11

浴室のドアを開けると、ひんやりとした湿気の匂いが漂った。窓から光の差し込まない夜の浴室は、昼にもまして寒々として見える。

僕とエラ、それに彼女の腕に抱えられたワトソンが浴室の中央に立っている。

すると控えめにドアが開き、志保が顔をのぞかせた。後ろからは、明日香が小さな足取りでついてきている。

「あら、お二人見えないと思ったら、こんなところに」

「黒瀬さん。みなさんは?」

「お帰りになりました。あの……私はエラさんに用があって」

「依頼のことっしょ? それなら問題なっしーだからさ、ちょっと待ってて」

エラが軽く片手を振る。志保は少し戸惑いながら頷いた。

「わかりました……で、お二人は何を?」

「ちょっと取引をしましてね」

僕は苦笑しながら答えた。

「エラちゃんの要望を聞く代わりに、飯塚がどうやってこの家に入ったか教えてもらうことになってて」

「ええ?」

志保さんの表情がさらに困惑する。僕は浴室の窓に視線を移した。

「で、ここがその場所ってこと?」

「そうだ」

ぬいぐるみの口から、いつもの冷静な声が響く。

「この家は人の出入りできる窓やドアにはすべて開閉センサーがついており、それらが開いたログはなかった。つまり堂島康介氏がこの家にこもって31日目、彼を殺害するためにこの家に侵入した犯人――飯塚ということにしておくが――飯塚は、それ以外のルートを通ったことになる」

僕は大きな曇りガラスを見上げながら首を振った。

「でも残りは人が通れない大きさの窓や、開閉できない嵌め殺しの窓ばかりだよ? 飯塚は中肉中背の成人男性だ。通るなら小窓どころじゃない。人が通れる窓には振動センサーがついていて、壊せば警備会社が飛んでくる」

「この別荘の中で、振動センサーのついていない、嵌め殺しの窓で、大人が十分に通れる大きさの窓は一つだけある」

「え!?」

ワトソンの声がよく響く。僕の情けない驚きの声も。

「こーれ!」

エラが窓を指さす。僕は浴室の曇りガラスとステンドグラスの並びを見比べる。曇りガラスは嵌め殺しだが、振動センサーが付いている。つまりワトソンの言った窓というのは……

「ステンドグラス?」

「せいかーい☆」

「何言ってんの? ステンドグラスは確かに衝撃センサーがついてないけど、それは小さいからだ。金属の枠があるだろ? 大人どころか子供だって通れない」

僕は浴槽に足を踏み入れ、ステンドグラスの枠に手をかける。黒い金属の触感と冷たさ。ゆすってみても、枠もガラスもビクともしない。後ろからワトソンの声がする。

「ステンドグラスのその金属の枠は、ケイムと呼ばれる。溝のついた鉛の枠だ」

「「ケイム?」

僕は振り返る。エラはワトソンを持ってポケっとこちらを見ている。どうやらこの場の主導は――たいていそうだが――ワトソンらしい。

「色ガラスをはめ込んで接着することで制作する。この接着方法の一つは、はんだ付けだ。その窓もそれを採用している」

「はんだ付け? 確か、工作の時間とかにやったような……はんだゴテで……」

「そんなんあったっけ?」

エラが首をかしげ、金とピンクの髪が垂れる。僕だってあやふやな記憶だ。

「鉛と錫の合金は融点が低いため、加熱すれば溶ける。ステンドグラスの製作工程では、はんだ付けによってガラスを鉛ケイムに熱で溶融接着する。つまり、熱を与えれば溶融部分が溶け、ステンドグラスを外すことができる」

「へ~」

エラが素直に声を上げる。

「へ~、って君が考えたんじゃないの?」

「うちはステンドグラス見て、こういうことできる?ってワトソンに聞いたらできるっていうから……詳しいことは初めて聞いた」

……そんな気はしてた。自分ではよくわからないのに取引を持ち掛けたのか。ワトソンへの信頼のなせる業だ。

「だとしても、ガラス部分を外して鉛の枠は残るよね? それがあると結局通れないんじゃ?」

「鉛は柔らかい金属だ。より硬い金属のノコギリやカッター、燃焼ガスやレーザーでも切断できる。外枠にそってケイムの根本を切断してしまえば人が通れる大きさの開口部を作ることができるだろう。そして別荘に侵入、殺害、その後の工作が終わったら、はんだ付けでガラスやケイムを接着すれば、元のステンドグラス窓に戻る。金属加工をしていた飯塚ならば、十分技術的に可能だ」

僕はステンドグラスを見つめながら、思わず息を飲んだ。ガラスはきれいにケイムにはまっている。ケイムの根本を見るが、確かに元々別の部品だったものを接合したような跡がある。ただその仕上がりはあまりにも自然で、元からこうだったのか、判断できない。

「……鑑識は見つけられなかったのか」

「もともとケイムは溶接して作るものだ。うまく仕上げれば、製品と区別はつかない。よほど飯塚の技術が高かったか、3年以上という時間で窓枠が経年劣化し加工痕がなじんだか、現時点では情報がない」

「あとでもう一度調べてもらうよ。経年劣化……ここでも時間が有利に働くのか」

僕は浴槽を出て、エラとワトソンの前に立つ。きっとくたびれた顔をしているだろう。視界の端に、黙って事の成り行きを見守る志保と明日香が入る。

「そもそもこの超長期密室は、侵入経路がわかっても何ら犯人にとって支障はない。誰でも犯人たりえること、操作の範囲を膨張させることに目的があるのだから」

「まーた密室言ってら。懲りないねえ~」

ワトソンをデコピンし、エラが呆れたように肩をすくめると、志保に視線を向ける。志保は驚きつつも、クスッと小さく笑った。

僕は改めてステンドグラスに目をやった。これを一度解体し、またくみ上げたのだとしたら、それは完璧な密室といえるのかもしれない。

「それにもかかわらず、食料配達を装うことで飯塚は手がかりを与えてしまった……発覚を遅らせるつもりが、自分だけはいつまでも別荘に通わなければいけなくなった」

「犯人は現場に戻ると言う。常に監視下に置いておきたいという不安がそうさせたのかもしれない」

ワトソンの冷静な声が、浴室の静けさに反響した。本当に優秀な助手だ。そしてそれを使う主人もまた……エラが志保とステンドグラスを背景に自撮りをしている。僕は思い直し、彼女のひらめきが事件を解決に導いたことを、認めたくなくなった。

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