第7話 止まない雨、それぞれの部屋
喧嘩から、三日が過ぎた。
季節は晩秋へと駆け足で向かい、空は鉛色の雲に覆われ朝から冷たい雨が降り続いている。
世界の
学校の廊下で、前から歩いてくる恵と不意に目が合った。 恵はびくりと肩を揺らし、俺は心臓が掴まれたように息を止める。
ほんの一秒にも満たない時間。
先に視線を逸らしたのは恵だった。
俺もまた、何事もなかったかのように前を向き、ただすれ違う。
いつも隣にあったはずの温もりが、今は手を伸ばしても届かないほど遠い。
登下校も別々になり、クラスでも、俺たちの周りだけがぽっかりと真空地帯になっていた。
放課後、俺は雨音だけが響く通学路を一人で歩いていた。
みのり屋だんご店の前を、足早に通り過ぎる。
あの香ばしい匂いですら、今は胸を締め付ける棘になる。 まっすぐ家に帰り着くと、濡れた制服を脱ぎ捨てるのももどかしく、自分の部屋のベッドに倒れ込んだ。
──【達也の部屋】──
枕に顔をうずめると、湿った自分の匂いに混じって微かに恵の家のフローラルの香りがしたような気がして胸がずきりと痛んだ。
机の上には、中学の卒業式に撮った写真が飾ってある。
少しぶかぶかの制服を着た俺と恵が、桜の木の下で肩を組んで笑っている。
あの頃の俺は、こんなにも素直に笑えていたのか。
(謝らなければ)
頭では分かっている。
分かっているのに、身体が動かない。
何と言えばいい?
『あの日、俺が言ったことは全部嘘だ』?
違う、嘘じゃない。俺は本気で佐伯に嫉妬していた。
『お前が他の男と仲良くしているのが、死ぬほどムカついたんだ』?
そんなみっともないこと言えるはずがない。
それは硬派な俺が、絶対に口にしてはならない言葉だ。
あの醜い嫉妬心を、どう説明すればいい?
どうすれば、あいつを傷つけずに、この気持ちを……
思考は堂々巡りを繰り返し……結局、後悔と意地でがんじがらめになった俺は、ベッドから起き上がることすらできなかった。
たった一人、幼馴染と喧嘩しただけだ。
それなのに、世界はこんなにも色を失くしてしまうものなのか。
いつも当たり前のように隣にいた恵がいない。
それだけで、通い慣れた道はただの灰色のコンクリートになり、教室の喧騒は耳障りな雑音に変わる。
俺の世界から、光が消えてしまったようだった。
窓ガラスを激しく叩きつける雨音が、まるで俺の無力さをあざ笑っているように聞こえた。
◇
──【恵の部屋】──
その頃、恵もまた自分の部屋のベッドの上で膝を抱えていた。
窓の外は、達也の部屋から見える景色と同じ灰色の雨に濡れていた。
コンコン、とドアがノックされる。
「恵? 大丈夫? 何か食べる? 」
姉の
恵は顔を上げず、「……いらない。なんでもないから」とだけ答えた。
ここ数日、姉たちが代わる代わる様子を見に来てくれるが、恵は誰ともまともに顔を合わせられなかった。
(僕のせいだ)
ぐるぐると、同じ思考が頭の中を支配している。
達也に、あんな顔をさせてしまった。
あんなに怒らせてしまった。
僕が女の子みたいだからだ。
男のくせにジュリエット役なんて引き受けて、ヘラヘラしていたからだ。
僕の「男らしくない」ところが、達也を怒らせたんだ。
『男のくせにヘラヘラしやがって!』
『恥ずかしいと思わねえのか!』
達也の怒声が、何度も、何度も耳の奥で再生される。
そのたびに、心臓が氷の棘で刺されたように痛んだ。
一番嫌われたくない人に、嫌われてしまった。
世界で一番、軽蔑されたくない人に軽蔑されてしまった。
その事実が、恵からすべての気力を奪っていた。
自分を責めれば責めるほど、涙が後から後から溢れてくる。
頬を伝う熱い雫は、やがて窓ガラスを滑り落ちる冷たい雨粒と、ひとつに重なって消えていった。
◇
──【教室の真由美】──
放課後、ほとんどの生徒が帰り支度を終えた教室で真由美は一人、窓の外の雨を見つめていた。
雨に煙るグラウンドは、どこか寂しげに見える。
(やっぱり、私のせいかな……)
あの日、達也を校舎裏に呼び出したことを真由美は後悔していた。
自分の軽率な、そして打算的な行動が、あの二人の間にあった繊細なバランスを崩してしまったのかもしれない。
あの日以来、達也の様子は明らかにおかしくなった。
そして、恵はずっとうつむいている。
あの太陽のような二人の笑顔が、今は教室のどこにもない。
(二人が笑ってないと、私も笑えないよ)
自分の恋心よりも今はただ、大切な幼馴染のことが心配だった。
達也の不器用さも、恵の繊細さも、誰よりも知っているつもりだ。
放っておいたら、二人はこのまま壊れてしまうかもしれない。
そんなのは、絶対に嫌だ。
窓の外の雨は、まだしばらく止みそうにない。
けれど、真由美は濡れた窓ガラスの向こうに何かを決意したような強い光を目に宿していた。
自分にできることはないだろうか。
あの二人の笑顔をもう一度見るために。
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