××が消えたあの日から。
腐敗
プロローグ 欠けた始点
朝の校庭は、肺の奥まで現れるように澄んでいた。
新しい制服の襟元に風が指を差し入れ、糊の匂いと湿った土の匂いが、まるでまだ名前のない季節の端を縫い合わせる。
成瀬美緒は、掲示板に貼られたクラス分けの紙を見上げた。紙は薄く波打ち、光を透かし、そこに並ぶ文字列は、どれも青い空と同じ硬度で静かに漂っている。
――二年C組。
自分の名前の右隣、見知らぬ女子の名前、また女子、また女子。視線を滑らせても、女子の音だけが指に触れる。当たり前のことのように、誰もそれを不思議がらない。
「美緒、いた。移動しよ」
佐藤綾乃が、日差しを跳ね返すような笑顔で手を振る。
目尻に小さなほくろ。グロスの匂い。美緒はうなずき、二人で昇降口へ向かう。
階段を上がるたび、靴底が軽く軋む。
廊下の窓はよく磨かれ、風の白いカーテンを持ち上げて落とした。
通りすぎる教室の黒板に書かれた「歓迎 二年生」の文字が、少しだけ古びた白でまぶしい。
教室に入ると、机はきちんと均等に並び、ひとつひとつに椅子がぶら下がっている。美緒は出席番号が印字された名札を手に取った。
――18。
左右を見る。
17の机と19の机が、針で留めたように正確に配置されている。
「番号、ぴったりだね」
綾乃が言い、机の角を指で撫でる。
「……うん」
美緒の返事は、口の中でほどけた。
ぴったり。そう、すべてが、ぴったりだ。
朝礼が始まり、担任の片桐先生が点呼を取る。よく通る声が、ひとつ名前を呼ぶたびに教室の空気を一度だけ震わせ、すぐ元に戻す。
美緒は耳の奥で、自分の心音が拍子を合わせるのを聞く。
窓の向こうでは運動場の光を飲み、黒板の上の時計は、秒針が進むたび、微かな咳払いをする。
――17、はい。
――18、成瀬。
「はい」
自分の声が、美緒の喉から出て、きれいに世界へ収まる。
そのとき、どこか遠く。
――壁の裏側の薄い紙みたいなところから、音がした気がした。
み、て、る、――
舌足らずな、かすれた、幼い呼び声。
美緒は無意識に振り返る。誰もこちらを見ていない。綾乃は前を向いたまま、背筋を正しく伸ばしている。
「どうかしました?」と片桐先生。
「いえ、すみません」
声を出した瞬間、そのかすかな音は、濡れた砂みたいに崩れて消えた。
午前の授業は、鉛筆の匂いと、チョークの粉で満ちていった。
英語のリスニング、現代文の朗読、科学の式。
最初の一日を埋めるのにふさわしい、滑らかな項目たち。
美緒はノートを取りながら、ページの余白に指先を当てる。そこは冷たく、ほんの少し、紙ではないものの温度がした。
「ねえ、美緒」
休み時間、綾乃が机の上に身を乗り出す。
「夜、寮の見学ツアーがあるって。先輩が案内してくれるやつ。行こ」
「うん。……あの寮、古いよね」
「うん、かわいい。塔みたいなとこあるし。写真いっぱい撮ろ」
日が傾くにつれ、学校の建物が色を変えた。白はクリーム色に、銀は薄い薔薇色に。放課後のチャイムが鳴る頃、吹奏楽部の音が遠くから流れてきて、美緒の耳朶の縁を柔らかく噛んだ。
集合場所の中庭には、同じ制服の女子ばかりが円を描いて立っている。先輩が点呼を取り、番号に並ぶように促す。
――ぴったりそろう。
美緒は、並ぶという行為そのものが、今日という日のどこか遠い合図と繋がっているような気がした。
寮は校舎から離れて柳並木を抜けて五分。夕暮れが一番似合う、深い色の石造り。
正面の扉には鉄の装飾が施され、扉を押すと、古い時間が息を吐くみたいに、冷たく甘い匂いが押し寄せる。
玄関ホールは高い天井で、左右に長い廊下が伸び、壁には油彩の肖像画。
見知らぬ少女たちの視線が、ガラスの奥でわずかに濡れている。
「四階は立ち入り禁止ね。塔は危ないから」
案内の先輩が言う。
声はやわらかいが、注意の部分だけ針金のように固い。
「このホールに飾ってあるのは、創立以来の集合写真。ここの歴史みたいなもの」
先輩が指し示した壁面には、黒い額縁が均等な間隔で並び、どの額にも、同じ制服の少女たちが整列して微笑んでいる。
美緒は、ひとつの額の前で足を止めた。
写真の中の彼女たちは、みな整った姿勢で、髪の艶まで見分けられるほど鮮明だ。
けれど、列の隙間に、指の腹ほどの楕円が、いくつか。
紙の表面にだけ浮いているような、黒い、なめらかな塗料。
誰かの顔があったはずの位置に、その楕円は、音のない窓のように、ぽっかりと開いていた。
「これ、前から、こう……でした?」
綾乃が美緒の肩にあごを乗せて首を傾げる。
「あ、これ修復途中のやつだって。先輩が言ってた、たしか」
「修復?」
「ほら、古いと色が抜けちゃうから。黒で押さえとくんだって」
先輩も軽く笑ってうなずく。
「昔の薬品の問題でね。心配しないで」
一歩だけ離れて、美緒はもう一度、写真全体を見渡した。
黒い楕円は、目の慣れを拒む。視線を当てるたび、そこだけ温度が変わる。
澪は唇の内側を噛んだ。歯に触れて、冷たい金属の味がごく微かにする。
黒い楕円は、顔の大きさではなかった。もっと小さい。けれど、どうしてだろう。
そこに、はっきりと「声」の形が見える気がした。
み、て、る——
舌先で転がせばすぐ壊れてしまうほどの、ひび割れた音の破片。
見学は、規則正しく進んだ。寝具の扱い、消灯時間、朝の点呼。洗面所には白い陶器の列が続き、鏡は均一に澄んでいる。
三階の廊下を曲がると、部屋番号の真鍮のプレートが規則正しく光り、足音は板を踏むたび、低く、やさしく、誰かの喉の奥で鳴る猫のように響いた。
——301、302、303、
美緒は立ち止まる。
——305。
綾乃がくるりと振り返る。
「なに?」
「……いま、304、飛んだよね」
「最初からないよ」
綾乃はそう言って、笑う。
笑い方はいつも通りなのに、言葉だけが、少し遅れて美緒に届いた。
先輩が振り向き、柔らかく首をかしげる。
「ここは奇数側だから。偶数は反対側よ」
なるほど、と思いかけて、澪は反対の壁を見る。
——302、
そして、空白。
次のプレートは、
——306。
風が廊下を抜け、真鍮が、一瞬だけ、声を持ったように見えた。
数字は、数字にしか見えない。
けれど、その間に挟まれた「ないもの」は、美緒の脳のどこかに、ぬかるみのような印を残していく。
その夜、寝る前に、寮母の片桐環が各部屋を見回りに来た。
先生と同じ苗字だが、遠縁かもしれない。
環は低く穏やかな声で、消灯時間を告げ、鍵の音を確かめる。
「なにか困ったことがあったら、すぐにベルを鳴らして」
柔らかい手の甲に、薄い傷が一筋走っている。細い花の蔓のように。
去っていく背中に「おやすみなさい」と声をかけ、美緒はカーテンをほんの少し開く。
塔の上の窓が、夜の空気に濡れていた。月はなく、雲は薄く、校庭の砂は、誰にも踏まれず、ただ白い。
ベッドに横たわると、木枠のきしみが耳の形を記憶する。
隣のベッドには綾乃。規則正しい呼吸。
美緒は目を閉じ、胸の上に手を置く。
ぴったり。
今日という日は、すべてが、ぴったりと、枠の中に収まっていた。
それなのに、その枠の内側が、ときどき、わずかに呼吸する。
まるで、誰かがそこにいるみたいに。
耳の裏で、小さな音がした。
み、て、——
美緒は目を開けた。
廊下のどこかで、真鍮の数字が、指先でそっと撫でられたように、かすかに鳴った。
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