黄昏の教室、白昼の秘め事
舞夢宜人
第1話 黄昏の残像
九月の終わりの放課後だった。傾きかけた太陽が投げかける橙色の光が、教室の床に長い影の格子模様を描き出している。空気中を舞う埃の一粒一粒までが金色に輝き、まるで時間が止まったかのような、静かで穏やかな空間がそこにはあった。
僕は自分の席に座ったまま、その光景をただぼんやりと眺めていた。騒がしかった教室の喧騒はすでに遠のき、残っているのは数人の生徒だけだ。彼らの楽しげな声も、この静寂の中ではどこか遠い世界の出来事のように聞こえる。僕の視線は、その中心で太陽のように笑う一人の女子生徒に、ずっと前から縫い付けられていた。
橘沙織。それが彼女の名前だ。
クラスの人気者で、誰に対しても明るく優しい。艶のある栗色の髪が光を反射してきらめき、軽く整えられた制服の着こなしには一点の隙もない。彼女が笑うと、周囲の空気までが華やぐように思える。僕のような、教室の隅で息を潜めるように存在する人間とは、住む世界が違う。彼女は光そのものであり、僕はその光が作り出す影の一つに過ぎなかった。
だから、僕にできることなど何もない。この気持ちを打ち明ける勇気もなければ、彼女の隣に立つ資格もない。ただこうして、誰にも気づかれないように遠くから彼女を見つめることだけが、僕に許された唯一の特権だった。今日もまた、友人たちと談笑しながら教室を出ていく彼女の後ろ姿を、僕は静かに見送る。扉が閉まり、廊下から笑い声が完全に消え去るまで、僕は息を止めていた。
ふう、と溜息を一つ吐き、僕はようやく席を立った。誰もいなくなった教室は、がらんとしていて寂しい。自分の存在だけが、この空間に不釣り合いな染みのように感じられた。帰り支度を済ませ、鞄を肩にかけたその時だった。
がらり、と静寂を破って教室の引き戸が開いた。
心臓が、喉の奥で大きく跳ねた。そこに立っていたのは、先に帰ったはずの橘沙織だったからだ。彼女は僕の存在に一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの完璧な笑顔を浮かべた。
「高木君、まだいたんだ」
鈴を転がすような、という陳腐な表現が、これほど似合う声を僕は他に知らない。
「あ、うん。日直の仕事が…」
嘘だった。今日の日直は僕ではない。しかし、咄嗟に口から出た言い訳はそれだけだった。沙織は特に気にも留めず、くすりと小さく笑う。
「そっか。お疲れ様。私、ちょっと忘れ物しちゃって」
そう言って、彼女は自分の席へと向かう。机の横に提げられたままだった、小さな手提げ鞄を手に取った。その一連の動作は、まるで映画のワンシーンのように洗練されていて、僕はまた見惚れてしまう。
彼女が僕の横を通り過ぎる。その瞬間、甘い香りがふわりと鼻先を掠めた。フローラル系のシャンプーだろうか。それと、彼女自身の清潔で柔らかな匂いが混じり合った、心を落ち着かなくさせる香りだった。
「じゃあ、お先に。また明日ね」
「う、うん。また明日」
彼女に視線を合わせることもできず、僕はかろうじてそれだけを返した。沙織は僕のぎこちない返事を気にする様子もなく、今度こそ教室から出ていった。
再び訪れた静寂。しかし、さっきまでのそれとは何かが違っていた。教室には、彼女が残した甘い香りが、まるで黄昏の光に溶け込むように漂っている。僕はその場に立ち尽くしたまま、ゆっくりと息を吸い込んだ。肺を満たすその香りは、橘沙織という存在の、あまりにも鮮やかな残像だった。この香りが消えてしまうのが、どうしようもなく惜しい。僕はしばらくの間、その場から動くことができなかった。
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