第7話 『みなみと増川さん、家庭料理。』
「いっのうっえちゃ〜ん!! 今夜空いてる?」
そう、七緒さんがデスクに駆け寄ってきたのは、平日の夕方だった。みなみは手元の原稿から顔を上げる。
「今夜ですか? 特に予定はないですけど……」
「イエーイ! 実はね、増川さんに井上ちゃんの手料理、食べてもらいたいな〜と思っててさ」
みなみの頬がぱっと赤くなった。
「えっ、増川さんに? 私の料理ですか? そんな……」
「大丈夫、大丈夫! 井上ちゃんの料理、マジで美味しいもん。増川さんもきっと喜ぶって!」
七緒さんに強く言われて、みなみは困った顔を浮かべた。
「でも、急に言われても。増川さんをお、おもてなしなんて、何を作ったらいいか……」
「シチューとかでいいんじゃない? 寒くなってきたしさ、体も温まって、そういうのがついグッとくるんだよなあ〜」
「シチュー……」
みなみは少し考え込んだ。実は料理は好きなほうなのだが、相手が増川さんとなると緊張してしまう。
「私が責任持って増川さんを井上ちゃんちに連れてくから! 井上ちゃんはこのあと帰ったら、家で美味し〜いシチュー作って待っててくれる?」
七緒さんはそう言うと、みなみの返事も聞かずに営業部へと駆けていった。
*
みなみのマンションのキッチンに、野菜を刻む音が響いている。人参、じゃがいも、玉ねぎ。ひとつひとつ男性が食べやすい大きさに切りながら、みなみは心配になってきた。
「本当に大丈夫なのかな……」
シチューなんかで。
もっと歓迎してるってことが一目で分かるような、串カツの盛り合わせとかケーキとか、パーッとしたものを準備したほうがいいのではないだろうか。
何時ごろ来るのかわからないが、いつもより早上がりしたみなみなら、今からケーキくらい買ってこれるかもしれない。
増川さんは普段から無表情で、何を考えているのか分からないところがある。営業で舌も肥えているかもしれない。そんな彼に自分の手料理を食べてもらって、もし美味しくないと思われたら、どうしよう。
だんだん、不安が大きくなる。
鍋に油を敷いて、牛肉を丁寧に炒める。焼き色がついたら野菜を加えて、全体に火を通す。小麦粉を薄くまぶして、牛乳とブイヨンを加えていく。
「うーん、味が薄いかな?」
みなみは何度も味見を繰り返した。塩、胡椒、ローリエ。隠し味に実は、ケチャップを少し。コトコトと煮込みながら、そろそろケーキを買いに行こうかと時計を振り返った。
玄関のチャイムが鳴ったのは、午後七時ちょうどだった。
――ピン、ポーン。
「え、もう……?」
慌てて鏡を覗き、少しだけでも髪を整える。ドアを開けると、七緒さんがダダッと入ってきた。
「お疲れさま! 井上ちゃん、今日はよろしくお願いしま〜す! おっ邪魔っしまーす! こんばんわ〜!」
七緒さんは元気よく何度も挨拶したが、後ろに立った増川さんは普段通りの無表情のまま、小さく頭を下げただけだった。
「増川さん、いらっしゃいませ! 今日はお疲れさまでした。狭いところですが、どうぞどうぞ」
「……お邪魔します」
増川さんの低い声が、みなみの部屋に響く。緊張で声が震えそうになって、みなみにはこんなとき何を言えばいいかもわからない。
「だって、井上ちゃんの料理、絶対早く食べてもらわなきゃ! 増川さんも普段忙しくて、ちゃんとした手料理なんて絶対ろくに食べてないんだから。でしょ? 増川さん」
七緒さんは勝手に話を進めながら、増川さんをテーブルに案内した。
「あの、シチューを作ったんです。寒くなってきましたから。な、なんですけど……その、見た目がちょっと……」
みなみはサラダを運びながら、申し訳なさそうに呟いた。みなみの料理はレストランのような美しい盛り付けではない。頑張ってみるのだが、いつもどこか家庭的で、少し素朴な感じに見える。
「見た目なんてどうでもいいんだから! 大事なのは味! 味なのよ増川さん! さあさあ! 座って座って!」
増川さんはいつもよりも硬い表情で、静かに席に着く。
フォローなのか、七緒さんが謎の言い訳をしている横で、みなみは器をテーブルに並べる。パンも温め直して、シチューも取り分けて手渡す。
「ありがとうございます」
増川さんは無表情のまま、受け取ったシチューを見つめている。その真剣な視線に、みなみはますます緊張した。
「どっ、どうぞ、召し上がってください」
みなみが勧めると、増川さんはスプーンを手に取った。湯気の立つシチューを一口すくい、口に運ぶ。
その瞬間――
「…………えっ?」
増川さんの口から、小さく漏れた声。表情は相変わらず変わらないが、その一言にみなみの心臓が跳ね上がった。
「でしょー!? 言った通りでしょ!」
七緒さんが、なぜかひと足さきに目を輝かせて、ゲラゲラと後ろに笑い転げる。その横で、みなみは照れた顔を浮かべた。
増川さんは無表情のまま、黙々とスプーンを進める。二口、三口と食べ続ける姿を見て、みなみは安堵した。
しかし、こうなってくるとできれば、その味の感想が聞きたいと感じ始める。
静かな部屋に響くのは、スプーンが皿に当たる小さな音と、いつもの七緒さんのがなり声だけ。増川さんは一言も発しないが、その食べ方からは確かに美味しさが伝わってくるのだ。
きっと美味しいと、感じてくれているのだろう。
でも、はっきりとした、確信がほしかった。
「増川さん、い、いかがですか?」
みなみが恐る恐る聞いてみると、増川さんは一瞬スプーンを止めた。
「……美味しいです。とても」
短い言葉だったが、増川さんらしい素直な感想だった。たちまちドキッと、みなみの胸が跳ねる。
「野菜の甘みが出ていて、しっかりコクもある。手をかけて作ってくださったのが伝わります」
「そんな、手をかけたなんて……ふ、普通のシチューですよ!」
「いえ、普通じゃありません」
間髪を入れず、増川さんはそう否定した。あまりの速度にみなみは嬉しくなった。再びスプーンを手に取った増川さんは、美味しそうにシチューを食べてくれている。
「見た目じゃ判断しちゃダメだな……」
みなみが小さく呟くと、七緒さんはニヤリと笑った。
「そうそう! 井上ちゃんの料理は見た目は素朴なんだけど、味は本格派なのよ。私なんて、初めて食べたとき、びっくりして大騒ぎしちゃったんだから」
「七緒さん、それって、褒めてるんですか……?」
みなみは苦笑いしながら、増川さんの皿が空になっていくのを見守った。
「お、おかわりはいかがですか?!」
「……いただけますか」
増川さんの即答に、みなみは嬉しくなって立ち上がった。
「温め直してきます!!」
七緒さんは、既に次の料理のプランを指折り考え始めていた。「今度はハンバーグ、その次はカレー。オムライスも外せないな。増川さんに井上ちゃんの料理をもっと食べてもらわなきゃ」
「増川さん、井上ちゃんは何作らせても絶品なんだわ。なんでも作れちゃうんだから。何が好き? 今度作ってもらおうよ」
「……楽しみにしています」
増川さんの答えは相変わらず短かったが、その声には確かに期待が込められていた。
みなみは二杯目のシチューをよそいながら、胸が高鳴るのを感じていた。自分の料理を増川さんに喜んでもらえる幸せを、改めて実感していた。
そして、普段無表情な増川さんの「いただけますか」という即答が、今夜一番の宝物になっていた。
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