第7話 落ち込む雨空吹き飛ばす太陽
走り疲れて重くなった足が、道の窪みに溜まった水を踏んだ。昼頃から降り始めた雨はその勢いを増し、カバンを抱えた腕を執拗に突いてくる。
傘を持っていないハリドは少しだけ雨宿りをしてから帰ろうと思い、街路樹の陰に身を寄せた。
雨よけの為に被った上着のフードはあまり意味がなく、湿った髪は少しやつれた頬にぴったりと張り付いて視界の邪魔をする。
思い切って脱いでみれば、水を吸ったそれは想定外の重さでハリドの首を後ろへと引っ張った。
よろけた体を支えるため、ハリドは街路樹に手をついた。その途端ちくりと痛んだ手を見てみれば、手のひらに太めの棘が刺さっていることに気が付く。
「ついてないなぁ。」
――思わず零れた一言は、ただでさえ重い気分をさらに重くするには十分だった。
数日前の窃盗事件以来、ハリドはドレンの執拗な悪意に晒されていた。
彼がハリドが座っている横を通る時があれば椅子を蹴られ、またその逆の時は足を引っかけられる。作業用の道具を隠されたり、工作室への道中で待ち伏せされて暗がりに連れ込まれそうになったこともあった。(偶然通りかかったマクエル先生が声をかけてきたので未遂だったが。)
ドレンが敵わない相手、先生や身分の高い貴族生徒などがいない所で行われるそれは、ハリドの肌に青痣を増やしていく。
以前まで突っかかってきていたキャリバンとは違う、実害のある嫌がらせに、ハリドの精神は着実に疲弊していた。
痣が痛む体。
進まない課題。
焦りで眠れない夜。
――何をしても、退学の未来は変えられないのかな。
余裕の無くなった頭は、ついつい弱気なことばかり考えてしまう。
もしも、学校へ通わず鉱山で慎ましく暮らしていたら、こんな思いはしなかったのかもしれない。そうすれば己に向けられる差別や偏見も知らずに生きていけたかもしれない。
(……俺が学校に行きたがらなければ、父さんはあんなにひもじい思いをしないですんだかもしれない。)
そんなもしもを思い浮かべていると、不意に葉っぱが受け止めきれなかった大粒の雫が顔にかかった。
カバンを抱えていた右手で、それを力強く擦り落とす。しかし、次々と降ってくる雨粒でハリドの濡れた頬が乾くことはなかった。
「よっ! 今帰りか?」
「は……?」
この首都で、しかも雨の中、わざわざ自分に声をかけてくる人間がいるとは思っていなかったハリドは突然の問いかけに耳を疑った。だが、どうにも聞き覚えのある声にほんの少し安堵を覚える自分がいる。
声の方へ恐る恐る振り返ってみると、そこにはエミリーに傘をさされたジャスパーが立っていた。
彼の少し後ろに黒塗りの自動車が停まっていることから、どうやらハリドを見かけてわざわざ降りてきたらしい。相変わらず燕尾服を華麗に着こなしているエミリーは、白い手袋をしていることから運転手も担当していることが伺える。
ジャスパーはハリドの顔を見た途端、笑顔が驚きへと変わった。
「どうした、なんで泣いてるんだよ?」
「え、あれ……。」
そう言われて初めて、ハリドは自分が涙を流していたことに気がついた。
……息ができないくらい胸が苦しくて、こんな姿を他人に見られたくなくって、でも、どうしたらいいのかがわからない。ハリドは一歩、また一歩とジャスパーから遠ざかると、強く掴みすぎてぐちゃぐちゃになったカバンを抱えて思わず走り出していた。
水溜まりを激しく踏み抜き、盛大な水飛沫が足を濡らす。湿ったズボンがもつれて転びそうになった時、ハリドは腕を強く掴まれてたたらを踏んだ。
「待てって!」
「っ! は、離してください!」
振りほどこうにもカバンを落とすわけにいかず、ハリドは対した抵抗もできずジャスパーの腕に囚われる。布越しに伝わる体温は、冷えた体には熱すぎて火傷しそうな錯覚を覚えた。
棘が刺さった手のひらがジクジクと痛む。
「っなんで! 追いかけてくるんですか! 挨拶を返さなかったのがそんなに不愉快でしたか!」
「逃げられたら追いかけたくなるだろ! そっちこそなんで逃げるんだよ!」
「別にいいじゃないですか! ほっといてくださいよ……!」
久しぶりに大声を出した喉が苦しい。ハリドは身を捩って拘束から逃れようとするが、食事も睡眠も足りていない体では太刀打ち出来ない強さだった。
猫の取っ組み合いさながらに飛沫を上げながらもみ合うふたりを、傘を持ったエミリーは困った顔で見守っていた。そんな中、ジャスパーがハリドの両肩をしっかりと掴んで目を合わせた。
「ほっとけるわけないだろ! 友達なんだから!」
開いた口が塞がらない、とはまさにこの事だろうか。
空気を伝って耳に入った信じられない言葉が、ハリドの動きを止めた。
「とも、だ……!?」
「そうだ! 友達だぞ、俺たちは!」
確固たる自信を持っていることが伺える瞳がハリドを射抜く。貴族だとか、平民だとか、見た目の違いだとか……そんなもの全て関係ないと断言するような強さがそこにはあった。
ちょうど動きが止まり、好機と踏んだエミリーが二人を傘の下に収めてひとつ咳払いを落とした。
「お二方、一先ず別荘まで参りましょう。濡れたままでは風邪を引いてしまいますよ。」
「おぉ、そうだな!帰ったら風呂だ、よし行くぞ!」
「えっ。え? え!?」
言うが早いか、男装の麗人は素早くハリドの腰を掴んで軽々と持ち上げた。突然のことに驚いた少年は、抵抗という言葉を思い出せずに身を強ばらせるしか出来ない。
ジャスパーたちはそんなハリドとともに素早く車に乗り込むと、別荘に向けて猛スピードで走り出した。
***
頭や腕などを磨きあげる泡。
全身を包む温い湯。
触ったことのない手触りのタオル。
何が起きてるのか分からぬ間に、ハリドは体を蒸し芋のように暖められてソファに座らせられていた。
恐怖すら覚える使用人達の手際の良さに借りてきた猫のように大人しく震えていた彼は、自分と同じように入浴を済まされタオルでぐるぐる巻きにされたジャスパーが近くのソファに放り出される様子を黙って見ていた。
手のひらに刺さっていた棘も入浴前に抜かれて手当てされており、今はどこも痛む場所はない。心に余裕が出来たからこそ、現状に理解が追いつかず放心してしまっているわけだが。
「お手軽入浴コース、完了でございます。それでは私共は外に控えておりますので、何か入用の際はお呼び出しくださいませ。」
「あぁ、ご苦労。」
あっという間に二人きりになった室内で、ハリドはジャスパーを横目に見る。彼は完全にリラックスした様子で机の上に置いてあるティーカップをつまみ、湯気の立つ紅茶をひと舐めした。
先程は勢いで流されてしまったが、連れてこられる前の「友達宣言」について聞いておかなければならない。そう思ったハリドは気まずそうに口を開く。
「……あの。」
「それで? なんであんな所で泣いてたんだ。俺が欠席してる間に何かあったのか?」
「うっ。」
……先を越されてしまった。平民の性分だろうか、それともそもそもの自分の性格の問題なのか。どうにもジャスパーには弱い自覚のあるハリドは喉にパンが詰まったような顔で押し黙る。
しばらく睨み合いのような無言の攻防が続いたが、結局興味津々と顔に書いてあるジャスパーの圧に負け、ハリドは渋々事情を説明する羽目になった。
「詳細は省きますけど、ドレンという貴族生徒の魔法石を俺が盗んだのでは? と疑われているんです。疑いが晴れないせいで色々と嫌がらせをされるようになった結果、制作課題が全く進まなくなってしまって……。」
段々と情けない気持ちになってきたハリドは、そこまで言って膝に顔を埋めた。こんなことくらいで、と馬鹿にされるに決まっている。生きる世界が違うのだから、相談したって意味は無い。
しかし、いつまでたってもジャスパーからの返事はなかった。
不安に思って顔を上げたハリドは、いきなりバスタオルを頭に被せられて髪を滅茶苦茶にかき混ぜられる。白い視界をぐるんぐるんと回されて、彼は闇雲に腕を動かしてジャスパーの手を掴んだ。
「ちょ……っと! 何するんですか!」
「俺から貰ったんだって言っても、信じて貰えなかったのか?」
タオル越しに聞こえる、くぐもったジャスパーの声。それは決して責めている声色ではなく、静かに、ただ事実を確かめるだけの問いかけだった。
頭を撫でる手のお陰で心の荒波が凪いできたハリドは、ジャスパーの声にそっと首を振った。
「持ってる経緯も、貴方との関係も言ってませんよ。信じてもらえるわけないし、それに……。」
「それに?」
「……貴方が、白い目で見られるかもしれないじゃないですか。」
ゆっくりと優しく問いかけてくる囁きに、ハリドは思わず本音を零していた。
それを聞いたジャスパーは、くすくすと笑いながらタオルごとハリドを抱きしめる。
「やっぱり、俺は良い友達を持ったな。」
「……はぁ。」
もはやハリドに言い返す気力は無く、されるがままになっていた。
――平民を友達扱いするなんて、きっとお貴族様の道楽か何かだろう。どうせ気が済んだら捨てられるに違いない。
それでもこの温もりをもう少しの間だけ感じていたくて、ハリドはそっとタオルに涙を滲ませた。
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男装の使用人、エミリー。(初登場:第4話)
彼女は自動車運転資格を持つため、使用人の中でも稀有な存在です。
前職は謎に包まれており、男装は趣味です。
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