項垂れるように俯いたままで言った。


「…すまぬ、グレイ。正直に言う。私はソフィ・マリア号を取り戻したい。これは契約にはない戦いだが、報酬は支払う。ゲイルを打ち取ってくれ」

「いや…お前がそう言うなら…」


 俺がレオの真意を勘違いしただけだ。あんな小物と戦うよりもミラーとの戦闘の方を優先させたいのだろうと思い込んで、逃げの手を打とうとしたまで。彼がゲイルとの戦いを望むなら吝かではない。

 報酬など要らないとレオナルドに伝えようとしたとき、

「グレイ…私はあの船が欲しい」と言ってレオナルドがウィリアムを仰ぎ見た。


「頼む。願いを聞いてくれるなら代わりに私がお前の願いを何でも聞こう」

「え…?!」


 今、なんて言ったレオ?! 

 レオナルドは申し訳なさそうに僅かに眉根を寄せ、懇願するように…というかおねだりするように(ウィリアムにはそう見えた)小さい声で言った。


「グレイ、ダメか…?」

「何でもあげる!!」


 ウィリアムは即答した。

 可愛い恋人にこんなに愛らしくおねだりされて、どうして断れようか! 船一隻のプレゼントくらいなら安いものだ!

 ウィリアムは俄然やる気になった。

 てれてれと嬉しそうな笑顔でレオナルドの肩を抱き「傷ひとつつけずにお前に渡すよ」と言ってから、指示を出すべくレナートを振り返った。


「アイ、キャプテン。傷つけずに敵船を拿捕ですね」

「…聞こえていたのか。優秀だなレナート」

「ありがとうございます」


 レナートだけではない。皆がウィリアムの指示を聞き逃すまいと注視していたのだ。

 船長の指示は、真意も含めて全員に伝わった。


 …我らの愛するキャプテンが、恋人へのプレゼントとしてあの敵船をご所望だ!!


 船員らも俄然やる気になっていた。

 尚、ウィリアムとレオナルドが恋人同士だという事実にほとんどの船員が気付いている。シャーロット号の船員も薄々勘付いている。二人は迂闊に皆の前で妙な馴れ合いを見せたりしたわけではない。単純に、二人が醸し出す空気や、表情や、なんやかんやのピンク色の恋模様が、何だかいろいろダダ漏れなのだ。これで気付かない方がおかしい。

 だが、優しい部下たちは我らが船長と艦長の、そんなダダ漏れを指摘したりはしない。皆、美しく勇敢で頼もしい我らのキャプテンが大好きなのだ。


「テメェら、心してかかれ!」「傷のひとつでもつけんじゃねぇぞ!」


 船長への愛と、久々の実戦の高揚も相まって、フローラ号の熱は一気に上がった。

「全員、声を落とせ!」と叫んだのはレナート副船長だ。

 船長の指示が出るまでは、必要な準備は進めても無駄な行動をしてはならない。

 ウィリアムが風向きを確認してレナートに言った。


「レナート。陸地は西だな」

「アイ」

「では、北西に進路を取れ。陸に逃げようとするのろまな商船を装う」


 すぐさま掌帆長にそれが伝えられ、流れるように船員に伝達される。操帆手らは、わぁわぁヒィヒィとわざとらしく悲鳴を上げながら、ブレースに取りつく。ヘタクソにメンスルを右舷開きにし、フォアとミズンもやや遅れてそれにならう。清々しいまでにポンコツな操帆だ。

「左舷にシー・アンカーを下ろせ」と船長の指示が出た。

 シー・アンカーとは、布製の錨である。本来の錨が海底に届かないときに代わりに使用する。これを下ろすことによって、船足はガクンと落ちた。

 どんくさなフローラ号を見て、ソフィ・マリア号は大歓喜のご様子だ。ぐんぐんと距離を詰めてくる。

 ウィリアムが、レオナルドに尋ねた。


「レオ。知り得る限りでいいからソフィ・マリア号の情報を教えてくれ」

「船体の情報でいいのか? 長さは47m、幅⒐5m、排水量は1,118t。船員580人の乗船が可能だ。二層砲列甲板があり、一層は42ポンドキャノン砲が24門、第二砲列には24ポンド砲が22門搭載されている」

「すごいな。武装はフローラとほぼ同等だ」

「あくまで略奪される前の装備だぞ。今はあれらの砲列がどれだけまともに機能するのかわからぬ」


 と、レオナルドが忌々しそうに言った。海軍の管理下で毎日丁寧に磨き上げられていたキャノン砲たちは、今も同じように手入れされているだろうか。いや、そんなはずはない。ビーク・ゲイル程度が率いる船員の質はたかが知れている。そもそも、砲手はどの程度の腕を持っているだろうか?


「レオ。彼女が一年前にビーク・ゲイルに奪われたとき、水夫は解放されたのか?」

「いや、ひとりも解放されていない。船長をはじめ士官は殺されているはずだ。船を動かせる人足は、そのまま働かされていると思われる」


 略奪した船は、積荷を含め人間も戦利品のうちだ。船を動かすには水夫が必要なので、不幸にも略奪された船員は非道な暴力と恐喝を受けて無理やり海賊の仲間にされる。それはよくあることで珍しいことではない。彼らは諦めて、残虐な略奪行為で大金を稼ぐ海賊に身を落とす。だが、真っ当な人間がそんな経緯で海賊に転身して、そうそう簡単に身も心も悪に染まれるものではないのも当然のことである。

 つまりソフィ・マリア号には、脅されて海賊稼業をやってはいるが、堅気に戻りたいと思っている水夫が少なからず居るということだ。


「なるほどな…。それと、ちょっと見て確認してくれ。喫水線の位置は、あれで正しいか?」


 ウィリアムが望遠鏡を渡してきたので、レオナルドは船首楼に積まれたハンモックに登って望遠鏡を覗いた。


「…喫水線がかなり上がっている」

「やっぱりそうか」

「どう見ても過積載だ。追従しているカッターにも大勢が乗船しているあたり、乗組員が多すぎるのだろう」

「それもあるだろうが、おそらくレオが言ったように、あの船を得てから調子づいて相当荒稼ぎしたんだろうな。指名手配されている船だから寄港もできず、積荷はそのままなのだろう。…きっと、船倉はお宝でいっぱいだ」


 ウィリアムは敵船を凝視しながら目をキラキラさせた。

 その様子にレオナルドが呆れる。


「胸が躍るか? 大海賊ウィリアム・グレイ」


 と聞くと、ウィリアムは「ん?」と首を傾げると少年のような笑顔を見せる。


「そりゃそうさ!」


 レオナルドはその眩しく思えるほどの無邪気な笑みにつられて、ふ、と表情を綻ばせた。…こんなに嬉しそうに期待する恋人を落胆させられる冷酷な人間がいるとしたら、それは海賊を凌ぐ非道の者だな、と考えてから、いや、グレイを知る前の私は、もしかしたらそんな人間だったかも知れぬ…とレオナルドは苦笑した。

 そして、


「私が欲しいのはソフィ・マリア号とゲイル一味の首だけだ。船倉の中の物は知らぬ」


 と、過去の自分には考えられないような、海軍将校にあるまじき発言をした。


「ありがとうレオ!」


 ウィリアムが破顔した。

 


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