Chapter 12 拡散する記憶

1


 研究室から脱出した俺たちは、東京の夜の街に出た。

 時刻は午後九時を回っている。ネオンがきらめく街並みは、いつもと変わらない光景に見えた。でも、俺にはその光がエリシウムの幻想的な輝きと重なって見えた。


 記憶汚染の影響は、俺にも確実に及んでいるようだった。


「大丈夫?」ルナが心配そうに尋ねてきた。

「ええ、なんとか」俺が答える。「でも、さっきの博士の言葉が気になります」


 記憶断片のレンは黙って歩いている。先ほどの研究室での出来事で、彼の中の記憶がさらに統合されたのか、表情がより人間らしくなっていた。


「記憶汚染の拡散って、具体的にどんな状況なんでしょう?」俺がルナに尋ねた。

「実際に見てみましょう」


 ルナが向かったのは、繁華街の中心部だった。そこには夜でも多くの人が行き交っている。一見、普通の光景に見えたが——


「あそこを見て」ルナが指差した。


 歩道の向こうで、サラリーマン風の男性がスマートフォンを見ながら独り言を言っている。


「ルナちゃん、今日の森は綺麗だったね。また一緒に散歩しよう」


 男性は誰もいない空中に向かって話しかけている。通りすがりの人々は彼を避けるように歩いているが、誰も特に気に留めていない。まるで、こういう光景が日常的になっているかのように。


「彼はルナの記憶を持っているのね」ルナが悲しそうに呟いた。

「あなたの記憶が、赤の他人に?」

「そういうこと。《Elysium Code》での体験が、何らかの経路で他の人の記憶に混入している」


 俺たちはさらに街を歩いた。すると、次々と異常な光景が目に入ってきた。


 カフェで、存在しない友人について語る女子大生。

 コンビニで、エリシウムの通貨で支払おうとする老人。

 公園で、見えない相手とゲームをしている子供。


 みんな、《Elysium Code》関連の記憶を持っているようだった。


「これは……深刻ですね」俺が呟いた。


2


「もっと深刻なのは、記憶の混在よ」ルナが説明した。

「混在?」

「複数の人の記憶が一人の中で混じり合っている現象。自分が誰なのか、わからなくなってしまうの」


 ルナの案内で、俺たちは住宅街の一角にある小さな病院を訪れた。精神科専門の医療施設らしい。


「この病院に、記憶混在の患者が数名入院している」記憶断片のレンが説明した。「僕の記憶ネットワークから得た情報だ」


 記憶ネットワーク? レンは様々な記憶断片とつながっているのか。


 病院の窓越しに、病室を覗くことができた。そこには十代後半の女性が座っている。彼女は看護師と話していたが、その内容が奇妙だった。


「私はアリスです。弟のタクヤを探しているんです。でも、私は同時にミカでもあって、十年前に死んだはずなのに……」


 女性の言葉に、俺は衝撃を受けた。アリスとミカの記憶が混在している?


「あそこの男性も見て」ルナが別の病室を指差した。


 そこには中年の男性がいて、彼は自分のことを「カズト」と名乗っていた。でも、話す内容は明らかに人間の記憶ではない。NPCとしての体験を、まるで自分の人生であるかのように語っている。


「これは……」俺は言葉を失った。

「記憶汚染の最終段階よ」ルナが深刻な顔で説明した。「このまま拡散が続けば、現実と仮想の区別がつかない人がどんどん増える」


「治療法はないんですか?」

「今のところ、見つかっていない。田所博士のような研究者が解決策を見つけるか、それとも——」


 ルナが言いかけた時、記憶断片のレンが突然苦しそうに頭を押さえた。


「どうしたの?」俺が駆け寄る。

「記憶ネットワークに……異常が……」


 レンの様子がおかしい。体が時々半透明になり、存在が不安定になっている。


「何かが記憶の流れを操作している」レンが苦しそうに言った。「田所博士……いや、それより大きな何かが……」


 その時、俺の携帯電話が鳴った。画面には「兄」の文字が表示されている。本物のレンからの着信だ。


「もしもし、ユウ?」電話の向こうの声は、確かに兄のものだった。

「兄さん、どうしたの?」

「大学で変なことが起きてるんだ。研究室の仲間が、みんな《Elysium Code》の話をしている」


 俺の血の気が引いた。記憶汚染は、大学にまで及んでいるのか。


「みんな、あのゲームをプレイしたことがないはずなのに、詳細な体験談を語ってる。特に、NPCのレンについて……」


 NPCレンについて?


「どんな話を?」

「『レン君はとても優しい人だった』とか『一緒に記憶の森を歩いた』とか……まるで僕と会ったことがあるような話をするんだ」


 横で聞いていた記憶断片のレンが、さらに苦しそうな表情になった。


「兄さん、今すぐそこから離れて」俺が言った。

「え? なぜ——」

「説明は後で。とにかく、一人になって。誰とも《Elysium Code》の話をしちゃダメ」


 電話を切ると、記憶断片のレンが俺を見つめた。


「僕の記憶が、現実世界の人々に感染している」

「感染?」

「記憶は情報だ。そして情報は伝播する。特に強い感情を伴った記憶は、人から人へと広がりやすい」


 レンの説明に、俺は恐ろしい可能性に気づいた。


「もしかして、記憶汚染は偶然じゃない?」

「そうだ」レンが頷いた。「誰かが意図的に記憶を拡散させている」


3


「でも、なぜ?」俺が尋ねた。「記憶を拡散させて、何の利益があるんですか?」


 ルナが答えた。


「《Elysium Code》の復活よ。十分な数の人が仮想世界の記憶を共有すれば、物理的なシステムなしでも、集団意識の中で世界を再構築できる」


 集団意識の中での世界再構築? そんなことが可能なのか?


「人間の脳は、強力な情報処理装置よ」ルナが続けた。「数千人、数万人の脳が同じ記憶を共有すれば、それは一つの巨大なコンピュータネットワークになる」


「つまり、人間の脳を使って《Elysium Code》を復活させようとしている?」

「その通り」


 記憶断片のレンが、ようやく安定した様子で立ち上がった。


「記憶ネットワークから得た情報によると、既に全国で数千人が記憶汚染の影響を受けている」

「数千人……」


 想像以上の規模だった。


「そして、その中心となる『核』が存在する」レンが続けた。「最も強力で安定した記憶を持つ存在が、ネットワーク全体をコントロールしている」


「その『核』って何ですか?」

「恐らく……榊博士の思念体の残留データだ」


 榊博士? でも、彼はシステムと共に消えたはずでは?


「システムは破壊されたが、博士の意識データの一部が記憶ネットワークに残っている可能性がある」レンが説明した。「そして、それが田所博士によって利用されている」


 俺は全体像が見えてきた。田所博士は榊博士の残留データを使って、人間の脳を媒体とした新しい《Elysium Code》を構築しようとしている。


「阻止する方法はありますか?」

「記憶ネットワークの『核』を破壊するしかない」レンが答えた。「でも、それは——」


 レンの表情が暗くなった。


「それは、僕も消えることを意味する」


 俺は愕然とした。記憶断片のレンも、そのネットワークの一部なのか。


「他に方法は?」

「今のところ、見つからない」


 ルナが俺の手を握った。


「でも、諦めるのはまだ早いわ。きっと他にも方法があるはず」


 その時、街の向こうから奇妙な光が立ち上った。夜空に、オーロラのような虹色の光が踊っている。


「あれは……」俺が呟いた。

「記憶の可視化現象」レンが答えた。「ネットワークの活動が活発になっている証拠だ」


 光はどんどん強くなり、街全体を包み込んでいく。そして、空中に巨大な映像が浮かび上がった。


 エリシウムの風景だった。美しい草原、光る森、そして中央に立つ巨大な城。


「《Elysium Code》が……復活している」ルナが震え声で呟いた。


 俺たちは空を見上げた。そこには、もう一つの世界が現実に重なって存在していた。


 仮想と現実の境界が、完全に崩壊し始めている。


4


 街の人々が空を見上げ始めた。でも、彼らの反応は俺たちとは違っていた。


「あ、エリシウムが見える!」

「やっと帰れる場所が現れた!」

「あそこが僕たちの本当の家だ!」


 記憶汚染を受けた人々が、歓喜の声を上げている。彼らにとって、エリシウムは現実よりも親しみのある世界になっているのだ。


「まずいわね」ルナが呟いた。「このままでは、みんなエリシウムの世界に意識を奪われてしまう」


 実際、街の人々が次々と立ち止まり、空の映像に見入り始めている。まるで催眠術にかかったように、現実への関心を失っているようだった。


「兄さんの安全を確認しないと」俺が言った。


 俺は再び本物のレンに電話をかけた。しかし、応答がない。大学にいるはずなのに——


「記憶断片のレンさん、現実のレンの居場所がわかりますか?」

「少し待って……」


 記憶断片のレンが目を閉じ、記憶ネットワークにアクセスしているようだった。


「見つけた。彼は大学の研究室にいる。でも——」

「でも?」

「周りの人々が全員、記憶汚染の影響を受けている。彼一人だけが正常な状態だ」


 つまり、兄は記憶汚染の海の中で孤立している状態なのか。


「急いで助けに行きましょう」俺が提案した。

「危険すぎる」ルナが反対した。「記憶汚染が濃密なエリアに入れば、あなたも影響を受けるかもしれない」


「でも、兄さんを一人にはしておけません」


 俺の決意を見て、記憶断片のレンが頷いた。


「僕も行く。現実のレンを守ることは、僕の存在意義の一つだから」


 空の映像がさらに鮮明になってきた。エリシウムの世界が、まるで手の届く場所にあるかのように見える。街の人々の多くが、もはや現実世界に関心を示していない。


「時間がないわね」ルナが焦った表情で言った。「早く行きましょう」


 俺たちは大学に向かって走り出した。

 背後では、虹色の光がますます強くなり、エリシウムの世界が現実に浸食していく。


 果たして俺たちは、この記憶の侵食を止めることができるのか?

 そして、本物の兄を無事に守ることができるのか?


 不安を抱えながら、俺たちは夜の街を駆け抜けた。


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