第3章 安心できる場所《ユウ》 2

 考え込んだあたしの様子に気付いたのか、一条は無表情から一転ニコッと満面の笑みを浮かべ、気遣うように口を開いた。


「もう行くことのない大学の参考書なんて必要ないもんね。そうだ!矢白木さんのマンガ読んでみてもいい?」

「……別にいいよ」

「やった!マンガなんて小学生の時ぶり!」

 一条はそう言うと、あたしの部屋の本棚に歩み寄り、ちょうど目の高さにあった少年マンガに手を伸ばす。


 氷のような冷たい目は完全に消え去り、小さな少女のようにはしゃぐ一条。先程の彼女の姿を見なければ、心から喜んでいるようにしか見えなかったかもしれない。けれど、あの、氷のような目つきと、怖い程の無表情を見た後では、無理に元気に明るく振る舞っているように見える。


 しかし、気の毒だとは思わない。


 正直、羨ましいと思ってしまう。親から勉強を強制されてマンガも読めないという環境は嫌だが、裏を返せばそれだけ親にということだ。それはそれでいいじゃないか。


 我ながら醜い感情に吐き気を覚え、あたしは振り払うように首を振った。


 自分と比べて他人を羨むことは、相手の事情も考えていない自分勝手な行為だ。あたし自身は不幸だと感じている環境を、羨む人だっている。あたしが羨ましいと感じる環境が、その人にとっては地獄だということもある。

 他人ひとと比べて自分が不幸だと思うなら、それに気付いたなら、羨むのではなく自分にできる方法でその不幸から逃げ出せばいい。


 とはいえ、そう簡単にはいかないことはあたしにも分かる。

 生まれた頃からの環境が幸か不幸かに気付くには、《呪い》から抜け出すことが必要だ。愛という名の呪い。愛情は時に呪いになり、足枷となって勇気ごと人の動きを止めてしまうことがある。

 囚われたままの人間に、あたしの考えを押し付けるつもりはない。それにあたしはまだ一条優香という人間のことをよく知らないのだから。


 はぁ、とため息を吐くと、目を輝かせながらマンガを読み始める一条の背中に歩み寄り、その背中に声をかける。

「あのさ」

「んー?」

「さっき、あんたがあの椅子に座った時、母親らしき女に会ったんだよね」

「うん、そう」

「……どんな人だった?」

「ん?」

 マンガを読みながらか片手間に返事をしていた一条だったが、あたしのその一言で初めてこちらを振り返った。


 キョトン、とした顔のお手本のように目を丸くして、不思議そうにこちらを見てくる一条。自分よりふた回り体の大きな相手に睨め付けられても動じたことのないあたしが、何故か気圧されるような気分になる。それでも、続けて口を開く。

「………いい人、だった?」

 自分が死んだこと、新しい親の元に転生したこと。それはもう理解した。受け入れられるかは別だが。それならば、そんな新しい親というのは、果たしてどんな人なのか。少なくとも前の親よりはマシであることを願わずにはいられない。


 一条はしばらく瞬きをしてから、「うーん」と考え込むように首を傾げ、唸るような声を上げる。

「…いい人……どうだろう?ほんの少し顔を見ただけだし、よく分からないかな…。でも、優しそうではあったよ」

「……そっか」

 あたしはホッと吐息を漏らした。

 人は、環境や立場で変わってしまうもの。不安が完全に消えたわけではないが、少なくとも、のような、子供に興味のない母親ではなさそうだ。


「…気になるなら、見に行けば?」

「は?」

「さっき言おうと思ってたの。私が外に出れるなら、矢白木さんも同じようにできるじゃないかって」

 そう言うと、中央の椅子を指差す。


 何を言っているんだ。いくら何でも警戒心がなさすぎる。先程は無事に戻ってきたけれど、もし戻ってこれなくなったらどうするんだ。

 だがそう口にする前に、一条はあたしの恐怖を見透かしているように口を開いた。

「多分だけど、外の世界で眠るとこっちに戻って来れるんだと思うから、困ったらこっちに戻ってくればいいよ」

「多分って……いい加減だなぁ」


 けれど確かにそれで実際にそれで戻ってきたのなら、問題ないのかもしれない。

 不安な気持ちはまだ残っているが、このまま引きこもっていても退屈だし、本当に転生したというのなら、新しい世界がどんな場所なのか興味がある。


 …でも……。


 不安と関心が頭の中でグルグルと巡っていると、一条は首を傾げて口を開く。

「私はさっきそれで戻って来れたし、問題ないと思うけど。怖いなら手でも握っててあげようか」

「だ、誰がっ……!」

 誰が怖いものか、と怒鳴ろうとして一瞬口を閉ざし、少し考えてから口を開く。

「いや、そうだね。さっきあんたの手を握った瞬間にあたしの声があんたに届いたみたいだし、そうしてもらった方が何か問題があった時に助かるかもしれない」

「分かった」

 一条はそう言って頷くと、読みかけのマンガを本棚に戻して立ち上がる。と同時に、あたしは恐る恐る椅子へ向き合い、緊張を紛らわすようにふぅ、っと大きく息を吐いた。


 椅子へと歩み寄り、手すりをなぞるようにそっと触れる。

「……じゃあ、ちょっと、見てくる」

「うん」

 緊張のあまり言葉が途切れるあたしをよそに、なんてことないかのように頷き、あたしの左手を握る一条。不安などまるで感じていないような態度に、緊張しているこちらが愚かに思えてきてしまう。だが、そんな一条の様子にあたしの肩の力は抜けて、少し気が楽になった。


 左手に感じる一条の手の温もりに少し勇気が出て、あたしは椅子に慎重に腰掛ける。

 途端、目の前の景色が一気に切り替わった。



 見覚えのない、古い木目の天井。

 いや、違う。間接的には、見た。あの大きなモニターが、最初に映した景色だ。

 どうやら成功したらしい。辺りの様子を確認するため、辺りを見回そうとしたが、上手く首が動かない。まだ首が座っていないらしい。何とか動く両手を動かし、自分の顔の前に掲げて手を見る。


 もみじの葉のような、小さくて赤い手のひら。短い指。まさしく赤子そのもの。

「…あぁう……」

 言葉にならない舌足らずな声。

 流石に受け入れざるを得ない。

 あたしは、あたしは本当に、生まれ変わったのだろう。


 諦めるように、大きく息を吐き出す。先程散々泣いたからか、もうあの悲しいような恐ろしいような痛みはない。ただ驚くほどに淡々と、淡々と受け止めることができていた。

(…一条、いる?)

 我ながら情けなくなるほどか弱い声で心の中でそう尋ねると、


 ――うん、いるよ〜。


 と、呑気な声が返ってくる。

 あまりの呑気さに、あたしは今度はホッと安堵のため息を漏らした。


 とその時。誰かがこちらに近づいてくる気配を感じて、あたしはビクッと身体を震わせる。が、すぐに気配の正体に気付いた。

 アメジストの髪に、はちみつ色の瞳。優しげな表情と焼きたてのパンのような甘い香りの若い女。

 《お母さん》、だ。

 女はあたしの顔を見ると、ニコッと微笑む。


「カリーナちゃん、そろそろお腹空いたかな?」

 優しい声。

 言われてから、考える。そういえば、あの空間にいる間は空腹を感じることはなかった。けれど、今はどうだろうか。そう考えた途端、くぅ、と腹の虫が小さな鳴き声を上げた。


 どうやらあの場所にいる間は空腹を感じることはなく、外に出ると空腹を感じるらしい。

 …外に出る、というよりもこのカリーナという人間の身体を動かしている間は、空腹や痛みといった五感を感じることができるのかもしれない。


 《お母さん》はあたしの腹の虫に気付いたのか、楽しそうに愛おしそうにクスッと笑い、

「ご飯にしようね」

 というと、こちらに手を伸ばしてきた。


 慣れた手つきで抱き上げられ、横抱きされる。そのまま《お母さん》が椅子に座ると、身体が近くなって、甘いパンの香りが強くなり、謎の安堵感が全身を包み込む。思わずホゥ、吐息を漏らした。


 次の瞬間。

 目の前に肌色の丸い塊がぬっ、と現れた。

 見るからに弾力があって、中央あたりにピンク色の突起がある。

 少し、いや、かなり見覚えがあるものだ。


 …おい、まさか。

 おいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおい。


「はいどうぞ、カリーナちゃん」

 満面の笑みで、自身の乳房を突き出してくる。

 いやいやいや。ちょっと待て、待て。

 赤ん坊じゃあるまいし、いい年齢としして母乳なんて…。


 ――今は赤ん坊でしょ。


 頭の中で一条のツッコミが響く。

(あ、そうか)

 そう思ったが、抵抗する気持ちは消えない。

「…あれ?どうしたの?」

 いつまでも吸い付かないあたしカリーナを見て、不思議そうな顔をして尋ねてくる《お母さん》。彼女からしてみれば当然の行動で、まさか腕の中の赤ん坊が羞恥心から母乳を拒んでいるなんて考えもしていない様子だ。


 拒否するように身をよじるも、上手く身体が動かずクネクネと芋虫のようにしか動けない。拒否すればするほど、腹の虫が空腹を訴えて鳴く。


 ――なんで嫌なの?今は赤ちゃんなんだし、しょうがないでしょ。


 そんな一条の言葉が頭に響く。

 それはそうだ。でも、嫌なものは嫌だ。

 確かに、この身体は赤子で、母乳が必要なのは分かる。けれど、心は紛れもなく十六歳なのだ。この年齢としで母親の乳房に吸い付いて、母乳を飲むなんて、想像しただけで羞恥心から発火してしまいそうだ。


(せめて、せめて粉ミルクにして…っ!)

「あうあうあーーーっ!!」

 要望を口にしようと必死に声を発したものの、それは言葉にならない。


 《お母さん》は、こちらが申し訳なくなる困惑し、しかし暴れるあたしを落とさないようにしっかりと抱きしめている。

「どうしよう…何が気に入らないのかな…?」

 うまく伝えられないもどかしさと、増していく空腹感。意図せず目頭が熱くなり、あたしは文字通り赤子のように泣き出した。


「ぅああーーーんっ!!」

 泣きたかったわけじゃない。子供のように駄々をこねたかったわけじゃない。わがままな子供が好きな人間なんていない。


 また親に嫌われる。いないものとして扱われる。

 それが恐ろしくて、さらに涙が止まらなくなる。

 止まって、止まって、お願いだから…!


 その時。

 ガチャッ、と扉が開く音がして、別の部屋から誰かが入ってくる。

 遠くからでも分かる、強いパンの香り。と同時に、低いが優しい男の声が聞こえてくる。


「おーおー、元気に泣いてるなぁ。大丈夫か?レーナ」

「あ…ルイ」

 ルイと呼ばれた男は、ニコニコと楽しそうに笑いながら、こちらに近付いてくる。


 刈り上げられたハシバミ色の短髪に、エメラルドの宝石のような瞳。山のように大きな身体は、一見すると威圧的だが、次の瞬間男はあたしの前に両膝をつき、こちらに両手を伸ばしながら高い声で話しかけてくる。

「おーよしよし、どちたどちた〜?」

 ガタイのいい身体のどこからそんな声が出ているんだというほどの猫撫で声を出しながら、男はレーナと呼ばれた《お母さん》からあたしを受け取り抱き上げる。


 あまりのギャップに困惑しながら、しかし不快感はない。いつの間にか、涙も止まっていた。

 どうやら、このルイという男があたしカリーナの《お父さん》らしい。


 レーナははだけた服を直してから、困ったように頬に手を添え、首を傾げる。

「ただお腹が空いてるってわけじゃないみたいなのよねぇ。体調がよくないのかしら?」

「…うーん、顔色は悪くなさそうだけどなぁ。粉ミルクにしてみるか?俺もこのくらいの時、母乳より粉ミルクの方がよく飲んだっておふくろに聞いたことあるぞ」

「あら、そうなの?じゃあ作ってくるから、その間見ていてくれる?」

「おう」

 レーナは立ち上がると、台所と思われる部屋へと歩いていく。あたしはホッ、とため息を吐いた。


 レーナが座っていた椅子に今度はルイが座り、あたしの腰辺りを手でポンポン、と軽く叩く。明らかに筋肉質な太い腕だが、強すぎず弱すぎない、程よい力加減だった。

「ちょっと待っててなー、カリーナちゃん」

「…あーう」

 ありがとう、と言うつもりで口を開くと、舌足らずな声が漏れる。満足に礼も言えない、と情けない気持ちになったが、ルイはあたしの声にデレ〜、っと顔を緩ませる。


 あたしが覚えている限りで、父親という存在からこんな顔を向けられたことはなかった。

 満足に要求も伝えられず、ただ泣き喚くしかできなかったというのに、嫌な顔ひとつしないどころか、こんなにも真剣に悩み、こちらの気持ちを汲み取ろうとしてくれる。たった一言発しただけなのに、嬉しそうに、愛おしそうに笑いかけてくれる。


「カリーナちゃん、ミルクできたわよ」

 そう言いながらレーナは、哺乳瓶を持って歩み寄り、そのままそれをルイに渡す。ルイは当たり前のようにそれを受け取ると、こちらへ吸い口を向けた。


 ほのかに香る、甘くて優しい香り。恐る恐る吸い口を口に含むと、熱くなく、冷たくもない、ほんのり温かいミルクが流れ込んでくる。

 あたしは安心してそのまま飲み込んだ。

「お!飲んだ飲んだ」

「フフ、あなたの読み通りだったわね」

 嬉しそうにそう声を上げる両親ふたりの顔。


 ミルクのように温かく、優しい空間。

 …あぁ、これが本当の家族、なんだ。


 あたしはようやく確信した。

 ここは、安心できる場所だ。

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