第9話 カーテンコールの向こう側へ


 ​文化祭当日の空は、嘘みたいに青く晴れ渡っていた。

 校内は朝から異様な熱気に包まれ、廊下を埋め尽くす生徒たちの誰もが、高揚した笑顔を浮かべている。俺たちのクラスの演劇『ロミオとジュリエット』は、午後一番の上演だった。


 ​開演直前の体育館は、立ち見が出るほどの人で埋め尽くされていた。

 ざわめきと、期待の入り混じった熱気が肌をじりじりと焼くようだ。

 俺は大道具係として舞台袖の薄暗い場所に立ち、固唾をのんでその時を待っていた。


 すぐ近くには、ジュリエットの衣装に身を包んだ恵がいた。

 生成り色の簡素なドレスは、華奢な恵の身体の線を際立たせ、照明の光を浴びてキラキラと輝いている。

 姉たちに施されたのだろう、軽いメイクがその中性的な顔立ちをさらに儚げに見せていた。


「恵」


 ​俺は、ほとんど無意識に声をかけていた。

 恵は驚いたように振り返る。

 その瞳には緊張と、ほんの少しの不安が揺れていた。


「……大丈夫だからな」


 ​俺が言えたのは、それだけだった。

 でも、恵は一瞬、泣き出しそうに顔を歪めた後、力強く、一度だけこくりと頷いた。

 その瞳には、真由美や姉さんたちに貰ったのだろう確かな光が宿っていた。


 もう、迷いはなかった。


 ​やがて、ブザーが鳴り響き、ゆっくりと舞台の幕が上がる。

 スポットライトの中に現れた恵の姿に、客席から「おお……」という、ため息のような歓声が漏れた。


 それは、もう俺の知っている恵ではなかった。


 悲劇のヒロイン、ジュリエットそのものだった。


 その佇まいは痛々しいほどに美しく、発する声は鈴のように澄んでいて、観客の心を一瞬にして鷲掴みにした。


 ​俺は、舞台袖の暗闇の中から、食い入るように恵の姿を見つめていた。


 佐伯演じるロミオとの愛の語らい。


 バルコニーでの密会。


 そのすべてが、俺の胸をナイフで抉るように痛かった。


 ​そして、あの有名な台詞が恵の唇から紡がれる。


「ああ、ロミオ、あなたはどうしてロミオなの?」


 ​その言葉は、ロミオ役の佐伯ではなく、まるで舞台袖にいる俺に向かって放たれたように聞こえた。


 どうしてあなたは『達也』なの?


 どうして、あなたは私の気持ちを分かってくれないの?


 どうして私たちの間には、こんなにも高い壁があるの?


 恵の悲痛な叫びが、俺の罪悪感を激しく揺さぶる。


 そうだ、恵をあんな顔にさせたのは、あんな悲しい声を出させているのは、他の誰でもない、俺なんだ。


 ​物語はクライマックスへと向かっていく。


 ジュリエットが、ロミオと結ばれるために仮死の薬を飲むシーン。


 恵は小さな小瓶を手に、震える声で独白を続ける。

 その瞳から、一筋の涙がきらりと光り、頬を伝った。

 それは演技などではない、本物の涙だと俺には分かった。


 やがて、恵は薬を飲み干し、その場に崩れ落ちる。

 糸が切れた人形のように、ゆっくりと、静かに。

 ​その瞬間、俺の中の何かが弾け飛んだ。


 ​硬派?


 プライド?


 世間体?


 そんなもの、どうでもいい。


 恵がいない世界なんて、俺には意味がない。


 あいつを失うくらいなら、なんだって捨ててやる。


 ただ、会いたい。会って、謝りたい。自分の本当の気持ちを、今すぐ伝えたい。


 ​本能的な、魂の叫びが俺を突き動かした。

 ​演劇が終わり、割れんばかりの拍手が体育館を包み込む。

 カーテンコールで、出演者たちが手を取り合って観客に頭を下げる。

 その喝采を背に、俺は走り出していた。


「おい、新堂!?」というクラスメイトの声が聞こえたが、もう振り返らなかった。


 ​人混みをかき分け、楽屋として割り当てられた教室へ向かう。


「恵!」


 バン!と乱暴にドアを開けるが、そこには衣装を脱ぎ終えた他の生徒たちがいるだけで、恵の姿はどこにもなかった。


「河野なら、さっき『一人になりたい』って言って、出て行ったぞ」


 ​ 佐伯が、怪訝そうな顔で俺に言った。


 どこだ、恵はどこに行ったんだ。


 焦りが全身を駆け巡る。


 あいつが、本当に一人になりたい時。


 嬉しい時も、悲しい時も、昔から決まって行く場所。


 それは、一つしかない。


 ​俺は、一つの場所を脳裏に思い浮かべると、踵を返して学校を飛び出した。


 夕日が差し込む廊下を、ただひたすらに、全力で走った。


 もう、自分の気持ちから逃げるのは終わりだ。


 カーテンコールの向こう側へ。


 本当の物語が……今、始まる。


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