第九話 覚醒の余波
港での騒動から一夜が明けた。
目を覚ました瞬間、体の芯が冷え切っていることに気づいた。毛布を二枚重ねていたはずなのに、指先は青白く、喉がひどく渇いている。夢ではない。昨夜、確かに水が僕を包み、黒衣の刃を弾いた。
枕元の木机には、濡れた跡が小さく残っていた。輪の形に染み付いた水痕は、誰にも触れられないうちに乾き始めている。
「……これが、代償?」
声にしてみると、胸の奥がじんわりと痛む。
◆
午前。詰所の会議室。
帳簿を抱えたオットーが隣に座り、羽根ペンを握ったまま視線を逸らしている。彼の顔色は、普段より一段険しい。
「昨日の件、どう記録するかだな」
低い声で言ったのはユリウスだ。背筋を伸ばし、机に並んだ紙を冷たい眼で見下ろしている。
「目撃者多数。黒衣の侵入、密輸の証拠、そして……」
彼の視線が一瞬だけ僕に向く。
氷のような眼。そこに浮かんだのは、咎めでも庇護でもなく、ただ観察する者の色だった。
「“偶発的な水流が介入し、憲兵の負傷を防いだ”と記録する」
「……それって」
「見たままを記す。余計な解釈は要らない」
冷徹な口調。だが、わざと核心を外していることは誰の目にも明らかだった。
あの水は偶発なんかじゃない。僕を守ろうとした。けれど、それを認めた瞬間、僕は異端になる。
オットーが眉をひそめ、帳簿に小さく走り書きをした。
「正直に書いた方がいいのでは」
「正直さは秩序を壊す。……忘れるな」
ユリウスの一言で、部屋の空気が固まる。
◆
昼下がり。僕は伝令として隣区の役所に書状を届けた。
石畳を歩くたび、体が妙に重い。視界の端が揺れ、文字を読むと頭痛が走る。昨日、帝国文字を“理解できた”あの感覚が、今は鋭い刃のように突き刺さる。
立ち止まり、額を押さえる。
「……何なんだよ」
吐息が白く散った。誰にも聞かれたくない。これは力なんかじゃない。病気みたいなものだ。
役所の門前で、騎士団の兵士が視線を向けてきた。銀の鎧に火の紋章。昨日、港で黒衣を押さえ込もうとした連中だ。
「おい、憲兵」
呼び止められ、足が止まる。
「昨夜の件、聞いているぞ。……水を操ったそうだな」
「ち、違います」
「ふん。どちらにせよ、お前らが記した帳簿はもう不要だ」
兵士は唇を歪め、手にした紙束を地面に叩きつけた。墨の匂いが漂い、僕の胃が冷たくなる。
「帝国の剣が裁けば十分だ。胃袋の記録は黙ってろ」
振り返ったときには、紙束は兵士の靴に踏み潰されていた。
◆
夕刻。詰所に戻ると、オットーが帳簿の余白に小さな印を刻んでいた。
「お前……大丈夫か」
「え?」
「顔色が悪い。昨日から。……それに、字を読むときの目、普通じゃなかった」
彼はそれ以上追及しなかったが、ペン先を強く握る仕草がすべてを物語っていた。
アニカは隣で、心配そうにパンをちぎって差し出した。
「夏樹、食べなよ。痩せてるのにもっと痩せちゃう」
無邪気な声に救われながらも、胸の奥には波紋が広がる。
◆
夜。寝台に横たわった瞬間、耳の奥が再び震えた。
——な……つ……き
声が近い。昨日よりも鮮明だ。
僕は毛布を握りしめた。代償で体が冷えるたび、この囁きは強まる。
「誰だ……」
喉から漏れた声は、返事になったのかもしれない。
——き……こ……え……て
鼓膜を撫でる声が、波紋のように広がる。
寒さに震えながらも、胸の奥で確かに感じた。
これは病ではない。偶然でもない。
水は、僕の名を知っている。
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