鬼さんコチラ、桃なる方へ!

四辻十壱

第一章 鬼と桃

第1話 化け物と鬼


「ふふっ、びっくりしちゃった?」



 何かが腐ったような匂いのするその場所で、

 真っ赤な肌をしたその女はにこりと笑った。

 俺に笑いかけたのか。

 この、

 恐怖で頬を引き攣らせているだけの俺に。


 彼女が持つ重厚な色を放つ金棒が、どすんと地響きを起こした。

 長い金髪はこの陰鬱として淀んだ風と共に靡いている。

 そして、


「──鬼に命救われた気分はどう?」


 額から生える大きな二本の角が、

 こいつが自分とは違う生き物だと嫌でも思い知らされた。




 ***


「ぶぇっくしょい!!」


 鞄の中からポケットティッシュをひっつかむと勢いをつけて鼻をかんだ。


「くそー、全然薬効かねーじゃねぇかよ」


 春は嫌いだ、花粉の季節だから。

 ガキの頃はそんなこと気にせず外で走り回っていた気もするんだが、二十代後半を過ぎたあたりから急に鼻がむずむずとしだし、三十代に入った今や年々俺の鼻は奴らの侵略を何故かノーガードで受け入れている。


 ひとまず今のところは鼻水が垂れてこないことを確認してマスクを付け直し、こもった息で眼鏡が曇るのも諦めて通勤路である坂道を下った。


 ああ、そしてもう一個春が嫌いな理由がある。

 あれだ、新学期だ。


 つい先日から俺は勤務先である川下かわしも高校の二年生の担任になった。予定では来年一年生を持つはずだったんだが、二年を持つ予定だった先生が『おめでた』であることがわかり、体調を鑑みて俺にバトンタッチというわけ。

 そりゃめでてぇよなぁ。仕方ないってもんだよ。


「まあ、俺には一生縁のない話──」


 ぼやきは尻切れトンボで空気に溶けていった。


 校門の前に誰かが立っている。

 今はまだ生徒たちが登校してくる時間には早い。


 俺は授業準備の為に職員会議よりもかなり早い時間にこうしてきてるわけだが……


「……私服だし、生徒じゃないよな」


 派手な和柄の上着を着て、下はやたらと短いジーンズを穿いている女性。

 いや、あんなに短いとパンツ見えるだろ。

 長い金髪は高い位置で結われていて、それでも毛先が地面に届きそうだ。

 あんだけ長いと髪の手入れとかめんどくさくねーのかな。

 うわ、なんか髪の内側派手な色入ってんな……。


 とにかく


 俺がなるべくなら関わりたくない『ギャル』っつー生き物だと一目で理解した途端に、すぐさま歩幅を広げ一目散にその女の横を通り抜けて高校の敷地へと入った。


 顔見えなかったけど、もしかして生徒の親御さんだったりするか?

 若く見えたけど、最近の保護者は結構若いのいたりするからな……




「ねぇ!」




 声が聞こえた。

 明らかに、俺に向かって言っている。

 俺はあからさまな表情をどうにか『来客対応モード』へと切り替えて振り返った。


「……なんでしょう?」


 はっきり正面から見ると親御さんと言うには若すぎるし、

 しかし生徒というにはちょっと色っぽすぎる気もする女性が、

 腰に手を当て高圧的にも見える姿勢でそこに立っていた。


「ここに桃太郎の子孫っているー?」

「……はい?」


 聞き間違えか、

 はたまたやばい奴か。

 後者だった場合、どこに連絡をしたものか。

 とにかく面倒事は御免被りたいわけなんだが……


「……えー、と、すみません。もう一度聞いてもよろしいでしょうか?」

「もーもたーろさん! 知らない? 有名でしょ?」

「いえ……あー、昔話の、桃太郎ですか?」

「そ!」


 女性はびしっと俺に人差し指を向けた。

 少し距離は離れていたものの、その指先から生える長い付け爪が俺の眼球を攻撃してきそうでついウッと息を詰まらせる。


「いやぁ……ちょっと、わかりかねますね。すみません、他を当たっていただいてもよろしいですか? それでは失礼します」


 俺は早口でまくし立て、背を向けた。

 なんだ、桃太郎って、最近の小学生の演劇でもやらないタイトルだろ。




「じゃあさ!」




 またもや女性の声に引き留められた。

 まだあんのかよ。

 仕方なく振り返ろうとした。



 その時だ。




桃間とうま一樹かずき、いる?」




 俺はピタリと体を硬直させた。



 その名前は、



 俺の名前だ。



 はい、俺ですけど。と、言えばいいだけのことだ。

 だけのことが、

 何故か躊躇わずにいられなかった。



 ──が違う。



 空気?

 匂い?

 気温?


 とにかく、

 今この空間が異様なものに感じられたから動くことができなかった。




「……ふぅん、そっか」



 女性の声が、


 少し離れて立っているはずの女性の声が、



 耳元をかすめていく。




「ありがと、またね」





 ……生暖かい風が体を通り過ぎていった。


 辺り一帯の空気は、元に戻っている。

 何の変哲もない、いつも通りの朝だ。


 冷や汗がだらりとこめかみから落ちていく。



「……なんだ、今の」



 振り返った先に、あのギャルの見た目をした女はいなかった。




 ***


「おやぁ? まだ帰らないんですか、桃間せーんせ」


 にたり、という笑い顔が隣からひょっこり現れた。

 隣のデスクの河原かわはら礼司れいじ先生だ。

 一日の授業を終え、放課後雑務に追われている俺をいつもの調子で揶揄ってくる。そう、やたらと絡んでくるこの男が俺は苦手だ。


「桃間先生はお仕事大好きですね~」

「趣味ですからね」


 眼鏡を押し上げ、皮肉に皮肉で返してやる。この男にクソ真面目に対応していると碌な目に遭わないことは経験済みだ。


 俺は一昨年この川下高校に赴任してきたが、こいつは去年から。年齢も近いようで変に懐かれたのか、この一年休み以外は話さない日がほとんどない。


「今日金曜ですよ? 早めに切り上げて、ほら、飲みにでも行きません?」

「行きませんよ、んな金無いですからね」

「またまたぁ、そんなこと言ったって僕は騙されませんよ。ほらさっさとパソコン閉じちゃって」


 ぱたん、とノートPCの画面が河原先生の右手によって閉じられる。


「あー! 何すんだ! まだ保存もしてねーよ!」

「じゃあほら保存しちゃって~」

「明日また学校来てやんのがめんどくせぇから終わらせたいんだよこっちは!」

「そんなこと言って、どうせ何か理由つけて来るでしょあんたは」


 そう言われるとぐうの音も出ず、仕方なし俺は閉じられたノートPCをもう一度開いてデータの保存をするとさっさと帰り支度を始めた。


「で、どこ行きます?」

「まだ行くって言ってねーよ」

「やだなぁ、この流れはいっつも行くじゃないですか~。じゃ、いつものとこにしましょ。最近良い地酒が入ったそうですよ」

「河原先生はあの店ばっかじゃないですか」

「あそこは胡瓜の一本付けが美味しいですからねぇ」


 にこにことした様子で歩く河原先生の後ろをついて俺は廊下を歩いた。


 今何時だろうか、ああもう21時は回ったか。とは言えこんな時間いつものことだけど。暇な時期なんていつ来るもんだかわかりゃしない。思わずため息が出そうになるのを堪えて、教員用玄関で外靴に履き替えた。


「うわ、桃間先生……なんでまだ来客用のスリッパ履いてるんですか……先週からずっとですよね」

「長いこと履いてた上靴、穴開いたんすよ。買いに行く暇もないからスリッパ借りとくかーって」

「いやいや、それにしたってそんなほぼ私物化してたら怒られますよ。ほら」


 そう言って河原先生が目配せをする。

 教員用玄関は来客用と兼用の為、対応の為の窓口がある。その奥は事務室だ。

 窓ガラスの向こうから、何やら鋭い視線を感じた。


「ほらあれ、事務の山上さんですよ。綺麗な顔してんですけど、かなり性格きついって話で~」

「どっからそんな話聞くんですか」

「何人か事務に用事で行った先生方からですね。なんでも、『どうしてもっと早く言っていただけないんでしょう』が口癖っぽくて」

「あー」

「でもあの切れ長の目とかいいですよね、今度僕も山上さんに何か頼みに行こうかな~」

「河原先生みたいなタイプ、嫌われるんじゃないですか?」

「ええ? 僕こんなにモテるのに?」

「そういうところですよ」


 くだらない話をしつつ外に出ると、河原先生が電話をかけ始めた。多分これから行く居酒屋の店主が相手だろう、どうやら昔馴染みらしい。混んでいるかの確認か。

 俺はその電話が終わるのを待って──





「……えっ?」





 ざわざわとした、

 何か、

 囁き声のようなものが聞こえた。




「河原先生、何か言いました?」



 と、彼を振り返ろうとした時だった。




 明らかに空気が変わった。




『ひっくり返ったような』


 と、言いたくなるような何か。


 空気が淀んだというか、体をさせられたような気持ち悪さがある。




「河原先生、なんか、おかしくないですか?」


 俺はそう問いかけた、が、返事は帰ってこない。

 見ればそこに河原先生はいなかった。


「はあ……? ちょ、どこ行ったんです!? 隠れてないで出てきてくださいよ!」


 声を張り上げるも、人の気配はどこからもしない。

 だが代わりに

 妙な気配はした。


 何かが

 そう、

 例えば大量の虫が一斉にざわざわと這い上がってくるような──








『……けけっ』






「……え」



 声が聞こえた。

 ただそれが、はわかっていた。



 足元を見れば、両掌に収まるくらいの大きさの、人間?


 いや人間じゃない。


 耳が大きくて尖っているし、目のある部分は穴が開いているように窪んでいる。



「なっ、なんだこれ……!!」



 思わず空を蹴って足から振り払おうとした。

 だが一度では振り落とせず、二度、三度と足を振り回す。



『ぐぐっ、げ、けけっけ』


「うっ、この、離れろ!!」


 気持ちの悪い生き物が、俺の身体を這い上がってくる。

 見ればそこら中この小さな化け物だらけだ。

 おかしい、ここは一体なんなんだ!?

 あたりを見回すも、ここはさっきまでいた場所と同じうちの高校だ。


 ただ空気が違うせいか、あたりは赤紫色がかって見えた。



『お前、食う、オデ、強くナル』

「はあ!? 俺を食うだあ!?」


 俺の肩まで這い上がってきた化け物が、わけのわからないことを言っていた。

 生暖かい息がフーッと俺の耳にかかる。


 気持ち悪い。


 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い



『あ、あ゛あああ、アアアアアアア』


「ひっ、い、いやだやめろおおおおおおお!!!!!!!」









 ドッ……





 という音が、俺の耳の横を過ぎていった。


 そのすぐあとでチリッと耳が痛む。



 見れば先ほど俺の耳元で何か言っていた化け物なのか、

 少し離れた地面でぴくぴくと動いていた。


 多分


 頭はない。






「え……」




 相変わらず俺の足元からは化け物が上ってきていたが、

 俺はあまりにも急な出来事に放心してしまっていた。

 だが



「もー、あたしが先に狙ってたのに」



 女の声が、俺を現実に引き戻した。



 目だけで声のした方を確認する。

 視界の端に捉えたのは、


 和柄の上着、

 短いジーンズ、

 馬鹿にでかい金棒を軽々と持った──長い付け爪をした手。


 そしてそれらを繋ぐのは

 真っ赤な、肌。

 


 ……俺の足に群がる化け物どもは、気持ち悪いと思ったし、怖いとも思った。


 けれども今は



 この目の前に現れた

 額から二本の大きな角を生やす“女”に


 俺は今までにないくらい畏怖というものを感じていた。




「ふふっ、びっくりしちゃった?」



 そう言って金棒を担ぎ直している。

 さっきのはそれであの化け物を殴ったってことだろうか。


 腐った卵のような匂いが鼻を刺激する中、

 その鬼の女はにこりと笑った。

 俺はただ顔を引きつらせることしかできないでいる。




「スパーンと一発いくよりさっさと終わらせちゃった方がいっかぁ。んじゃ……」


 彼女は持っていた金棒の先を下に向けると、

 勢いよく地面に打ち付けた。



 ──ドスン!!!!!!!!!!!!!!



 と、思わず耳を塞ぎたくなるような地響きが起きると、俺の身体にまとわりついていた全ての化け物が一斉に吹き飛んでいった。


 俺に必死にしがみついていた奴らの肉が、

 ぶちぶちと引きちぎれる音が聞こえ、

 やがて止む。


 今起きた空気の振動で彼女の長い金髪がきらきらと光るように靡いた。


 俺は急に軽くなった身体に安堵したのか力が抜けてその場に座り込んだ。全身力が入らない。まさか漏らしてないよな? けど下を見る余裕はない。

 

 俺は、目の前の鬼がこのあと一体何をするのかわからずに目を離せないでいた。


 鬼はその高いヒールをコツコツと音立て近づいてきた。

 そして俺の目の前にしゃがみこんで、

 頬杖をついてゆっくりと口を開く。





「──鬼に命救われた気分はどう?」





「桃間一樹くん♡」




 その妖艶な唇が俺の名を呼ぶのを聞きながら


 花粉症で止まらなかった鼻水が止まっていることに気が付いた。


 多分、今まさに花粉に振り回されてる場合ではなく


 ──命の危険の方が最優先ってことなのかもしれない。


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