すべてが変わった日
梅乃部屋
第1話
第一話
槙野青は、五十歳を迎えていた。
地元の精密機械会社に勤めて二十七年。大学を出てから、ずっと同じ会社で働き続け、肩書は「係長」のまま。真面目さだけが取り柄だが、人づき合いは苦手で、部下にも上司にもどこか距離を置かれる存在だった。
二十五歳で結婚し、二人の子を授かったが、子どもたちが成人するのを待つかのように離婚。妻に名義を譲ったマイホームを離れ、今は工場近くの社宅2Kのアパートで一人暮らしをしている。
趣味もなく、休みの日はテレビをつけたままソファでウトウト。仕事帰りにコンビニでビールとつまみを買うのが、唯一の習慣であり楽しみだった。
その日も、変わらぬ日常のはずだった。
だが、いつもの帰り道が工事中で通れなくなっていた。
「ちっ……」
小さく舌打ちして、迂回路にハンドルを切る。慣れない道を走るのは億劫だったが、仕方ない。
やがて、見慣れぬ光景が視界に広がった。
小高い山の上に、洒落た洋館のような建物が立っている。周囲は暗いのに、その店だけが柔らかい光を放ち、まるで異国の街角に迷い込んだようだった。
「……カフェ?」
こんな場所に、こんな店があっただろうか。
数十年この街で暮らしてきたが、初めて見る建物だった。
車を停めるつもりはなかった。だが、不思議と気になり、気づけばハンドルを切っていた。山道を登ると、欧州風の可愛らしい店構えが目の前に現れる。外壁にはアイビーが絡み、扉の向こうから温かな灯りが漏れている。
引き寄せられるようにドアを押すと、ベルがやわらかく鳴った。
中は木の温もりに包まれ、コーヒーと焼き菓子の香ばしい匂いが漂っていた。
「いらっしゃいませ」
落ち着いた声が響いた。
カウンターの奥に立っていたのは、三十代ほどに見える女性。艶やかな黒髪を肩でまとめ、瞳は湖のように静かだ。その存在感に、思わず言葉を失った。
「……あ、あの……」
「初めてのお客様ですね」
女性は微笑んだ。
「私の名前は昴。このカフェのオーナーです。どうぞ、ごゆっくり」
青は促されるまま席に座った。
なぜか胸がざわついていた。
この出会いが、自分の人生を揺さぶることになるとは、まだ知る由もなかった。
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