第4話

 午前の謁見の時間。

 王族の義務のひとつとして、貴族たちとの顔合わせが行われる。


 部屋の中央には、日光を跳ね返す艶やかな大理石の床。

 その上に広がるのは、着飾った者たちの優雅な笑みと、計算された沈黙。


 貴族という生き物は、言葉ではなく、間と表情で戦う。

 アリスはその駆け引きに、かつて敗北した。何も知らずに、信じたから。


 (けれど今は違う⋯⋯もう、あの頃じゃない!!)


 玉座に並ぶように設けられた応接椅子に座りながら、アリスは冷静に場を見渡した。


 次々とやって来る来客。挨拶。献辞。退室。

 その繰り返しの中に、一人、心に深く刻まれた顔が現れる。


 「……久しぶりでございますな、アリス様。お美しくなられて」


 穏やかな笑み。

 だが瞳だけは、相変わらず冷たいまま⋯⋯。


 マルク・ヴァンデール伯爵。

 王国西部を治める名門貴族にして、かつて父王を裏切り、敵に通じた男だった。


 (この男が、最初にガロス将軍に呼応した。裏切りの起点⋯⋯)


 「マルク伯。お変わりなく、なによりですわ」


 アリスは微笑んだ。とびきり美しく、穏やかに。

 そして、その笑みの裏で牙を研ぐ。


 「今日はお顔を見られて嬉しいです。西部の領地、今はどうかしら?」


 「ええ、穏やかなものでございます。民も安心しており、特に不安も」


 「それは良かった。けれど、最近文書の不達が続いていると聞きました」


 マルクの瞳が、ほんのわずかに細まる。


 「ご存じでしたか……些細なことかと」


 「些細でも、大事なことですわ。民が怯える前に、王家が手を打たなければなりませんもの」


 その瞬間、部屋の空気がぴんと張った。


 (黙り込んだ……やっぱり何かある)


 アリスは、言葉で罠を張った。

 未来の記憶に基づく伏線。それを軽く提示して、相手の反応を見る。


 マルクはすぐに笑みを取り戻すと、言葉を選ぶように口を開いた。


 「さすが、アリス様。未来の女王は、お目が高い」


 「ええ⋯⋯目だけは、ね」


 皮肉を込めたその一言に、マルクの目が再びわずかに泳いだ。


 (あなたたちの企みを、私は見逃さない。二度と)



 謁見の終わり、貴族たちが退出していく中。

 部屋を出ようとしたそのとき。


 「……アリス様。よろしければ、ひとつだけ」


 マルクが、誰にも聞こえぬような声でささやいた。


 「変わられましたね」


 その言葉が、アリスの背筋をひやりと冷やした。

 (まさか⋯⋯⋯⋯)


 言葉の意味は、どこまでの変化を指しているのか。

 演技がダメだったか。それとも、何かを感づかれたのか。


 マルクは静かに一礼し、立ち去った。


 残されたアリスは、一瞬だけ目を伏せ大きく息を吸った。


 (怖い⋯⋯けれど、これは正しい。進むしかないのよ⋯⋯)


 あの言葉が、ただの印象であることを願いながら。

 もしそうでなかったときの、覚悟も、同時に心に刻みながら⋯⋯。

 


 日が傾きはじめた午後の城内。

 あたたかな光が石壁に斜めの影を落とす。


 王宮の侍女長、カレンは、静かな廊下で指示をしていた。

 姿勢は正しく、表情もいつも通りで、何より誰よりも信用できると、アリスは思っていた。


 (けれど、本当に?)


 今日、彼女に何を話すべきか。

 それは簡単なようで、難しい問題だった。


 (私は、あのとき……)


 アリスの中に残る、断片的な記憶。

 あの最期の夜、追手から逃れた塔の階段。

 扉を開けると、カレンが立っていた。


 確かに、そこにいた。

 けれど、彼女は手を伸ばさなかった。逃げ道を閉ざすように、無言で立っていた。


 それは裏切りだったのか、それとも……恐怖か、諦めか。


 「アリス様?」


 声に呼び戻される。

 気づけば目の前に、カレンがいた。

 

「ご用でしょうか?お部屋に何か不備でも?」


 「……いえ。少し、話したいだけよ。カレン、あなたと」


 「私と……ですか?」


 アリスはうなずき、空いていた窓辺の長椅子を指さした。


 「座って。立ったままじゃ落ち着かないわ」


 「……では、失礼いたします」


 柔らかいクッションの沈みと、ほんのわずかな距離。

 かつて何度もそうしていたように。

 

 姉と妹のような時間。

 けれど、今日は違う。


 「ねえ、カレン。あなたは今も、私の味方?」


 カレンの目が泳ぐ。

 わずかに、ほんの一瞬だけ。

 だがアリスは見逃さなかった。


 「もちろんです、アリス様。私はずっと、あなたのッ⋯⋯」


 「姫として?」


 アリスの問いに、カレンは言葉が詰まった。


 (そこよ⋯⋯)


 今の反応。その一瞬の躊躇。

 それは立場への警戒だと確信した。


 (この人も、私が変わったと感じている)


 アリスは冷静に、そして静かに問いかける。


 「今朝、古文書庫へ行ったの。父の記録を見ていたら、気づいたの……王国の中が、ゆっくりと壊れていたって」


 「……アリス様」


 「そして、その壊れかけた王国に、あなたもいた」


 彼女の目が、怯えたように揺れる。

 それでもカレンはすぐに、姿勢を正した。


 「私は、アリス様をお守りする役目です。それは変わりません。たとえ、王国がどうあれ……」


 「それなら聞かせて。私が処刑されると聞いたとき、あなたは、何を思ったの?」


 沈黙。息苦しいほどの重い空気。


 アリスの心の奥に、再び蘇る記憶。

 処刑ではなくとも、死が間近だったあのとき、誰が手を差し伸べ、誰が背を向けたか。


 「……私は、恐れていました」


 カレンの声は、かすかに震えていた。


 「何が正しいのか、分からなくて……王家の中で何が起きていたのかも。私のような立場では、誰が生き残るのかを考えることしか……できなかった」


 それが、偽らざる本音だったのだろう。

 アリスは目を閉じた。


 (カレンは裏切ったのではない……ただ、選べなかっただけ)


 それでも、その選ばなかった事実は、彼女の中に小さな線を引いている。


 「ありがとう、カレン……もう、わかったわ」


 「……はい?」


 「もしまた、選ばなきゃいけない時が来たら。今度は選んで。私を、じゃなくて自分の意志で」


 カレンは小さくうなずいた。


 陽の光が、ゆっくりと傾く。

 影が長く伸び、ふたりの間に落ちた。

 それは、かつての絆に走った亀裂の形を、どこか思わせるものだった。

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