三つの扉で嘘を測る

妙原奇天/KITEN Myohara

第一話 校庭に立つ三扉

 六月の空は、青さの配分が不公平だ。午前は校舎の白い壁をわざとらしく褒めるくらい澄んでいるのに、午後は体育館の屋根の上で疲れたように灰を混ぜる。県立清瀬高校の校庭、体育館脇の空き地に、観照会——理科部と文芸部の合同同好会——の目玉装置「ぐるぐるモンティ」が据え付けられたのは、そんな日だった。三枚の木製扉。左は赤、中央は黄色、右は青。黄色だけ蝶番がやけに重く、左右は軽い。最初の「ガタン」は黄色が担当。赤と青は軽やかに「カタ」と鳴る。鳴き声に個性があるのは、扉にとって幸せだろうか。不公平だろうか。


 副代表の穂村は、校庭に持ち出した黒板の前で、チョークの粉を吸い込みながら図を描いている。扉三枚、当たりは一枚。観客にビー玉入りの紙カップを配り、最初に好きな扉を指さしてもらう。司会は外れ扉を一つだけ開け、残る二択で“乗り換えるかどうか”を問う。百回、二百回と繰り返し、統計で「乗り換えのほうが当たりやすい」ことを体感してもらう——いわゆるモンティ・ホール問題の実演を、高校文化祭の臨時競技にしてしまおう、という無邪気と周到の婚姻だった。


 私は装置の設計担当で、名は矢野蓮(やの・れん)。理科準備室の端材と古いピタゴラ装置の残骸を組み合わせ、扉ごとに当たりのボールが転がるルートを替えられる仕掛け、扉前の圧力センサ、司会の開閉タイミングを記録するマイクロスイッチ、観客の選択をICタグで拾う台を入れた。箱の裏にはRaspberry Piを二台と、バッテリと、学校から借りたWi-Fi子機。記録はUSBメモリにミラーリング。ログは時刻、扉の状態、司会の学籍番号、観客の選択、乗り換え判断、当たり外れ——全部、噛み砕いて残す。数字は食べ物だ。噛まずに飲み込むと、胃が怒る。


 黒板の穂村は、声にちょうどいい油分がある。「最初の選択は三分の一。当たりの密度は、司会が外れを開いた瞬間、残りの扉に二分の一ずつではなく、最初の“外した分”が片方に寄るんだよ」。チョークで線を二本、太くする。「だから乗り換えると、二分の一よりもちょっと高い“二分の二”——いや、言いすぎた。三分の二の勝ち筋に乗れる。統計って、手ざわりがある」


 しかし、反応は渋い。炎天下の観客は麦茶の紙コップで汗と麦茶を混ぜながら、口々に言う。「そんなの細工すればいくらでも」「司会が当たり知ってる時点で公正じゃない」「しかも真ん中の黄色だけ重いのフェアか?」。SNSでもハッシュタグが回る。《#やらせモンティ》《#黄色の陰謀》。昼休みの段階で、校長が「午後からの展示は安全第一で」と歯切れ悪く集会で言って、教頭は外国語科の机の端で胃薬を噛んだ。「安全第一」は、大抵「やめてね」の丁寧語だ。


 私はポケットの中のUSBメモリを握りしめた。表面の黒い樹脂は汗で少し滑る。私は教師控室へ向かい、ドアを開ける。空気が冷房で薄く冷たい。「ログの全面公開を許可してください」と言うと、担任の社会科教師は眉間を撫でた。「炎上に油を注ぐな。公開は“敵”にも材料を与える」。理科の顧問、白衣の上に祭りの法被を着た三城(みしろ)先生が短く言った。「数字は隠しても腐るだけだ。晒して風に当てろ」。それで決まった。顧問が一本、指で決める時の速度には慣れている。理科の先生は、教室の換気窓を迷わない。


 公開後、私は異常に気づいた。日曜の午前、乗り換え優位は教科書通りに立ち上がっている。最初の選択のうち、乗り換えた群は当たりが約三分の二、乗り換えない群は三分の一——催眠術のように綺麗な差が、百試行、二百試行で濃くなる。ところが、午後から急に差が縮み、夕方には逆転していた。乗り換えないほうが当たっている。しかも、“司会が最初に開く扉”の傾向が偏っている。外れ扉は三つのうち等確率で開くはずが、青ばかりが開かれている。観客はその後、赤に「乗り換えない」を選び、外す確率を自ら増やしている。数字の川に、外から石を投げ込んだ音がする。


 私は首から提げたスタッフ証を摘まみ、会場を見渡した。午後の司会シフトは、本来なら穂村がメイン、サブに私——のはずだったが、急なクラス行事で穂村が離席した時間帯がある。そのあいだの“代打”は、文芸部のエースで旧友の礼(れい)だった。礼は人前で話すのが巧い。声に透明なリズムがある。観客の視線を泳がせ、冗談と間でまとめることに長けている。彼は軽い。蝶番みたいに。重いものは彼に乗らない。乗せないのかもしれない。


 夕方、ログをプリントして礼を呼び出す。理科室前の廊下、匂いのある場所で。礼は紙を覗き込んで、笑って肩をすくめた。「細工はしてないよ。だって僕、鍵なんか持ってないし。扉の中身は君が朝に入れ替えたんだろ?」


 「なら、なぜ開示順が偏った?」


 礼は三扉の上に視線を走らせ、校庭のアスファルトに伸びる影を指さした。「影の長さが午後から伸びたろ。見てる人は長い影の方向に“安心”を感じる。影は演出だよ、蓮。青い扉の右隅に午後の影が伸びる。視界の端の濃い色が、観客の“ここは開きやすい”を増幅する。僕は開けただけだよ。みんなが“そこ”だと思った“そこ”を」


 私は礼の肩越しに扉を見る。確かに、体育館の影が午後は斜めに伸び、青の右側を薄く覆う。青いペンキは影でさらに深く見える。深い色は冷たさと安全を連想させる——と、心理学の入門書が言っていた。司会が外れ扉を開くとき、観客の視線がそこに集中しているなら、司会は「観客の安心」に引っ張られやすい。開く動作に迷いが少しでも生じると、軽い扉に手が伸びる。「青ばかりが開かれた」という事実は、「青が選ばれやすい」観客心理の鏡面かもしれない。鏡は細工しなくても嘘をつく。


 私は名指しを避けたが、礼は先に言った。「疑うなら、統計で刺しなよ。僕たちのゲームはいつもそうだ」——それは相手に刃物を渡しながら笑う人の台詞で、その刃先は既に砥がれている。礼はすこし身を振って、文芸部の方へ歩き出す。「とりあえず、顧問に“影の仮説”を相談してみなよ。午後の二時間だけ、ステージを90度回せばいい」


 「体育館は固定だ」


 「なら、観客を回せば?」


 礼はわざとらしく踵を返し、足音だけ残して去った。音の長さが午後を連れて行く。私はログを持って昇降口のベンチに腰を下ろし、ノートPCを開いた。USBからログを引き出し、Excelではなく自作の可視化スクリプトを叩く。天候、司会位置、観客の密度——自動記録はない。手書きで補助データを追記する。穂村が昼に焼きそばの列を折り返させた時刻、吹奏楽のパレードが体育館前を通過した時刻、校長が安全講話をした時刻。数字の川に石が落ちた瞬間に、波紋を描く。嘘は分布に痕跡を残す。ならば、痕跡はまだ消えていない。


 画面の上で、午後二時を境に「司会が開いた扉」の分布が青に寄っている。単なる偶然では説明しにくい偏りだ。私はバイアスの可能性を列挙し、ひとつずつ潰す。


 ——蝶番の重さ。黄色だけ重い。司会の腕の疲労が午後に溜まり、無意識に軽い扉(赤・青)を選ぶ可能性。だが、午前も軽さは存在したのに分布は均等だった。


 ——騒音。吹奏楽が通るとき、青の近くはうるさい。人はうるさい方を先に終わらせたくなる。とはいえ、演奏時間は短い。


——影。体育館の影が青の右側に伸び、視界の端のコントラストが「開けやすさ」の錯覚を生む。これは、時間帯と一致する。



 ——司会の立ち位置。礼の身長は穂村より高く、手が自然に青の高さに伸びる。ひじがつく支点も青側に多い。これは、ログの「司会位置」と一致する。午後の一部時間帯、礼は青側に立ち続けている。


 ——観客の密度。焼きそばの行列の折返しが青側にでき、人の流れがそこに見える“出口”をつくる。「出口の近くを開ける」のは人間の性だ。


 等号が揃っていく。等号は美しいが、恐ろしくもある。等号が揃うと、疑いの矢印が一本線で礼に向かう。「君が開けたから偏った」ではなく、「君が立ったから偏った」。それは意図か、事故か。「演出」か、「誘導」か。演出と誘導は、違う顔をしていて、横顔はよく似ている。


 私は指を止め、深呼吸をした。脳に酸素を配るのは、機構としてフェアだ。ノートPCの画面の左に、小さなウィンドウを出す。これは「証拠の食べ方マニュアル」。自分で作って、自分で読み返す。——一、意図の推定で判断しない。二、結果の偏りを係数に戻す。三、仮説は最低二つ用意する。四、実験計画は単純にする。五、怒りは冷蔵庫にしまう。冷える。


 顧問の三城先生からLINE。「校長は“午後からの展示は安全第一で”と言ってたが、今夜の部活時間は自由に使っていい。機材は置いていけ。……風に当てろ」。私は「了解」と返すと、メモに「夜間テスト」を追加した。夜の校庭は貸し切りだ。星は統計に厳しい。空はズルを見破る。夜のテストでは、影が動かない。影の係数をゼロにする。


 夜の校庭は、体育館の残り香が薄いゴムの匂いで、扉の木が甘く呼吸する。私は延長コードを張り、スポットライトを二灯、低い位置に置いた。照射角を左右から均等にし、影の輪郭を消す。司会位置のマークを床に貼り、青側に立てないように足場を限定する。観客役は理科部の一年二人と文芸部の一年二人。人の密度は少ないが、同じ条件を繰り返すには十分だ。


 「最初の選択は三分の一——」と、声に出して、誰もいない観衆に向けて説明し、司会役の一年が外れ扉を開ける。私はひたすら記録を取る。扉の開閉、乗り換え判断、当たり外れ。今回は観客役に「乗り換えない」を命じ、次には「乗り換える」を命じる。生徒たちは規律に従い、確率は教科書通りに戻った。影の係数をゼロにしたら、偏りは消える。私はほっとし、同時に嫌な予感もする。偏りは、消えるべきで消えた。つまり、昼の偏りはやはり影と立ち位置と流れだ。礼の意図はどこにある?


 私は最後に、礼の声の録音を再生した。「青は涼しげで、今日は暑いからね」「赤は情熱的、当たるといいね」「黄色は真ん中の王道」。冗談の中の助詞。助詞の重さが、選択の重さを動かす。言葉は空気の粘度を変える。「青は涼しげ」は、人を青の前に立たせる。「真ん中の王道」は、黄色の蝶番の重さを予告する。「情熱的」は赤に少しバツをつける。礼は細工していない。言葉を置いている。言葉は重量の単位では測れないが、扉の前では天秤になる。私は背筋がすっと冷えた。冷えるのは悪くない。熱は判断を汚す。


 翌朝、私は朝練前の体育館脇で穂村と会った。穂村はエナジードリンクの缶を片手に、目の下に積分記号のような影を作っている。「どうよ、ログの風通し」


 「陰は消えた。夜は期待通り。ただ——」


 「ただ?」


 「午後の偏りは、礼の『立ち位置』と『言葉』でほぼ説明できる。意図かどうかは、まだわからない」


 穂村は肩を二回すくめ、缶のプルタブをいじる。「礼は演出家だよ。自分が台本書く立場だと思ってる。文芸部はそういう自意識がないと、書けない。……問題は、それを“確率の体験”の場に持ち込んだこと」


 「持ち込んだだけなら、まだいい。意図的に偏らせたなら?」


 「なら、謝らせればスッキリする?」


 私は否、と言いかけて飼い慣らした。謝罪はいつだって手続きの外にある。手続きの中に置けるのは、説明と修正だ。「統計で刺す。影と立ち位置と助詞の影響を、再現して見せる。昼にやった実演を、今度はこっちの演出で『反演』する。青を開かせないように、青の側をわざと混雑させる。助詞に逆の重みをつける。“青は危ないほど冷たい”とか」


 「それ、ちょっと面白い」


 穂村は笑って、顧問に連絡を入れた。「午後、第一体育館の空き時間、ステージの回転の許可取れるか。照明も借りたい。あと、生徒会から『安全第一』出てるから、手順書を出そう。……蓮、手順書、書ける?」


 「書く。『開けすぎ注意』の張り紙も」


 午前の部は、幾分静かだった。SNSの波は引き、#やらせモンティ のハッシュタグも、代わりに #焼きそばの塩 がトレンドに座っている。焼きそばは庶民の勝者だ。私は午前中の間、扉の蝶番の油をほんの僅かに足し、黄色の重さの変動を抑えた。重さの異なるものは、言葉の標的になる。標的は、選択者の矢を集める。公正のための油。


 昼休み、礼が近づいてきた。白シャツの第一ボタンが開いて、風が入る。「どう? 影の仮説は当たった?」


 「午前は静かだった。午後、再現してみる。立ち位置も、助詞も、こっちで設計する」


 礼は目を細め、笑う。「僕を刺すために、僕の手を借りるの?」


 「君の手を借りるのは、刺さないためだ」


 「詩的だね。……じゃ、僕は午後“観客”に回る。君が司会。穂村が黒板。僕は端で観客の動線を作る」


 礼の瞳に、薄い反射が灯る。空の青を削って、少し混ぜたみたいな透明色。彼は敵ではない。敵意は、器の中に入れると旨味が出ることもある。私は頷いた。「三扉の前、床に印を貼る。“立ってほしくない場所”にマットを置く。“立ってほしい場所”に影を置く」


 「影を置く?」


 「人工影。黒い布を三角に切って、床に貼る。青の右側には置かない。赤の左側に置く。視界の端の濃い色を動かす」


 礼は肩を叩き、「それ、文芸部の仕事だ」と笑った。


 午後一時、私は“反演”の準備に入った。ステージは動かないから、観客を回す。ロープで動線を軽く区切り、人の流れが赤側から入って黄色の前で広がり、青側へ抜けていくようにした。ロープは線ではなく、空気の流れを作る。文芸部は貼り紙で補助。「こちら側からお並びください」「フォトスポットは赤側」「黄色の前で写真を撮ると“王道の記念”」。助詞は小さな設計図だ。“の”は所有の線、“は”は重心、“を”は通り道。礼の言葉を借りつつ、礼の言葉を逆に配置した。


 司会は私。穂村は黒板。礼は端で拍手を煽る——いや、煽らない。拍手のタイミングを決める。「今のは良い乗り換え」には全員でパチパチ。「今のは惜しい乗り換えなし」には、静かな「ふむ」。観客は拍手の大小で「正しさ」を学ぶ。なら、その拍手を手続きと同期させる。


 実演。三択。観客が最初に黄色を指す。私は外れ扉を開ける——青は開けない。理由は簡単だ。青側に人工影がない。視界は赤に引っ張られる。私は赤を開ける。残るは黄色と青。私は「乗り換えますか?」と問う。拍手はまだない。観客は逡巡し、理由付き投票の札に「王道は王道」と書いて黄色に留まる。私は「“王道は王道”は詩としては正しいけど、確率としては……」と言いかけて飲み込み、代わりに黒板を見た。穂村が「三分の二」と書く。観客は黄色から青に乗り換える。拍手。拍手は熱ではなく、空気の手続き。結果、当たりは青。拍手は大きくない。大きすぎる拍手は翌日の宿題を増やす。


 午後の四十分、私は「青を開けない」ための自分へのバイアスも設けた。青側の床に「足を置くな」テープ。体はテープに従う。脳は意志に従うより先に、テープに従う。実演の曲線は、午前の逆を描き始めた。乗り換えの当たりが再び伸び、乗り換えないの当たりは収縮する。ログは正直だ。数字は、背筋を伸ばす。


 終盤、私は司会の台詞に“助詞”を注入した。「青は“いま”冷たい」「赤は“いま”熱い」「黄色は“いま”重い」。いま。時間を含めると、言葉は装置になる。さっきの「涼しげ」は恒常性を匂わせる。恒常は信仰の親戚だ。信仰は統計の敵ではないが、別の科目だ。私は台詞に温度計を挟んだ。「いま」を連発すると、観客は瞬間で考える。瞬間は乗り換えの味方だ。


 結果、午後の最初の偏りは、反演で打ち消された。青は従順に沈黙し、赤は被害者をやめ、黄色は「王道の重さ」をきちんと背負った。SNSのハッシュタグは、《#王道のいま》《#助詞が重い》。文芸部は矢印の描き方で小さな戦いを挑み、理科部はログの取り方で小さな勝利を拾った。顧問の三城先生が腕を組んで、「風が通ったな」と言った。


 片付けの夕刻、私は礼と校庭の隅で向かい合った。体育館の影は長く、私たちの足を跨いで伸びる。礼はビニールテープを巻いていた手を止め、私の顔を覗き込む。「刺せた?」


 「刺した。けど、刺さる先が君じゃない。影と助詞だ」


 「助詞は犯人だった?」


 「共犯」


 礼は笑い、テープをちぎってポケットに入れた。「ねえ、蓮。君は『演出』が嫌い?」


 「嫌いじゃない。演出のない科学は、孤独だ。けど、演出が主体になる科学は、商売だ」


 「商売、悪くないけどね」


 「文化祭は店じゃない。教室だ」


 礼は胸を手で叩いた。「文芸部は、店でも教室でも家でもある。……でも、今日は君の勝ち。勝ちの定義は“訂正されるべき誤解が訂正された”こと。敗者は誰もいない」


 「敗者は重力」


 「重力はいつだって敗者」


 礼は指先で空を刺し、笑い、真顔に戻った。「ログは、公開を続ける?」


 「続ける。数字は風に当たらないと腐る」


 「腐った数字の味、好きだけど」


 「絵の具の匂いと一緒だ。小学生のときは好きでも、今は頭が痛くなる」


 礼は「ふーん」と言い、扉に背を預けた。「じゃあ、次の展示は?」


 「次は、三扉の色を変える。赤・黄・青を、三色とも灰色に塗る。名前だけ色にする。『赤と呼ばれる灰』『青と呼ばれる灰』『黄色と呼ばれる灰』。助詞と形容詞の重みを切り離す」


 「それ、文芸部の領分だ」


 「奪いにいってる」


 礼は両手を上げた。「どうぞ。奪われるの、案外気持ちいい」


 夕方の放送で「展示終了」の音楽が流れる。私は扉の蝶番に最後の油を差し、黄色に「重さ」を等分に配った。重さの公平は、疲労の公平だ。疲労が公平だと、みんな少しずつ笑える。


 夜。昇降口のベンチに戻り、またノートPCを開く。ログに新しい列を足す。「人工影」「台詞テンプレ」「観客導線」「拍手強度」。数字の列は、銀のレールみたいに光る。私は自分の心拍数が静かに落ちていくのを感じ、ペットボトルの水を飲む。プールの水より美味しい。


 「——蓮」


 背後から声。振り返ると、穂村がいた。肩にバインダー、目の下の積分記号は少し薄い。「校長から“展示は明日も可。安全第一で”が出た。『第一で』が残ってる」


 「第一ってことは二も三も出せる」


 「そう。……礼がさ、職員室で校長と話してた。“演出のせいで誤解を生んだ。反演で訂正した。次は台本を公開する”って。文芸部の顧問、ニヤニヤしてた」


 私は頷いた。「台本の公開は、仕様の公開だ。仕様の公開は、嫌われる」


 「嫌われの費目、どうする?」


「未設定。明日、設定する」



 穂村は笑って、踵を鳴らした。「君ら、ほんと面倒くさい。……で、面倒くさいのが好きだ」


 彼が去ると、私は最後に礼へメッセージを送った。《影と助詞の件、ありがとう。明日も立ち位置、設計する。君は観客のふりをして、観客の動線を引いてくれ。——“演出”を“手続”に翻訳する》。既読はすぐついた。返事は、絵文字ひとつ。扉の絵。絵にも助詞はあるのだろうか。あるのだろう。あるから、扉は開く。


 ログのファイル名を保存し直し、USBを抜く。ポケットに入れた瞬間、その重みで現実感が増す。重さは現実の言語だ。軽い言葉は遠くに飛ぶが、重い言葉は手に残る。私は立ち上がり、暗くなりかけた校庭を歩く。三扉は薄闇の中でも輪郭がわかる。赤と青と黄色——いまは、すべて灰色に見えた。灰色は、嘘を吸い取り、優しく息を吐く。明日の朝、ペンキの缶を開け、灰色をほんの少しだけ混ぜる。色に灰を一匙。人に余白を一匙。確率に椅子を一脚。


 ベンチを離れるとき、体育館の影が一段深くなった。影は演出だ。だが、演出は敵ではない。演出が手続に従えば、観客は迷わない。迷わない観客は、笑う。笑いは軽い。軽さは、蝶番の油になる。油は匂う。匂いを嗅ぎながら、私は校舎に戻った。明日の図面を描くために。いい加減、文化祭は学びの祭りだ。学びは、面白い。面白いのは、正しい。正しいのは、退屈じゃない。退屈じゃないものは、長持ちする。長持ちするものは、勝ちに似ている。勝ちを名乗らずに、勝ちに似たものを積み重ねる。観照会のやり方は、いつもそうだ。今夜も、そうだ。明日も、そうだ。

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