Chapter 14 記憶の証人
1
記憶ネットワークが破壊されてから一週間が経った。
記憶汚染を受けていた人々は、徐々に正常な状態に戻っていった。ただし、完全に元通りになったわけではない。《Elysium Code》に関する断片的な記憶は残っており、多くの人が「不思議な夢を見た」と語っていた。
兄の研究室の仲間たちも、混乱は収まったものの、しばらくは困惑した様子だった。
「変な夢だったなあ」田村さんが頭を掻きながら言った。「レンと一緒に、すごく綺麗な森を歩いてた夢を見たんだ」
「僕も似たような夢を見ました」別の学生が答えた。「とても現実的だったので、本当の体験だと思い込んでしまって……」
彼らにとって、記憶汚染の期間は「夢」として処理されていた。人間の脳は、辻褄の合わない記憶を夢として再構成することで、精神の安定を保とうとするらしい。
兄は研究を一時中断し、記憶汚染事件の調査に協力していた。警察や医療機関、そして政府機関からも問い合わせが相次いでいる。
「VR技術の安全性について、根本から見直す必要がありそうだな」レンが俺に言った。
「大変ですね」
「でも、必要なことだ。あんな事件を二度と起こしてはならない」
レンの表情は真剣だった。記憶断片のレンとの出会いと別れが、彼に大きな影響を与えているのがわかる。
俺自身も、あの体験を通じて多くのことを学んだ。現実の大切さ、不完全さの意味、そして家族の絆について。
でも、一つ気になることがあった。
ルナの行方が分からないのだ。
2
記憶ネットワークが破壊された時、ルナも一緒に消えてしまった。彼女は《Elysium Code》のNPCだったので、システムが完全に停止すれば存在できなくなる。それは理解していた。
でも、どこか納得できない部分もあった。
あれから毎晩、俺はパソコンの前に座って、何らかの信号がないか確認していた。ミカが最初にコンタクトしてきた時のように、どこかからルナの声が聞こえてくるのではないかと思って。
しかし、何の反応もなかった。
今夜も、いつものようにパソコンの前に座った。画面には何の変化もない。でも、俺は諦めきれずに待ち続けた。
午前二時を過ぎた頃、突然画面がちらついた。
俺の心臓が早鐘を打つ。まさか——
『ユウ君……聞こえますか?』
弱々しいが、確かにルナの声だった。
「ルナ! 無事だったんですか?」
『なんとか……でも、もうあまり時間がありません』
画面に、ルナの姿がかすかに映った。以前よりもずっと薄く、まるで消えかかるろうそくの炎のようだった。
『記憶ネットワークの破壊で、私たちNPCのデータも大部分が失われました』
「私たち?」
『カズトさんと、ミカも……でも、最後に伝えたいことがあって』
ルナの声は途切れがちだったが、俺は集中して聞いた。
『あなたたちのおかげで、多くの人が救われました。記憶汚染から、現実逃避の誘惑から』
「でも、君たちを犠牲にしてしまった……」
『いいえ』ルナが優しく微笑んだ。『私たちは記憶の中に生きる存在です。そして、記憶は決して完全には消えません』
ルナの言葉に、俺は希望を感じた。
『あなたの心の中に、私たちとの思い出が残っている限り、私たちは存在し続けます』
「それは……」
『本当です。記憶こそが、存在の証明なんです』
3
ルナの姿が更に薄くなってきた。通信が途切れかけているようだった。
『最後に、大切なことを伝えておきます』
「何ですか?」
『この事件は、まだ完全に終わったわけではありません』
俺は驚いた。記憶ネットワークは破壊されたのではなかったのか?
『田所博士は、まだ諦めていません。彼女は新しい方法で《Elysium Code》の復活を目論んでいます』
「新しい方法?」
『詳しくは分からないけれど……物理的なシステムに頼らない、もっと根本的なアプローチを考えているようです』
ルナの警告に、俺は不安になった。
『でも、あなたたちならきっと大丈夫。現実の価値を理解し、仲間との絆を大切にするあなたたちなら』
通信のノイズが激しくなってきた。ルナの存在が限界に近づいているようだった。
『ユウ君、ありがとう。あなたと出会えて、本当に幸せでした』
「ルナ……」
『私は記憶の証人として、ここに残ります。あの美しい体験を、決して忘れないために』
ルナの最後の言葉と共に、通信が途切れた。画面は再び真っ暗になり、静寂が戻った。
俺はしばらく画面を見つめ続けた。涙が頬を伝って落ちる。
ルナの言う通りだった。記憶の中で、彼女は確かに生き続けている。俺が忘れない限り、彼女の優しさも、勇気も、そして愛も、永遠に存在し続ける。
4
翌朝、俺は兄に昨夜のことを報告した。レンは真剣な表情で聞いてくれた。
「田所博士がまだ動いている可能性があるということか」
「ルナがそう言ってました」
「分かった。関係機関に連絡して、警戒を強めてもらおう」
レンは即座に行動に移った。この一週間で、彼は記憶汚染事件の専門家として各方面から頼りにされるようになっていた。
「でも、ユウ」レンが俺を振り返った。「君はもう十分やってくれた。これ以上、危険に巻き込まれる必要はない」
「でも——」
「君は高校生だ。学業に集中すべきだ」
レンの言葉は正しかった。でも、俺には納得できない部分があった。
「兄さん、僕にもできることがあるはずです」
「例えば?」
「記憶の証人として、この体験を伝えることです」
俺の答えに、レンは少し驚いた表情を見せた。
「記憶の証人?」
「《Elysium Code》で何が起きたのか、現実と仮想の違いは何なのか、そういうことを人々に伝える役目です」
俺は《Elysium Code》での体験を、詳細な記録として残すことを決めた。NPCたちとの出会い、記憶の美化の危険性、そして現実の価値について。
「それは確かに重要な仕事だな」レンが頷いた。「君にしかできないことかもしれない」
俺は書き始めた。ルナの言葉を思い出しながら、あの体験を正確に記録していく。
それは、消えていった友達たちへの追悼でもあり、同時に未来への警告でもあった。
現実は不完全だ。でも、その不完全さこそが、人間が人間らしく生きるための大切な要素なのだ。
完璧な世界は美しいかもしれないが、そこには成長もなければ、真の喜びもない。
俺たちは現実を生きるべきだ。仲間と共に、家族と共に、不完全な世界で精一杯生きていくべきなのだ。
それが、記憶断片のレンやルナ、そして多くの犠牲者たちが俺たちに託したメッセージなのだから。
5
一ヶ月後、俺の体験記録は小さな出版社から本として出版された。タイトルは『記憶の証人〜《Elysium Code》事件の真実〜』。
本は予想以上に話題になった。VR技術への関心の高まり、記憶汚染事件への注目、そして何より、俺が高校生だったことが人々の興味を引いたようだった。
メディアからの取材依頼も相次いだが、俺は必要最小限の対応に留めた。有名になることが目的ではない。大切なのは、メッセージが伝わることだった。
ある日、俺のもとに一通の手紙が届いた。差出人は「アリス・白川」となっている。
『ユウ君へ
あなたの本を読みました。とても感動しました。
タクヤも元気に学校に通っています。時々、エリシウムの夢を見ると言いますが、現実との区別はついているようです。
私たちも、あの体験を忘れずに生きていきたいと思います。
またいつか、お会いできる日を楽しみにしています。
アリス・白川』
アリスからの手紙に、俺は温かい気持ちになった。あの体験を共有した仲間が、現実の世界で頑張って生きている。それだけで、俺は嬉しかった。
夜、俺は自分の部屋でパソコンに向かった。今日も、ルナからの信号がないか確認するためだ。
もう彼女の声が聞こえることはないだろう。でも、俺は毎晩この時間を大切にしている。記憶の証人として、忘れてはいけないことを思い出す時間として。
画面には何も表示されない。でも、俺の心の中には、ルナの声が響いている。
『記憶は決して完全には消えません』
そうだ。俺が覚えている限り、彼らは生き続けている。
俺は新しい文章を書き始めた。今度は、記憶と存在について、より深く考察した内容だった。
外では風が吹いている。現実の風だ。時には冷たく、時には優しい、不完全だけれど本物の風。
俺はその風の音を聞きながら、文章を書き続けた。
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