差出人不明
田波 霞一
第一章 夫婦
時節は十月半ばの午後であり、大気は乾燥した状態にあった。夏の湿気を帯びた暑さが去り、街の景色は静かに秋へと移ろいでいた。集合住宅のベランダに設置された物干し竿では、洗濯物が微風に揺れており、隣接する住戸からは柔軟剤の香りが、傾き始めた日差しの中を漂っていた。
当該集合住宅の四階に位置する一室は、築三十年を超えるコンクリート構造物であり、その外壁は経年により黄変した白色を呈していた。この建物には多数の世帯が入居しており、午後の時間帯にはテレビの音声、断続的な叱責、楽器の練習音といったテレビの音、誰かを叱る声、楽器の練習音といった生活音が混じり合い、建物全体に低く響いていた。
西岡真一と妻の沙織が住むその部屋は、西向きの角部屋だった。斜陽がレースカーテンを透過し、室内の照度は低い水準に保たれていた。空気は清澄であったが気温は低く、床の冷たさが、素足からじかに伝わってきた。
西岡はソファに着座し、遠隔操作機器を保持したまま、テレビのディスプレイを注視していた。表示される映像コンテンツ自体には注意を払っておらず、無音状態が室内に空虚感をもたらすことを回避する目的で、字幕表示を伴う情報番組を背景として再生させていた。
厨房区画からは、鍋の中のカレーがとろとろと煮詰まる音と、小気味よく野菜を刻む音が断続的に聞こえ、換気扇の駆動音と干渉していた。妻の沙織は長時間にわたり調理作業に従事しており、夕食の献立がカレーライスであることが示唆された。過去、その味付けの嗜好に関して小規模な意見の相違があった事実が、西岡の記憶から想起された。
ソファに身体を預けたまま、西岡は「カレー、甘口じゃない方がいいな」と西岡は言った。沙織からの明確な応答は確認されなかったが、調理作業が継続されている様子から、声が届いたのだろうと西岡は判断した。湯気、野菜、そして香辛料が混合した匂いが、室内の全域にわたって充満していた。
外部環境では、下校中の児童の声や自転車のベル音が観測され、団地前面の通路を人影が通過していく様子がうかがえた。鳥類の鳴き声もまた、乾燥した大気の性質を反映しているかのように響いた。この時間帯の集合住宅は、どの住戸でも類似した環境的特徴、すなわち低い騒音レベル、斜めに差し込む光線、そして漸次的な気温の低下を示していた。
その静寂を破り、インターホンが作動した。単音の電子音が、時間的間隔を置いて二度、発生した。
西岡はやや遅れて反応し、顔を上げた。予定外の来訪者であったため、彼は宅配便の配達員である可能性を想定した。簡素な室内着のまま席を立ち、履物を引きずるようにして玄関へと移動した。
モニターには一人の男性が表示されていた。顔面はマスクで覆われ、頭部には黒い帽子が深く着用されていた。服装は運送業者の制服に類似していたが、所属企業の特定には至らなかった。手に保持された書類は伝票であると推測されたものの、映像の解像度が低いため、詳細は不明瞭であった。
西岡はドアチェーンを解除した。この団地で危険な目に遭う可能性は低いだろう。そんな油断から、特段の警戒措置は講じられなかった。彼は無意識的な動作でドアを開放した。
しかし、廊下には人影が存在しなかった。冷涼な外気が室内に流入する。左右の通路、および階段には動体は確認されず、いかなる物音も聴取されなかった。ドアの直前には、段ボール製の箱が一つ、静置されていた。
その箱には商標等の表示がなく、ガムテープによって封が施されていた。上面には配送伝票が貼付されている。宛名には「西岡真一」と明記され、住所にも誤りはなかった。一方で、差出人の欄は空白であり、個人名、法人名ともに記載が存在しない。この状況に対し、西岡は超常的な事象というよりは、何者かによる悪戯の可能性を考慮した。
箱を持ち上げたところ、その質量は予測を著しく下回るものであった。内容物が存在しない可能性さえ示唆された。箱を傾斜させても、内部から物体の移動音は発生しなかった。
彼はその場にしゃがみ込み、粘着テープの端に指をかけた。テープが剥離する際に発する音は、乾燥した空気中で明瞭に響き渡った。
西岡は箱の蓋を開ける。内部には物体は確認されず、光を吸収するかのような暗い空洞が認識されたのみであった。
――その直後、西岡真一という存在は、玄関からこつ然と消え失せた。
室内の調度品や稼働中のテレビに変化はなかった。玄関のドアも開放されたままである。ただ、西岡が存在していた空間には、彼が直前まで身に着けていた複数の物品が散乱していた。
スマートフォン、眼鏡、腕時計、Tシャツ、スウェットパンツ。
これらの物品は、何らかの外的要因によって本体から分離されたかのように静かに床に落下しており、破損や著しい乱れは見られない。そこには、所有者の不在という事実のみが客観的に存在していた。
蓋が開かれたままの箱は、空気の流動を受けてわずかにその角度を変え、玄関のタイル上で静止した。
◇
硬質な物体の落下音とは異なる、布製の物品が重なり合って落下する際に発する乾いた音。
その音を認識し、妻の沙織は厨房での作業を中断した。エプロンで手を拭いながらリビングを通過する。テレビ画面では字幕が無感情に情報を伝達し続けていたが、室内の人的気配は急激に希薄化したように感じられた。
「真一?」
廊下を進み玄関に至ると、床面に複数の物品が散在している光景が目に入った。
そこにあったのは、見慣れた夫の私物だった。置いたままのスマートフォン、いつもかけている眼鏡、左腕にはめていたはずの腕時計。そして、つい先ほどまで彼が着ていたTシャツとスウェットパンツ。
それらはすべて、今朝の時点で彼女の夫が使用していたものであると識別された。作為的に脱ぎ捨てられた、あるいは整頓された状態ではなく、まるで、透明な人間がその場で一枚ずつ服を脱ぎ捨てていったかのような、奇妙な配置だった。
靴は定位置にあり、スリッパの一方がわずかに傾いていた。彼女は驚愕のあまり、短い呼気を漏らした。それは明確な発声ではなく、生理的な反応に近いものであった。
「……どうしたのですか?」
応答はなかった。居住空間内に彼の気配は感知されず、ソファ、寝室、トイレのいずれにも人影はなかった。
再度、視線を玄関に戻す。床に散乱した物品群。スマートフォンの画面は暗転したままである。彼女は身をかがめ、Tシャツの襟元に触れた。布地には洗濯後の柔軟性が残存し、微弱な体温の痕跡さえ感じられるようであった。
夫の所有物であることは明白だった。直前まで彼が着用していた事実も認識している。では、なぜこれらの物品のみがここに存在するのか。
急な外出にしては状況が不自然であった。財布や鍵といった携行品は、リビングのテーブル上に残されている。ベランダから外部を観察しても、駐車場や団地の敷地内に彼の姿は確認できなかった。
それでもなお、彼女の認識は「消失」という結論には至らなかった。それは、信じ難い事象が発生したのではなく、自らの状況理解が追いついていない結果である、という自己解釈に基づいていた。
彼は間もなく帰還するだろう、と。例えば、敷地内の自動販売機へ飲料を買いに行ったのかもしれない。彼女はそのような可能性に思考を誘導しようと試みた。
「……気温が低下する前に戻るべきですよ」
彼女が発した声は、意図したよりも微弱に響いた。
エプロンのポケットには、未調理のじゃがいもが一つ残されていた。まな板の上には包丁が放置され、静止している。
沙織は床からスマートフォンを拾い上げ、ソファの上へと移動させた。それは見慣れたはずの夫の所有物であったが、その手触りには既視感と乖離した奇妙な感覚があった。
時間は緩慢に、しかし確実に経過した。
日没が近づいていることは認識していたが、それ以上に、彼女は一種の健忘感に捉えられていた。何かを忘却しているという確信のみが存在し、その対象が何であるかは特定できなかった。
床に放置されたままのTシャツを手に取る。その寸法は自身の身体とは適合しない。しかし、これが誰のものかと問われても、答えは浮かんでこなかった。
洗濯機内には、未乾燥のシャツが一枚残されている。自身の衣類ではない。
では――?
夕光が室内を淡く染め上げる頃、彼女の中で、何かの歯車が決定的に噛み合わなくなった。床に落ちたTシャツは、もはや特定の個人に帰属しない“誰かの衣服”としてしか認識されず、それを“夫の所有物”として関連付ける論理的思考は、静かに機能を停止していた。
ソファに座り、テレビを眺めながら、彼女はカレーの調理を中断していた。食事を共にする対象が存在しないからだ、という理由が漠然と浮かんだ。なぜ対象が存在しないのか。当初から自分は単独で存在していたのではないか、という疑念さえ生じた。
ふと、棚上げに設置された写真立てが視界に入った。銀色のフレームが、斜陽を鈍く反射している。
それを手に取ると、二名の人物が写っていた。
女性は沙織自身であった。一人の男性は、既視感のある容貌をしていたが、その身元を特定できなかった。彼は親密さを示すかのように、彼女の肩に手を置き、穏やかな表情を浮かべている。その物理的な近接性に、沙織は微かな当惑を覚えた。
何かが決定的に欠落していた。
容貌、表情、服装、撮影場所の雰囲気。それらはすべて、客観的な情報として存在している。にもかかわらず――彼女は、その男性を特定の個人として認識できなかった。
彼がその場に存在したことは、写真という記録媒体によって証明されている。しかし、自身とどのような関係性を有し、なぜ隣で微笑んでいるのか。その背景情報を、彼女は記憶の中から参照できなかった。写真の裏面には何ら記述はなく、ただの白い厚紙が存在するのみであった。指先で男性の顔の輪郭をなぞると、ガラスの無機質な冷たさだけが伝わってきた。
カタン、という物音が発生した。
音源は室内ではなく、玄関の外部であった。足音とは異質な気配が感じられた。
ややあって、チャイムが鳴った。控えめな電子音が、二度。沙織は写真立てを棚に戻し、無意識的な動作で玄関へ向かった。モニターやドアスコープによる来訪者の確認という、日常的な安全確認行動が省略されていた。
ドアを開けると、一人の男性が立っていた。
年齢は三十代半ばと推定される。灰色のジャケットを着用し、リュックを背負っていた。細面の顔には、深い疲労を示す隈が刻まれている。その乾いた眼差しは、長期間の不眠をうかがわせた。
男は沙織を一瞥したのみで、発言はなかった。彼の視線は彼女を通り越し、室内へと向けられた。探索対象が予め定まっているかのように、その視線はまっすぐ玄関の床へ――開封された箱へと注がれていた。
男の視線は、開封された箱と、その傍らに手付かずで残されたいくつかの物品――腕時計、眼鏡、そして乱れることなく置かれた衣類――に注がれていた。すべてが揃っていることを確認するように。
それらは沙織の視界に入っていたはずだが、彼女にはそれを片付けるという意志も、その必要性の認識も生じなかった。
男は全ての状況を把握したかのように、短く息を吐いた。その息遣いには、諦めと、わずかな憐れみが滲んでいるようだった。そして彼は静かに口を開いた。
「……開けたのですね」
その言葉が持つ意味を、沙織は解釈できなかった。何を開けたというのか。問い返すための言語も形成されなかった。
沙織は応答しなかった。なぜ応答しなかったのか、その理由も彼女自身には不明であった。ただ、眼前の男に対し、いかなる感情も惹起されなかった。
男はそれ以上何も言わず、静かに頭を下げると、踵を返しその場を去った。廊下に響く彼の足音は軽く、即座に遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
ドアを閉めた後、彼女はしばらくその場を動くことができなかった。
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