第10話 ハート・キューン・ワールド③
同じ頃、「ハートくん」のマークが描かれたルートに足を踏み入れたアオイとミドリは、ショップエリアと思しき場所に出た。そこは、両側に「おみやげ」「SHOP」などと書かれた破れた庇テントの廃店舗や、今にも崩れそうな看板が立ち並んだアーケード風の舗道で、足元に汚れたチケットやホットドッグの包み紙、ポップコーンの容器が散乱している。空気は湿気を帯び、どこからかキャンディやポップコーンのような甘い匂いが漂ってくる。
かつての賑わいを思わせるハート型の装飾や、笑顔の「ハートくん」マスコットの人形が残っているが、今はどれもひび割れ、不気味に歪んでいる。黒い霧が足元を這い、遠くで壊れた電飾がチカチカと点滅していた。
「……それにしても不気味だな。なんだよこのハートくんて。大体なんで正面向いてるのに目線がずっと左なんだよ。こええよ」
アオイが背中の巨大な絵筆『綺羅星の筆』を両手に持ち、ハートくんに向ける。
「こんなとこでデートしたくねぇよな、ミドリ」
「デートデート。アオイの頭の中はいつもそればっかりね」
ミドリが苦笑する。
「これでも乙女なんだからな」
「はいはい。でも、確かにこの雰囲気、嫌な感じね。どこから何が出てきてもおかしくないわ」
「ふん」
アオイが近くに貼られたポスターを指で削ると、紙がボロボロと崩れ落ちた。
二人が探索しながら歩いていると、急に目の前が開け、広場が現れた。崩れた露店や壊れたベンチ、伸び放題の植え込みなどの構造物の中、一際姉妹の目を引いたものがあった。
「で、でっけぇ……」
二人の眼前にそびえ立つのは、高さ10メートルはあろうかという巨大なハートくんの看板だった。ハート型の顔に手足が生えた愛らしいマスコットのはずが、今はまるで魔王のように不気味に佇んでいる。看板の目は空洞で、黒い霧がその中を渦巻いているように見えた。
「これ、看板ってレベルじゃねぇな。威圧感すげぇんだけど」
「アオイ、気をつけて」
ミドリがパレットを構え、周囲を警戒する。
その瞬間、看板の陰からドスン、ドスンと重い足音が響いてきた。地面が震え、広場の土埃が舞い上がる。姉妹が身構える中、看板の裏からにゅうっと現れたのは、巨大なハートくんの立体像だった。高さは看板と同じく10メートル近く、ピンクと白のボディは色褪せ、ところどころひび割れている。ハート型の顔には、笑顔のはずが歪んだ嘲笑のような表情が浮かび、両腕を振り上げて二人に襲いかかってきた。
「うおっ!」
アオイが咄嗟に跳び、ミドリも横に飛び退く。ハートくんの両拳が地面に叩きつけられ、コンクリートが砕け、破片が飛び散る。衝撃で広場全体が揺れ、アオイの紫髪がバサッと揺れた。
「出やがったなハート野郎」
アオイが叫び、『綺羅星の筆』を構える。
「ぶっ壊してやるぜ!」
巨像に向かって、アオイが駆け出す。
「待って、アオイ!まず様子を見て!」
ミドリが制止する中、ハートくんが再び動く。そのハート型の顔が光り、ピンク色のビームがアオイめがけて放たれた。
「ちっ!」アオイは絵筆を振り、ビームを弾こうとするが間に合わない。ビームが彼女を直撃、視界が、歪んだ。
気づくとアオイの目の前に広がっていたのは、かつてのハート・キューン・ワールドの賑やかな光景だった。色とりどりの風船が浮かび、子供たちの笑い声が響き、観覧車がキラキラと輝いている。そして彼女の隣には、黒崎零が立っていた。黒いコートを翻し、どこか優しい目でアオイを見ている。自分もいつの間にか、フリルのついたワンピースに着替えている。
「あれ、クロにぃ……?」
アオイが呟く。黒崎が軽く笑い、彼女の手を握る。
「可愛いよ、アオイ」と彼が言い、手に持ったわたあめを渡す。
アオイの顔が真っ赤になる。
「く、クロにぃも……か、かっこ……」
「わたあめ、好きか?」
「好き……」
アオイはわたあめを手に持ち、こくこくと頷く。
その様子を見た黒崎が、眩く笑った。
いつの間にか二人は観覧車に乗っていた。頂上で夜景を見ながら、彼がアオイの肩に手を置く。アオイの胸がドキドキと高鳴る。
「クロにぃ、こんなとこでデートなんて、めっちゃ……」
「アオイ、ハッピーか?」
「ハッピー……」
戦意が、まるで霧のように溶けていく。
「アオイ! しっかりして!」
ミドリがアオイを物陰に運び、肩をつかんで揺らしている。
「えへへ、ハッピー……」
アオイはミドリの呼びかけに答えず、遠くを見てヘラヘラ笑っている。
「もう!」
ミドリは油絵用のシンナーの小瓶を、姉の目の前で地面に叩きつけた。ガシャンとガラスが割れる音とともに、強烈な刺激臭がアオイの鼻を突く。
「おえっ、くっせぇ!」
アオイが咳き込み、目を瞬かせる。幻覚が消え、目の前には巨大なハートくんの姿があった。
「すまねぇ、ミドリ」
アオイが筆を握り直す。
「くそくらえ、幻覚なんかでアタシを惑わそうなんて、100年早いぜ!」
「充分惑わされてたけどね?」
「うう……いくぞぉ!」
現実に戻ったアオイは、再びハートくんの前に飛び出し、ミドリもそれに続く。
二人を見たハートくんが手のひらを下に向ける。すると地面から無数の小型のハートくん、ウサギの「ハッピーバニーちゃん」、そしてフラワーの「ペタルくん」などの遊園地のマスコットたちが湧き出てきた。ピンクや白、赤の小さなキャラたちが、キーキーと甲高い声を上げながら姉妹に集団で襲いかかってくる。バニーちゃんの耳はカミソリのように鋭く、ペタルくんの花びらはチェーンソーのように回転している。
ミドリは光の盾を展開し、アオイを守りながら後退する。
バニーちゃんやペタルくんの刃がシールドに当たり、耳障りな甲高い音を立てる。
「くそ、こっちくんな!」
アオイが叫び、絵筆を振って光の衝撃波を飛ばす。それは小型マスコットたちの突進を一時的に防ぐが、遊園地のミニマスコットたちは間断なく突撃してくる。
「ミドリ、援護頼む!」
「任せて!」
アオイがマスコット達を後退させた隙を見て、ミドリがパレットの先から油絵の具で出来た粘着性の弾を発射した。ドロリとした絵の具が小型マスコットたちに命中し、動きを封じる。
「アオイ、今よ!」
「よし、まとめて片付けるぜ!」
アオイがミドリのパレットから、相手の攻撃が変換された「黄金の絵の具」をすくい取り、絵筆を地面に叩きつける。金色の衝撃波が同心円状に広がり、粘着弾で動きを封じられたマスコットたちは黒い煙となって消えていく。
「ふぅ、すっきりした!」
「気を抜かないで」
アオイが笑うが、ミドリは警戒を解かない。ハートくんが再び動く。両手を空に掲げると、今度は色とりどりのキャンディが空中にばらまかれた。キャンディは空中でパチパチと弾け、爆発とともに濃い煙幕が広場を覆う。視界が完全に塞がれ、姉妹はお互いの姿すら見えなくなる。
「なっ?」
「何も見えない!」
と、そこに、「ハートくんのテーマ♪はじまるよー」というアナウンスとともに、チープな電子音のメロディがどこからともなく流れ始める。
ハッピーハート 目には見えない
キミの心に そっと飛び込む
ハートくん 笑顔を運ぶ
遊園地の 魔法の仲間
ハッピーハート 歌を届ける
友情の輪を 広げてゆこう
ハートくん いつもそばに
遊園地の ヒーローさ!
陽気なはずの音楽が、煙幕の中で不気味に響く。大音量の音楽に、双子は思わず耳をふさぐ。アオイの声がミドリに届かず、ミドリの声もアオイに聞こえない。煙幕の向こうからハートくんの拳が飛んでくる。ミドリはかろうじてパレットで防ぐが、衝撃で土煙をあげて後退する。
「アオイ! どこ!?」
ミドリが叫ぶが、声は音楽にかき消される。
「くっ、このままじゃ……!」
ミドリは急いでパレットの蛍光塗料を手に取り、粘着弾と混ぜて煙幕の中に発射した。光る塗料の塊がべちゃっと遠くの地面に落ちる。
「お願い、噴き上がって!」
ミドリが念じると、蛍光塗料の塊はジェットのように下から塗料を吹き出して空中で固まる。煙幕の中にぼんやりと光の足場が浮かび上がった。
(アオイ、これを使って!)
ミドリは双子の片割れの行動を信じ、祈る。
煙幕の中でアオイは光る足場に気づいた。
「ミドリ、ナイス!」
彼女は足場に乗ると、蛍光塗料を自分の戦闘服に塗りたくる。体が光り始め、煙幕の中でも彼女の位置がわかるようになる。
「ミドリ!あたしはここだよ!ハートくんの攻撃が来る方向から位置を割り出す!」
巨大な拳が飛んでくる。アオイは攻撃の風圧を感じ跳躍すると、絵筆で光る「☆」を空中にマーキングする。
「ミドリ、ここに足場を!」
ミドリはアオイの光る姿と「☆」を頼りに、さらなる蛍光塗料を発射する。新たな光の足場が煙幕の中に現れ、アオイはそれに飛び移りながらハートくんの位置を絞り込む。
「よし、もう少し!」
ミドリが足場を追加し、アオイはハートくんの攻撃が飛んでくる方向を逆算する。ついに煙幕の中で巨大なハート型のシルエットが動くのを見つけた。
「そこだ!」
言いながら光の足場を蹴り、飛翔する。『綺羅星の筆』を両手で握り、金色の絵の具を先端に溜める。
「くらえぇ!」
アオイがハートくんの頭上に絵筆を叩きつけ、金色の衝撃波が炸裂した。
「グギャア」
ハートくんが真っ二つに割れ、アオイはその目の前に着地する。
「人の恋路を利用する奴ぁ」
「ギ……ギイイイイイ」
右半身と左半身がズレた巨人は、それでもアオイを掴もうと手を伸ばしてくる。
「筆に斬られて!逝っちまえ!」
そう言うと、今度は筆を横に薙いだ。
「ギイイィアアアア!」
十文字に切り裂かれたハートくんは、甲高い悲鳴をあげると、今度こそ崩壊しながら消滅した。
煙幕が晴れ、不気味な「ハッピーくんのテーマ」が途切れる。広場には静寂が戻り、姉妹は肩で息をしながら向き合う。
「アオイ、すごかったわ!」
ミドリが駆け寄り、アオイの手を取る。パレットからファンデーションをすくい取ってアオイの肌に塗ると、傷がみるみる間に消えていく。
「ミドリも最高だったぜ!やっぱあたしら姉妹のコンビネーション、完璧だな!」
だが、アオイの笑顔が一瞬曇る。
「しかしあの幻覚……クロにぃとデートって……やば、マジで心揺れたわ。ダメだ。あたしはまだプロになりきれてない」
ミドリがくすっと笑う。
「ふふ、いいじゃない。アオイのそういうとこ、かわいいわよ。またこんなことがあっても、いつでも私が引き戻してあげる」
「うっ、今度はシンナー以外で頼むぜ、ミドリ。アレ、マジでくせぇんだよ」アオイが頭をかく。
その時、広場の壁がガラガラと開き、通路が現れた。「よし、次行くぞ!」アオイが絵筆を背負い直し、ミドリもパレットを構えて通路に踏み出した。
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