第19話 予期せぬ一言


 僕の脳内で繰り広げられた無数の惨めなシミュレーションは、そのどれもが最悪の結末を迎え、僕の自信と勇気を根こそぎ奪い去っていった。目の前では千聖お姉ちゃんがいつもと同じように僕に数学を教えてくれている。しかし、僕の耳にはその優しい声も分かりやすい解説ももう届いていなかった。


 僕の意識はただひたすらに壁の時計の秒針だけを追い続けていた。カチカチとあまりにも無慈悲に僕の好機を削り取っていくその音。午後五時。授業の終了予定時刻が刻一刻と近づいてくる。焦燥感が僕の喉をカラカラに乾かしていく。


 そして、ついにその時はやってきた。


「よし、じゃあ今日のところはここまでかな」


 千聖お姉ちゃんはにこりと微笑みパンと軽い音を立てて参考書を閉じた。その音は僕の心の中でギロチンの刃が落ちる無慈

悲な宣告の音のように響き渡った。


 終わった。


 僕の千載一遇の好機は僕自身のあまりにも情けないこの臆病さによって今完全に潰えたのだ。


 彼女は手際よく自分の鞄に参考書や筆箱をしまい始めた。シャリというペンケースのジッパーが閉まる音。カバンが肩にかけられる音。その一つ一つの何気ない日常の音が僕の敗北を心に深く刻みつけていく。


 もうだめだ。すべて終わったんだ。僕があれほどまでに渇望した二人きりの夜は訪れない。この後は彼女が帰っていったがらんとした家の中で僕一人がこの惨めな後悔と自己嫌悪を朝まで味わい続けるのだ。


 僕の心は絶望の淵にいた。全身から血の気が引いていく。世界がまるで色を失ったかのようにモノクロに見えた。


「じゃあまた明日ね悠希くん」


 千聖お姉ちゃんは僕の部屋のドアの前でそう言ってにこりと微笑んだ。僕はその笑顔をまともに見ることができない。ただ力なく頷くことしかできなかった。


 彼女がドアノブに手をかける。ああ行ってしまう。僕の女神は僕の楽園は今目の前から永遠に失われてしまうのだ。


 その時だった。


 ドアを開けようとした彼女の動きがふと止まった。まるで何か大事なことを今思い出したかのように。彼女はゆっくりと僕の方へと振り返った。そして不思議そうに小さく小首を傾げる。


「そうだ悠希くん」


.そのあまりにも場違いなほど穏やかな声。


「今日夕飯何が食べたい?」


 え?


 僕の脳はその言葉をすぐには理解できなかった。夕飯? なぜ今夕飯の話を? 彼女は今から帰るのではなかったのか? 僕の思考は完全に停止した。ただ間抜けな子供のように口を半開きにしたまま彼女の顔を見つめることしかできない。


「え? あ?」


 僕の喉から漏れたのは言葉にもならないただの間抜けな音だった。


 そんな僕の様子を見て彼女はくすくすと楽しそうに笑った。その笑い声はまるでいたずらが成功した子供のようだった。


「おばさんから悠希くんの夕飯のこともちゃんと頼まれてるんだよ? 忘れてたの?」


 その言葉がようやく僕の停止していた脳に染み渡っていく。彼女は帰らない。彼女はまだこの家にいる。彼女は夕飯を作ってくれる。つまり夜までずっと一緒にいてくれるのだ。


 その事実を僕が完全に理解した瞬間だった。僕の心の中で固く閉ざされかけていた最後の希望の扉が轟音と共に再び大きく開かれた。


.全身をがんじがらめにしていた鋼のような緊張の糸がぷつりと切れた。体の隅々から力が抜けていく。僕は椅子の上でぐにゃりと崩れ落ちそうになった。


「はぁ……」


 僕の唇から自分でも驚くほど大きな安堵のため息が漏れ出た。それは処刑台の上で恩赦を告げられた死刑囚のため息だった。


 千聖お姉ちゃんはそんな僕の様子を楽しげな笑顔で見つめている。その瞳はすべてお見通しだと言っていた。僕が一人で勝手に絶望していたことを、彼女はきっと最初から分かっていたのだ。


 僕のモノクロだった世界に再び鮮やかな夏の色が戻ってきた。

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