第2話:消したはずなのに
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### 第二話:消したはずなのに
あのベランダでの公開処刑から一年。俺は変わった。……つもりだった。
失った社会的信用を取り戻すため、毎日必死で頭を下げ、妻の監視のもと、真面目に働いた。もう二度と、あの地獄はごめんだ。
金曜の夜。一週間の疲弊を引きずり、俺は愛する(ことになっている)我が家へと足を速めていた。
エレベーターで三階へ。あの事件以来、どこか壁のある妻と、俺に懐かなくなった息子が待つ、息の詰まる聖域。
玄関の前に立ち、カバンから鍵を取り出す。
世界で一番緊張する空間への扉を開ける、もはや苦行に近い儀式だ。
カギを差し込む。すっ…と、何の抵抗もなくシリンダーに収まった。
まるで、俺の帰宅を拒んでいないかのように。少しだけ安堵する。
よし。キーを回す。
ガチッ。
硬い感触。キーは途中で止まり、びくともしない。
「あれ?開かないぞ?」
もう一度、慎重にキーを回す。ギギッ…と嫌な音がして、やはり止まる。
「おかしいな、変だな!」
苛立ちに任せてガチャガチャと揺さぶる。あのベランダでの悪夢がフラッシュバックする。締め出される恐怖が、全身の毛を逆立たせた。
「おい!いるんだろ?開けてくれよ!」
その時、ふと手に握った鍵に違和感を覚えた。
いつもより少し軽い…? 指先に当たるキーホルダーの感触が違う。これは、家の鍵についている革製のタグじゃない。プラスチックの、小さな猫のチャーム…。
血の気が、サーッと引いていく。
これは、家の鍵じゃない。
――三ヶ月前から、またこっそり会っている女の部屋の合鍵だ。
喉元過ぎれば熱さを忘れる。俺は、そういう救いようのない男だった。
心臓が鷲掴みにされる。
なぜこんなものを。なぜこのタイミングで。
それよりも、だ。
「じゃ、なんで刺さったんだよ…?」
メーカーも形も違う鍵が、なぜ。まるでこのドアが、俺の懲りない罪を見抜き、再び捕らえようとしているかのように。
抜こうにも、抜けない。鍵はシリンダーに深く喰らいつき、俺の裏切りを白日の下に晒している。
俺が絶望の中でフリーズしていると、ガチャリ、と内側からチェーンを外す音がした。
ゆっくりとドアが開く。
そこに立っていたのは、エプロン姿の妻だった。表情一つ変えず、俺の真っ青な顔と、ドアに突き刺さったままの奇妙な鍵を、ただ静かに見ている。
「おかえりなさい」
その声は、いつもと同じトーンのはずなのに、断頭台の刃が落ちる音のように聞こえた。
「あの、これは、その…」
「ああ、鍵のこと? だから言ったでしょう、**『壊れてる』**って」
妻はそう言うと、ドアに突き刺さった猫のキーホルダー付きの鍵を、まるでその構造を知り尽くしているかのように、ある特定の角度で、指先でひょいと引き抜いた。信じられないほど、あっさりと。
「先週からシリンダーがおかしくなって、もう**ガバガバ**なのよ。どんな鍵でも、気持ちいいくらい、すっぽり入っちゃうんだから」
妻は、俺の目を見て、にっこりと微笑んだ。
一年前、俺をベランダから見下ろしていたあの悪魔の微笑みと、全く同じ顔だった。
その奥に広がる暗闇に足がすくむ。これは偶然じゃない。罠だ。
彼女は抜いた鍵を俺の目の前に差し出した。猫のチャームが、ちりん、と虚しい音を立てる。
「あら、可愛いキーホルダー。新しいのにしたの?」
俺は、もう何も言えなかった。
目の前の妻が、ドアノブが、鍵穴が、家全体が、まるで巨大な捕食者の口のように見えた。そして俺は、自らその口の中に飛び込んだ、哀れな獲物だった。
「…さあ、夕飯できてるわよ」
妻は何もかもお見通しだというように、完璧な笑顔で俺を家に招き入れた。
逃げ場はない。ここから始まる第二の地獄を思うと、いっそあの11階のベランダから飛び降りた方が、まだマシだったのかもしれない。
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