第二章 三話 裁きの炎

広場に降り立った大天使ウリエルの存在は、それだけで空気を圧し潰した。

 朱に揺れる長い髪、黄金の瞳、燃え盛る翼。手にした炎剣をわずかに傾けるだけで、熱風が奔流となり石畳を灼く。周囲の家屋の窓ガラスが、見えない圧にひとりでに悲鳴を上げてひび割れた。


「……来るぞ!」

 カイムが濡羽色の剣を構える。ルーカスは両掌を前に突き出し、クリスは仲間の一歩前で障壁を編み上げた。薄い膜のように見えるが、触れた瞬間に岩にも等しい抵抗を生む結界だ。


 ウリエルの唇がわずかに開く。

 その瞬間、空が灼け落ちた。

 炎の矢が、一点の迷いもなく、一条の隙もなく、雨のように落ちる。


「はぁっ!」

 クリスが神性を注ぎ込む。半透明の壁が何重にも折り重なり、紅蓮の雨を受け止めた。矢が触れるたび、光の膜に火花が散り、膜の層が薄紙のように剥がれていく。

 連続衝撃。耳の奥がきいんと鳴り、喉の奥に鉄の味が溜まる。


「クリス!」

 矢が障壁の継ぎ目を縫い、横から差し込んだ。カイムは漆黒の刃で叩き落とす。爆ぜた熱が腕に絡みつき、皮膚が焦げる匂いが立つ。

 さらに三本。四本。矢は狙いを変えず、まるで“決まっている軌道”をなぞるように落ち続けた。


 ひと呼吸分の静寂――そして、白。

「――光の裁き」

 ウリエルの剣先が天を指し、直線の白炎が奔る。

 地面が、音を置き去りにして裂けた。石畳が溶け、地下の土が黒く炭化する。一直線に刻まれた白い傷が、数拍遅れて爆ぜ、粉塵の壁が広がった。


「くっ……!」

 ルーカスは両手を交差させるように振り、白炎の軌道をわずかに撓める。炎は“ほどける”が、光は“逸らす”しかない。肘から先が痺れ、膝が笑う。

 衝撃波に煽られ、三人は各々違う方向へ転がった。石片が頬を裂き、血が熱に蒸されてすぐ乾く。


 広場の周縁、人影が幾つも走る。生き残った市民たちが悲鳴をあげ、扉という扉が乱暴に閉じられ、木戸に閂が落ちる。閉ざされた窓の向こうで、幼い泣き声がひとつ震え、すぐ止んだ。


「立てる?」

 クリスがしゃがみ込んだルーカスに声をかける。

「……あぁ!」

 ルーカスは短く吐き捨てると、脚へ魔力を込めた。

 失ったものを補うように、神性の光が脛から足先へ流れ、震える両足を無理やり支えに変える。

 胸は荒く上下し、掌は小刻みに震えていたが、それでも彼は立った。


 ウリエルは歩く。

 それだけで、熱の層が押し寄せ、空気がきしむ。

 炎剣が水平にひと薙ぎ――その軌跡から、扇状に細かい火線が飛ぶ。矢ほどの威力はないが、数が多い。嫌らしい牽制だ。


 カイムは半身で濡羽色の剣を立て、火線の群れを斜めに受けて流した。表面を撫でる熱が、鎧の隙間に潜り込もうとする。首筋が炙られ、視界がわずかに滲む。


「クリス、後ろへ二歩。面じゃなく、角で受ける」

「了解……!」


 クリスは障壁の角を作った。面で受け続ければ総圧で砕かれる。角で受け、滑らせ、殺す。

 次の矢の雨――

 彼女は決断する。掌にさらに神性を込め、障壁の表面を鏡面のように硬化させた。

「返す――!」

 降り注いだ炎矢の一群が、角で弾かれ、反転する。矢は軌道をそのまま逆走し、ウリエルの翼の下へ散った。

 反射は通った。だが、一瞬でクリスの膝が抜ける。肺がきしみ、視界に黒点が散った。

「はぁ……っ……! 乱用は……無理……!」


 ウリエルは顔色ひとつ変えない。反射された炎矢は翼の外周で淡く解れ、灰になる前に消失した。

 黄金の瞳が、ゆっくりと人間たちの位置をなぞる。獲物の動きではない。秩序の確認だ。


 光の裁きが二条、続けざまに走る。

 一本はクリスの障壁で角受け、半分だけ流し、壁面に直撃して石灰が雪のように舞った。

 もう一本はルーカスが体をひねって右へ撓め、白炎の端が肩を掠めた。布が焼け、皮膚が破れ、熱痛が後を引く。


 カイムはウリエルに間合いを詰めることすらできない。漆黒の刃を低く構え、斜めに進むが、数歩で炎剣の牽制が飛ぶ。

 遠距離はないはずの天使たち――だが、大天使は別だ。彼の間合いは、広場全体だった。


「……反撃、手段がねぇ」

「持久は無理……カイム、あなたまで倒れたら終わるわ……!」

 クリスは荒い息の合間に言い、膝を伸ばす。

 ルーカスは吐息で肺を洗うように空気を入れ替え、掌を握って開いた。指先が痺れている。散らす芯が細り、震えている。


 ――防いで、耐えるしかない。

 反撃の形は、まだ見えない。



 広場の端。ティナは瓦礫の影に身を寄せ、両手を胸に当てて立ち尽くしていた。

 武器はない。戦う術もない。それでも、目は逸らさないと決めていた。


(お願い……もう誰も、奪わないで……! でも私には――)


 炎の残滓が吹き荒れ、頬に細かい火傷が散る。涙の筋がそこを通り、熱で痛んだ。

 カイムが裂傷を増やし、クリスの障壁が薄くなり、ルーカスの足取りが重くなる――見ているしかできない自分が、胸の内側を爪で引き裂く。


 そのとき。

『――女よ』

 耳のすぐ裏で、冷たく甘い声が囁いた。誰もいない。だが確かに、心の内側から響く。


『力が欲しいか? お前は何もできぬまま、また大切なものを奪われるぞ』


 ティナの呼吸が止まる。肺が縮む。

「……もし、力があるなら……」


『望む力を言え。代償と引き換えに授けてやろう』


 ティナは瞼を強く閉じた。闇の裏に、色が立ち現れる。

 ――処刑台。

 夫レックスの両手は後ろ手に縛られ、膝は擦り傷で真っ黒だ。

 周囲を取り囲む人々の顔は見ない。見たら、恨んでしまうから。

 刃が持ち上がったとき、レックスはただ一度だけこちらを見た。

 笑った。

 泣き顔に見えないように、笑った。

 刃が落ちた。

 空気が、ぎい、と軋んだ。


 次に、縄。

 レオンとサラの細い手首に食い込む縄の繊維は、燃える前から肌を赤くしていた。

 頬に煤。涙で濡れたまつ毛。

 母の腕の中で、たった一瞬、息が合った気がした。

 空が割れ、炎が降り、幼い体が光に呑まれた。

 抱いていた感触が、腕からすっと消え、焦げた縄だけが地に落ちた。


 涙が頬を伝う。

「私は―――。」



 広場。

 カイムの漆黒の刃が火花を散らし、炎矢を叩き落とす。

 爆ぜる熱が腕を焼き、指の感覚が遠のく。

 クリスの障壁には細かなひびが網の目のように走り、呼吸のたび、ひびの一本一本が胸の内側に針を刺す。

 ルーカスは両掌を交差させ、光の軌道を撓める。撓めきれない端が頬を掠め、熱で頬皮が縮む。


「くそっ……持たない!」

 カイムの短い呻き。

 クリスは答えず、障壁の角度をわずかに変えた。重さの配分をずらし、割れる瞬間を先送りする。


 ウリエルの黄金の瞳が、まぶた一枚ぶんだけ細められた。

 炎剣が斜め下から跳ね上がる軌道を描き、その動きに合わせて、雨のような炎矢の間隔が変わる。

 人間であれば“癖”と言うのだろう。だがそれは癖ではなく、律だ。

 天の律。

 その通りに、裁きは降りる。



 闇の声が、もう一度、心の裏面に触れる。

『……なるほど。そのような力を臨むか』

『ならば――代償を払え、女』


 ティナは目を開けない。開けてしまえば、決意が揺れる。

 喉が焼け、声が掠れる。

「……寿命を払うわ」


『ほう』

 愉悦の気配が、耳朶を冷やす。

『女よ、その言葉、違えぬな?』


「……ええ」

 ティナは、涙に濡れた頬のまま、微笑んだ。

「家族のいない人生に未来なんて望まないもの。それに……三人の仇を討たなくちゃ」


 ほんの一拍の沈黙。

 それは、天使の放つ矢の間隔よりも短く、人の心がためらうには十分に長い。


『……ふむ。ならば残りの寿命、半分だけを頂こう』


 言葉が、契約の印となって落ちた。


 胸の中心に冷たい熱が灯る。

 心臓の鼓動が、外の熱と逆位相で波打つ。

 皮膚の下を黒い線が駆け、胸骨の奥で紋が組み上がる。

 掌の内にも、瞼の裏にも、細い糸のような記号が浮かんではほどけ、また結び直される。

 焼印の痛みはない。代わりに、時間が延び、縮む。

 鼓動の隙間に、音のない何かが入り込む。


『支払われた代償は受領した。――さあ、いけ』


「……わかってるわ」

 ティナは静かに答え、顔を上げた。


 炎がまた、空から落ちてくる。

 その中で、彼女の胸に刻まれた契約の紋が、かすかに脈動した。

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