第九話 覚醒の余波

 港での騒動から一夜が明けた。

 目を覚ました瞬間、体の芯が冷え切っていることに気づいた。毛布を二枚重ねていたはずなのに、指先は青白く、喉がひどく渇いている。夢ではない。昨夜、確かに水が僕を包み、黒衣の刃を弾いた。


 枕元の木机には、濡れた跡が小さく残っていた。輪の形に染み付いた水痕は、誰にも触れられないうちに乾き始めている。


「……これが、代償?」

 声にしてみると、胸の奥がじんわりと痛む。



 午前。詰所の会議室。

 帳簿を抱えたオットーが隣に座り、羽根ペンを握ったまま視線を逸らしている。彼の顔色は、普段より一段険しい。


「昨日の件、どう記録するかだな」

 低い声で言ったのはユリウスだ。背筋を伸ばし、机に並んだ紙を冷たい眼で見下ろしている。


「目撃者多数。黒衣の侵入、密輸の証拠、そして……」

 彼の視線が一瞬だけ僕に向く。

 氷のような眼。そこに浮かんだのは、咎めでも庇護でもなく、ただ観察する者の色だった。


「“偶発的な水流が介入し、憲兵の負傷を防いだ”と記録する」

「……それって」

「見たままを記す。余計な解釈は要らない」


 冷徹な口調。だが、わざと核心を外していることは誰の目にも明らかだった。

 あの水は偶発なんかじゃない。僕を守ろうとした。けれど、それを認めた瞬間、僕は異端になる。


 オットーが眉をひそめ、帳簿に小さく走り書きをした。

「正直に書いた方がいいのでは」

「正直さは秩序を壊す。……忘れるな」

 ユリウスの一言で、部屋の空気が固まる。



 昼下がり。僕は伝令として隣区の役所に書状を届けた。

 石畳を歩くたび、体が妙に重い。視界の端が揺れ、文字を読むと頭痛が走る。昨日、帝国文字を“理解できた”あの感覚が、今は鋭い刃のように突き刺さる。


 立ち止まり、額を押さえる。

「……何なんだよ」

 吐息が白く散った。誰にも聞かれたくない。これは力なんかじゃない。病気みたいなものだ。


 役所の門前で、騎士団の兵士が視線を向けてきた。銀の鎧に火の紋章。昨日、港で黒衣を押さえ込もうとした連中だ。

「おい、憲兵」

 呼び止められ、足が止まる。


「昨夜の件、聞いているぞ。……水を操ったそうだな」

「ち、違います」

「ふん。どちらにせよ、お前らが記した帳簿はもう不要だ」

 兵士は唇を歪め、手にした紙束を地面に叩きつけた。墨の匂いが漂い、僕の胃が冷たくなる。

「帝国の剣が裁けば十分だ。胃袋の記録は黙ってろ」


 振り返ったときには、紙束は兵士の靴に踏み潰されていた。



 夕刻。詰所に戻ると、オットーが帳簿の余白に小さな印を刻んでいた。

「お前……大丈夫か」

「え?」

「顔色が悪い。昨日から。……それに、字を読むときの目、普通じゃなかった」

 彼はそれ以上追及しなかったが、ペン先を強く握る仕草がすべてを物語っていた。


 アニカは隣で、心配そうにパンをちぎって差し出した。

「夏樹、食べなよ。痩せてるのにもっと痩せちゃう」

 無邪気な声に救われながらも、胸の奥には波紋が広がる。



 夜。寝台に横たわった瞬間、耳の奥が再び震えた。


——な……つ……き


 声が近い。昨日よりも鮮明だ。

 僕は毛布を握りしめた。代償で体が冷えるたび、この囁きは強まる。


「誰だ……」

 喉から漏れた声は、返事になったのかもしれない。


——き……こ……え……て


 鼓膜を撫でる声が、波紋のように広がる。

 寒さに震えながらも、胸の奥で確かに感じた。

 これは病ではない。偶然でもない。


 水は、僕の名を知っている。

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