第9話 非日常の始まり
リビングの空気は、千聖お姉ちゃんの登場によって、一瞬にしてその性質を変えていた。僕を締め付けていた、あの息苦しく重苦しい雰囲気は嘘のように消え去り、代わりに、どこか現実味のない、ふわふわとした空気が漂っている。母さんは、昔話に花を咲かせながら、嬉しそうにお茶を淹れ直していた。僕はと言えば、ソファの上で完全に固まったまま、目の前で繰り広げられる光景を、ただ呆然と眺めていることしかできなかった。
「さあ、悠希。昔みたいに、いつまでもぼーっとしてないで。千聖ちゃんを、お部屋に案内してあげなさい」
母のその言葉で、僕はハッと我に返った。部屋。僕の、部屋。その単語を聞いた瞬間、僕の脳裏に、自室の惨状がパノラマのように展開される。ベッドの上に無造作に脱ぎ捨てられたTシャツ、机の隅に積み上げられた漫画雑誌のタワー、床に転がっているペットボトル、そして、壁に貼られた深夜アニメのポスター……。
血の気が、今度こそ本当に、全身から引いていくのを感じた。まずい。まずいまずいまずい。あれは、僕という人間が、怠惰と煩悩のままに生きていることを示す、聖域であり、同時に魔窟だ。母親以外の人間、ましてや、こんな、女神のような存在を、あの空間に招き入れるなど、あってはならないことだった。
「あ、いや、その、リビングでいいんじゃないかな…」
「何言ってるの。集中できないでしょ。さあ、早く」
僕の、蚊の鳴くような抵抗は、母の一言で無慈悲に切り捨てられた。千聖お姉ちゃんが、僕を見て、くすりと悪戯っぽく笑う。その笑顔に、僕はもはや逆らうことなどできず、まるで断頭台へと続く階段を上る罪人のように、重い足取りで立ち上がった。
自室のドアの前で、僕は深呼吸をした。これから、僕の最も無防備で、最も恥ずかしい部分が、白日の下に晒されるのだ。意を決してドアノブを捻り、扉を開ける。
「どうぞ…。散らかってるけど…」
我ながら、消え入りそうな声だった。千聖お姉ちゃんは、「おじゃまします」と上品に一礼して、僕の部屋に足を踏み入れた。その瞬間、僕は、自分の部屋が、彼女という異物が入ってきたことで、全く別の空間に変質してしまったかのような、強烈な非日常感を覚えた。
彼女は、部屋の中を興味深そうにゆっくりと見回す。その視線が、漫画のタワーに向けられ、ゲーム機のコントローラーに向けられ、そして、壁のアニメポスターに向けられるたびに、僕の心臓は針で刺されたかのように痛んだ。顔から火が出るほど恥ずかしい。今すぐ、この部屋にある全てのものを、窓から投げ捨ててしまいたい衝動に駆られた。
「悠希くん、本当に漫画が好きなんだね」
しかし、彼女の口から出たのは、侮蔑や呆れの言葉ではなかった。ただ、純粋な感心のような、穏やかな声色だった。その、予想外の反応に、僕はかえって戸惑ってしまう。
僕たちは、部屋の中央にある、小さな勉強机に向かい合って座った。いや、正確には、隣り合って。僕の小さな机では、それが限界だったのだ。椅子と椅子が触れ合うほどの距離。手を伸ばせば、すぐに彼女に触れてしまえるほどの、近さ。
そして、最初の勉強が始まった。
しかし、僕の意識は、目の前に広げられた数学の参考書には、一ミリも向いていなかった。僕の全神経は、ただひたすらに、隣に座る千聖お姉ちゃんの存在そのものに、集中させられていた。
ふわり、と、彼女が身じろぎするたびに、甘く優しい匂いが、僕の鼻腔をくすぐる。それは、先ほどリビングで感じたシャンプーの香りだけではない。彼女の肌そのものが持つ、温かく、そしてどこか懐かしいような、清らかな匂い。その香りが、僕の部屋の、淀んだ空気を満たしていく。僕の部屋なのに、僕の匂いがしない。すべてが、彼女の香りに上書きされていくようだった。
さらり、と、彼女が問題を指し示すために髪をかき上げる。そのたびに、衣擦れの音が、静かな部屋にやけに大きく響いた。その、あまりにも微細な音が、僕の鼓膜を優しく震わせ、彼女の仕草の一つ一つに、僕の注意を強制的に引きつける。
僕の目は、参考書の数式を追っているふりをしながら、その実、全く別のものを捉えていた。問題を教えてくれるために、彼女が少しだけ身を乗り出す。その時、白いブラウスの袖口から、すらりとした、信じられないほど白い手首が覗いた。血管のかすかに青く透ける、その繊細な肌。こんなにも美しい手首が、この世に存在するのかと、僕は本気で思った。彼女が持つボールペンの、カチリ、という小さなノック音さえもが、僕にとっては特別な音楽のように聞こえた。
僕の頭の中は、緊張と、羞恥と、そして、抗いがたい興奮とで、完全に飽和状態だった。顔が、燃えるように熱い。きっと、耳まで真っ赤になっているに違いない。
「――だから、この公式を使うと、ここの答えが導き出せるの。どうかな、分かった、悠希くん?」
優しい声で、千聖お姉ちゃんが僕の顔を覗き込む。まずい。彼女の説明が、一言も、一文字も、僕の頭には入ってきていなかった。
僕は、ただ、沸騰しそうな頭で、意味もなく、こくこくと頷くことしかできなかった。非日常は、もう、始まってしまっていた。
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