第一章 眠れる遺産
第1話 胎動
錬金術工房から通りへ出たカイナは人並みに揉まれながら市場へ向かった。
カイナの財布には銀貨が5枚だけ。
錬金素材と食料を買うのにギリギリの金額だった。
市場は、湿った空気と人の熱気でごった返している。
下層区にしては活気のある場所だが、飛び交う言葉はいつも同じ。
「乾燥バッタはまた値上がりだ。一袋いくらになるんだか.......」
「瘴気のせいで供給が追いついてないんだよ」
カイナは耳を塞ぎたくなるのをこらえ、母から預かった小さい袋を強く握った。
今日買うのは、特定の触媒となる鉱石と、薄いイモ以外の食料。
ペラペラのイモだけでは母の体が持たない。
「鉱石の欠片......一塊で銀貨3枚、せめて2枚にならないか?」
「悪いな坊主。仕入値が上がってるんだ。2枚じゃ今日の飯も買えねぇよ」
屋台の主人は気の毒そうな顔をしたが、首を横に振った。
結局、カイナは予定していた半分の触媒しか買えなかった。
食料も、乾燥バッタの一番安い袋で諦めるしかなかった。
また無力感が胸に重くのしかかる。
「契約者になれたら、この不平等を壊せるかな......」
それは、昨日と同じ、叶うはずのない願いだった。
市場の裏手、上層区への階段の付け根近くは、人通りが少なくなる。
貴族が住まう高層から投げ捨てられたゴミや不用品が溜まる場所だ。
カイナがそこを通りかかったとき、二人の男が何事か言い争っているのが聞こえた。一人は絹のような上質な服を纏った、上層区の商人らしい男。
もう一人は、襤褸を身につけた下層区のしがない業者だ。
「だから言っただろう!これはただの鉄クズだ!
本来なら焼却処分だが、少しでも金に変えろと命じられたのでな。
それが何を意味するかなど、下層のドブネズミには分かるまいよ!」
商人がそう言い放つと、業者に「鉄クズ」の入った麻袋を投げつけた。
その拍子に袋が弾け、袋の中から、煤けた金属の塊が数個、石畳に転がった。
それは、下層区のどこにでもある錆びた鉄とは全く違った。
一つは、深海の青のような、ドス黒い光沢を放っている。
周囲の湿気を吸い込まず、その表面だけがわずかに澄んで乾いているように見えた。
カイナがその塊を目で追った瞬間、瘴気の匂いが一瞬だけ清々しくなった気がした。
業者が慌てて散らばった残骸を回収しようと手を伸ばした瞬間、
闇に身を隠していた三人組のゴロツキたちが飛び出してきた。
「てめぇら、何してる!」
「うるせぇ!上層のゴミなら俺達のもんだ!」
ごろつきの一人が残骸に手を伸ばした。
しかし、その瞬間、残骸を掴んだゴロツキの顔が苦痛に歪んだ。
「あちっ!なんだこれ!?」
ごろつきは思わず残骸を放り投げた。
残骸は石畳を滑り、カイナの足元で止まった。
カイナは反射的に残骸を拾い上げた。
周囲が唖然とする中、彼の指に、ひんやりとした金属とは違う仄かな熱が伝わる。
そして、脳裏に一瞬、遠い日の風のような感覚があった。
(これが、古代兵器の残骸…?もし、本当に瘴気を浄化する力を持っていたら……)
ゴロツキたちは再び残骸を奪おうとカイナへ向かってきた。
「おい、坊主!それを寄こせ!」
カイナは振り返り、その青い塊を拾い上げた。母の咳が、一瞬でも収まるかもしれない。腹いっぱいの食事に、繋がるかもしれない。
「ごめんなさい……これは僕が拾った!」
カイナは小さな袋を胸に抱え、残骸を握りしめ、路地の奥へと走り出した。
背後でゴロツキたちの荒い息遣いが迫る。
カイナはその小さな体と、下層区の地理の知識だけを頼りに走った。
湿った石畳は滑りやすく、路地裏の木造壁がすぐに迫ってくる。
瘴気を吸い込み、肺が焼けるように熱かったが、立ち止まるわけにはいかない。
握りしめた青い金属片が、微かに熱を帯びていた。
(これを手放したら何も変わらない!母さんを楽にさせてやれない!)
路地を何度も曲がり、廃材の山を乗り越え、進んだ。
ごろつきたちの足音は次第に遠ざかっていった。
彼らもこれ以上は、上層の商人が関わった厄介な代物に深入りしたくないのだろう。
「母さん!」
カイナが扉を乱暴に開け、そのまま中に飛び込むと、リナが驚いて立ち上がった。
「カイナ!?どうしたの、そんなに息を切らして!」
カイナは崩れるようにリナの腕の中に倒れ込んだ。リナは彼の無事を確認し、ホッと息をついた。
「どこか怪我は?全く、市場で何があったっていうんだ...」
リナがそう言いかけたとき、カイナはポケットから金属片を取り出し、荒い息のまま突き出した。
「これ……これを拾ったんだ!ゴロツキに追われて……でも、これがすごく大事なものみたいなんだ!」
残骸の衝撃
リナはカイナから金属片を受け取った。彼女の視線がその深海の青い光沢に触れた瞬間、表情が凍り付いた。安堵の色は一瞬で消え去り、顔から血の気が引いていく。
「カイナ...これ、どこで手に入れたの」
その声は、震えていた。
リナはそのまま金属片を抱きしめ、素早く工房の窓に駆け寄り、隙間なく閉め切った。次に、炉の火を確かめ、煙が外に漏れないように調整した。まるで、誰にもこの工房の中の様子を知られてはならないと言わんばかりの行動だった。
「母さん、どうしたの?これ、ただの鉄くずじゃないんだろ?」
リナは静かに、しかし有無を言わせぬ調子でカイナに言った。
「いいかい、カイナ。これは、ただの鉄くずどころじゃない。これは、この都市に存在してはいけないものなんだ」
リナは金属片を手のひらに載せたまま、カイナの目を見た。
「これは、古代兵器『テラ・ルクス』の残骸よ。地上の瘴気を浄化するために造られた、人類最後の希望だったもの」
カイナの小さな目に、驚愕の光が宿った。
「瘴気を、浄化…?」
「そうよ。瘴気を浄化できるなら、人類は再び地上に戻れる。でも、もし地上に戻れるようになったら、空中都市カリヴァンを支配する貴族たちは、その地位と権力を失うことになる」
リナの言葉は、恐ろしい真実を淡々と語った。
「だから、貴族たちはこの『テラ・ルクス』を完全に破壊し、その存在そのものを歴史から消し去った。この残骸は、彼らが意図的に失われたことにした兵器の欠片なのよ」
「じゃあ……あの商人たちも、貴族の手先で……」
「ええ。処分を命じられた厄介な『ゴミ』だったのよ」
カイナは、その欠片が持つ希望と、それを取り巻く権力の悪意の重さに息を呑んだ。しかし、リナがなぜそこまで詳細に知っているのかという疑問が、頭の中で渦巻いた。
「母さんは、どうしてそんなことを知ってるんだ」
リナは金属片から目を離さず、その表面を指先でなぞった。その仕草には、深い懐かしさと、痛みが混じっていた。
「......私はね、カイナ。かつて、この浄化兵器の研究に関わる組織に、少しだけ関わっていたのよ」
彼女はそれ以上何も語らなかった。だが、その言葉だけで十分だった。
リナは、空中都市カリヴァンの闇を知る、過去を持つ人間なのだ。
そして、その過去が、今、小さな工房に危険な残骸という形で舞い戻ってきた。
リナは顔を上げた。その瞳には、恐怖と、そしてわずかな決意が宿っていた。
「すぐにこれを手放さないと、私たちの命が危ない。彼らは『テラ・ルクス』に関わる人間を決して許さない」
「でも……!」
カイナは訴えかけた。
「これを持っていたら、母さんの咳が少しだけ楽になる気がした。それに、僕が力を持てたら、この街の不公平を......」
「希望」と「安全性」。二つの切実な感情が、小さな工房の中で激しく対立した。
その時、工房の外で、硬質なブーツの足音が、規則正しく響き始めた。下層区の住民が出す生活音ではない。それは、警備兵の巡回だ。しかも、こんな路地裏にまで立ち入ってくるのは、滅多にないことだ。
リナとカイナは、同時に息を詰めた。彼らは、失われたはずの『浄化の欠片』の、微かなエネルギーの予兆を追って来たのだろうか。
外の足音は、二人の工房の扉の前で、ピタリと止まった。
「おい、家主はいるか」
外から聞こえてきたのは、冷たく、威圧的な男の声。下層区の自治隊とは違う、上層区の警備隊特有の、鍛えられた声だった。
リナは顔面蒼白になり、残骸を握りしめているカイナの腕を掴んだ。
「カイナ!早くこれを隠しなさい!彼らは『テラ・ルクス』の微かなエネルギーの残滓を追って来ているんだわ!」
カイナは反射的に残骸をシャツの中に押し込んだ。
熱を帯びた金属が彼の胸に貼りつく。
警備兵が扉を乱暴にノックした。
「失せ物を捜している。確認の必要がある。扉を開けろ」
リナは震える手で、工房の棚から煤けた布を取り出した。
それは、錬金術の材料を保存するための、エネルギーの拡散を防ぐ加工がされた古い布だった。
リナはその布をカイナに渡し、残骸を包むように目で命じた。
リナは意を決し、扉を開けた。
そこに立っていたのは、上層区の紋章が入った黒い制服に身を包んだ、顔に傷のある警備隊の隊員だった。
「ご苦労様です、警備隊の方。何かあったのでしょうか」
リナは努めて冷静を装ったが、警備隊員はリナを無視し、冷たい視線で小さな工房を値踏みするように見渡した。
「この周辺で、不審なエネルギーの予兆が確認された。貴様のようなドブネズミには分からんだろうが、『厄介なもの』が失われた可能性が高い。貴様の工房を捜索する」
「厄介なもの?ここはただの錬金術の作業場です!貴族様方の厄介事など、この下層にはありませんよ!」
リナはあえて下層民の不満を露わにして抵抗した。警備兵は鼻を鳴らし、雑に棚や道具を蹴散らしながら捜索する。
カイナは、残骸を包んだ布の塊を抱きしめ、炉の陰に隠れていた。警備兵のブーツが、すぐそばの石畳を鳴らす。
(頼む、見つけるな。見つけないでくれ…!)
彼らが探しているのは、「浄化」という希望を否定し、彼らの支配を確固たるものにするための証拠だ。
警備兵は、炉の周りの空気を何度も確認したが、リナが施した処置と、残骸が放つエネルギーが極めて微弱だったため、何も見つけられなかった。
「チッ。何もねえな。見つけ次第、すぐに通報しろ。わかったな」
警備兵は威圧的な視線をリナに向け、扉を乱暴に閉めて去っていった。
リナは崩れ落ち、扉にもたれかかった。恐怖に打ち勝った安堵と疲労で、彼女の体は震えていた。
「助かった.......本当に、もう捨てなさい、カイナ。今すぐ、どこか遠くに......」
カイナは隠し場所から出てきた。彼の顔には、恐怖に加えて、一つの明確な感情が浮かんでいた。
彼は、残骸を包む布をゆっくりと開き、深海の青い欠片を手のひらに載せた。残骸は、微かに、そして優しく、彼の指先を温めていた。
「捨てないよ、母さん」
リナは顔を上げた。「何を言ってるんだい、カイナ!死ぬ気かい!」
「母さんは、言っただろう。これが瘴気を浄化する兵器の欠片だって」
カイナは、外へ続く扉の方へ視線を向けた。彼の瞳には、上層区の塔を見上げた時のような無力な憧れはもうなかった。そこにあるのは、小さくとも確かな炎だ。
「この欠片は、母さんの咳を止める力がある。そして、この街の不公平を終わらせる『真の希望』なのかもしれない。僕が力を手に入れるための、最初の手がかりだ」
リナは、口を開きかけたが、何も言えなかった。彼女は、息子の中にある強すぎる正義感と、それを実現させるための危険な欠片を見つめるしかなかった。
カイナは決意を固めた。
「僕は、この欠片を使って、貴族たちが隠した真実を暴く。そして、『契約者』になる。母さんを、この街を、腹一杯食べさせられるように変えてみせる」
その夜、空中都市カリヴァンが、その支配者たちが恐れた希望の欠片が、下層区の小さな工房に隠された。
そして、その欠片を握りしめた少年は、世界の運命を、その小さな手で握りしめたのだった。
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