第二十四話 氷の人形劇

 魔大陸。

 その大地は、王国の緑豊かな風景とは、全くの別世界だった。

 空は、分厚く、淀んだ紫色の雲に覆われ、太陽の光は、まるで病にかかったかのように、弱々しく、青白い。

 大地は黒くひび割れ、奇妙な形にねじくれた枯れ木が、天に向かって、助けを求めるように枝を伸ばしていた。

 空気に混じる魔力の密度が、王国のそれとは比べ物にならないほど濃い。

 ただ呼吸をするだけで、普通の人間なら、精神に異常をきたすだろう。

「…ひどい場所だ」

 アイリスは、ゼファーの背の上から、眼下に広がる荒涼とした大地を見下ろし、思わず呟いた。

 だが、ノクトのスパルタ訓練を乗り越えた仲間たちに、動揺の色はない。

 彼らは、司令官の次の指示を、ただ、静かに待っていた。

『進路、そのまま。最初の目標は、魔王城までの中継地点となる、古い宿場町の跡地だ。そこを拠点とし、本格的な潜入計画を開始する』

 ノクトの声は、相変わらず、冷静で、一切の感情がこもっていない。

 分隊は、その完璧な連携を保ったまま、魔大陸の奥深くへと、進軍を続けていった。


 数時間後。一行は、目的の宿場町へと到着した。

 だが、その光景に、アイリスは息をのんだ。

「…これは…」

 町は、あった。建物も、道も、全てが、そこにあった。

 ただ、一つ、異常な点を除いて。

 町が、丸ごと、氷漬けになっていたのだ。

 宿屋の看板も、酒場の扉も、道端に転がる樽も、全てが、美しく、そして不気味な、青白い氷のオブジェと化している。

 まるで、巨大なスノードームの中に迷い込んだかのようだった。

「なんて…美しいんだ…」

 その、静寂に支配された光景に、ただ一人、ジーロスだけが、うっとりとしたため息を漏らした。

「この静謐! この完璧な造形美! 時間そのものを凍てつかせたかのような、究極のアートじゃないか!」

「…不謹慎です、ジーロス殿」

 アイリスが、低い声で咎める。

 広場の中心には、井戸から水を汲もうとした瞬間のまま凍りついた、魔物の母子の像があった。

 その表情は、恐怖でも、苦痛でもなく、ただ、驚きだけを浮かべている。

 まるで、一瞬で、命を奪われたかのようだった。

『…新人。警戒しろ。これは、ただの氷結魔法ではない』

 ノクトの声に、初めて、警戒の色が混じった。

『魔力の残滓から分析するに、対象の生命活動のみを、ピンポイントで停止させ、内部から凍結させる、極めて高度な術式だ。…趣味が悪いこと、この上ないな』

 アイリスは、リカルドの、あの警告を思い出していた。

(氷の人形遣い、レイラ…!)


 分隊が、凍りついた町を、慎重に調査していた、その時だった。

 カラン、コロン、と。

 どこからか、澄んだ、鈴の音が聞こえた。

 次の瞬間、町のあちこちの建物の影から、氷で作られた、美しい人形たちが、一体、また一体と、姿を現した。

 その姿は、踊り子、騎士、獣、様々だったが、どれもが、ジーロスの言う通り、芸術品のように、精巧で、美しかった。

 そして、その人形たちが、一斉に、アイリス分隊へと、襲いかかってきたのだ。

『―――戦闘態勢! 全員、散開! ただし、一体も破壊するな! 敵の動きを止め、無力化することだけを考えろ!』

 ノクトの、矢継ぎ早の命令が、アイリスの脳内に響き渡る。

「姉御!」

 踊り子人形の、氷の刃による、流れるような斬撃を、ギルが、巨大な戦斧の、腹の部分で、優しく受け止めた。

 彼は、茶器を扱った精密さで、人形の腕を、砕くのではなく、関節部分を狙って、的確に、斧の柄で打ち砕き、動きを封じていく。

「なんてエレガントな動きなんだ! だが、僕のアートの前では、ただの人形に過ぎない!」

 ジーロスは、もはや詠唱を必要としなかった。

 彼が指を鳴らすたびに、閃光が炸裂し、人形たちの視覚を奪い、その動きを一瞬、停止させる。

『テオ! 敵の魔力循環の中心核を特定しろ!』

「へっ! 神頼みとは、らしくねえな! だが、こういうイカサマは得意でね!」

 テオは、聖書を片手に、まるでカードの出目でも読むかのように、人形たちの魔力の流れを凝視した。

「―――胸の、青い宝玉だ! そこが、動力源に違いねえ!」

『シルフィ! 目を閉じろ! 俺の指示通りに、矢を放て!』

 目隠しをしたシルフィは、もはや、自分の意思で弓を引いてはいなかった。

 彼女の腕は、ノクトの思考と完全に同調し、人間には不可能な速度と精度で、矢を放っていく。

 放たれた矢は、ジーロスの閃光を避けて、敵の集団の中を縫うように飛び、テオが指摘した、人形たちの胸の宝玉だけを、寸分の狂いもなく、次々と、撃ち抜いていった。

 宝玉を砕かれた人形たちは、糸が切れたように、その場で、崩れ落ちる。


 戦闘は、わずか数分で、決着した。

 アイリスは、ただ、仲間たちの完璧すぎる連携を、呆然と見つめることしかできなかった。

 そこに、以前のような、ドタバタとした偶然はない。

 あるのは、一つの頭脳によって、完璧に管理された、冷徹なまでの効率性だけだった。(…これが、私たちの、本当の力…)


 全ての人形が動きを止めた、その時。

 一体の、鳥の形をした氷の人形が、アイリスの足元に、ことり、と落ちた。

 その足には、氷でできた、小さな筒が結ばれている。

 アイリスが、恐る恐るその中身を取り出すと、それは、一枚の、美しいカードだった。

 そこには、まるで宝石をちりばめたかのような、優雅な文字で、こう書かれていた。

『―――私の可愛いグリフォンを、返してくださらないかしら、泥棒猫さん? あなたも、私のコレクションに加えて差し上げますわ』

 差出人の名はない。

 だが、誰からのメッセージか、火を見るより明らかだった。

 アイリスは、その、あまりにも優雅で、あまりにも冷酷な、宣戦布告に、背筋が凍るのを感じた。


 その頃、ノクトは、塔の自室で、水盤に映し出された氷の人形の残骸を、興味深そうに分析していた。

「…なるほどな。魔力を、氷の結晶構造に組み込み、遠隔で操作するか。面白い技術だ。だが、通信遅延ラグがひどい。これでは、リアルタイムの戦闘には、全く向いていないな」

 彼は、新たな敵の出現を、脅威とは、全く捉えていなかった。

「氷の人形遣い、レイラ。魔王軍四天王の一人か。…面倒くさいこと、この上ないな。俺の枕探しの、邪魔をしやがって」

 彼は、羊皮紙に、新たな項目を書き加えた。

『―――対レイラ戦、攻略プラン。弱点は、通信ラグ。ハッキングは可能か? 逆に乗っ取って、自爆させる方が、費用対効果コスパは良いか…? 要検討』

 彼の不純な作戦に、新たな、そして、極めて面倒なイベントが、追加された瞬間だった。

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