36.
深淵のなか、息を殺す。自分の心臓の音だけが聞こえていた。一段の高い木造階段を、忍ぶようにゆっくりと上る。
右手で繋いでいる彼女の手のひらが熱を帯びていた。振り返ると、輪郭のはっきりしない顔がぼんやり目に映る。不安げな面持ちで、だけど瞳はしっかりと開かれていた。互いの存在を確かめ合うようにアイコンタクトを交わした後、前に向き直る。
地下室の階段を上がりきり、リビングへつづく引き扉を慎重に開ける。日をまたぎ、一時間は経っただろうか。カオリの話だと、カオリたちの父親は決まって午後十一時に就寝するという。つまり今の時間に起きだすことはない。この家でこの時間、リビングの電気が点いていることなんてありえないはずだった。
「何をこそこそやっている?」
さっきまで真っ暗だったその部屋の、電気が点灯していた。
「シオリ、お前がどうして地下室の外にいる。その男は誰だ?」
目の前で、高級そうな寝巻をまとった初老の男性――カオリたちの父親が、蔑むような目をこちらに向けている。
あの時と同じだった。
まるで、人を人として扱わないような目つき、表情。
「どうして」
隣の彼女から声が漏れる。
「私が、何も知らないとでも思ったか。カオリが最近、妙な電話をしていることが多いと家政婦から聞いてな。何をたくらんでいるのか調べさせたら、シオリを地下室から出す算段を立てていることがわかった。どこの馬の骨かもわからん妙な男を使って」
カオリたちの父親がゆっくりと腕を上げ、人差し指をつきつける。
「この家に怪しい奴が現れないか、ここ数日間、昼夜問わず部下に張り込ませていた。何かあったら、何時でもいいからすぐ私に連絡するようにとな。そうしたら案定、お前がのこのこやってきた」
男がニヤリと笑う。悪辣なしたり顔に反吐が出そうだ。
「ガキの悪だくみなどたかが知れてるんだよ。シオリが阿呆なのは重々承知だが、カオリは、あれは少しは賢いと思っていたのにな。所詮はまだまだ青臭さの抜けない小娘だったか。やはり監視の目をまた厳しくしないと駄目だな」
粘っこい声が耳にへばりついて、神経を逆撫でる。
「住居不法侵入と誘拐。これが立派な犯罪であることくらい、無知なお前でもわかるだろう? 娘には二度と近づけさせない。どころか、お前のことを徹底的に調べ上げて、社会的に抹殺してやるからな。覚悟をしておけ」
平静でいなければならない。けど、無理だった。
目の前の男の外道はわかっているつもりだった。でも、対面して声を聞くと、どうしても自制が利かなくなる。
「この顔、覚えていないのか?」
思わず言った。
男は返事を返さず、何のことだとばかりに眉をひそめただけだった。
「ねぇ、お父さん」と彼女が声を差し込む。
「確かに私は大きな過ちを犯した。須永家の人間にふさわしくないこともわかっている。でも、私は自分の意志で人生を生きたいの」
痛々しいほど切実な声音で、彼女は言葉を紡いでいく。
「景色の変わらない地下室でじっとしているだけなんて、死んでいるのと同じ。あの事故の隠ぺいのことは絶対に誰にも喋らない。だから私をこの家から出して。自由を、与えてください」
彼女が深々と頭を下げる。スカジャンに刺繍された虎の絵が、猛々しく咆哮していた。
「何を言っている?」
心底わからないという風に、カオリたちの父親が肩をすくめて。
「私がどれだけ骨を折ったと思ってるんだ。警察やメディア連中にどれだけの金を積み、どれだけ頭を下げたと思ってるんだ。お前がしたバカで愚かな行為一つで、代々築かれた須永家の名に傷がつけられたんだぞ? もうお前に、生きる価値なんてないんだよ」
呆気に取られ、言葉を失った。
目の前の男の言っている言葉の意味が、どうしてそんな言葉を平然と発することができるのか、それがどうしてもわからない。
わかってしまったら、その時こそ人の終わりなのだと思った。
ゆっくりと面を上げた彼女が、目の前の男を見据える。
「娘の、一人の人の人生を犠牲にしてまで、家の名や自分の立場を守ることが大事なの?」
「当たり前だ。私は院長なんだぞ。病院に務める医師や職員、抱える患者――何百何千という人の命を背負ってるんだ。それらとお前一つの人生、天秤にかけたらどちらが重いのかなど、考えなくてもわかるだろう」
懇願するような顔つきを一変させ、彼女が真顔に直る。
「そう、そうですか」
すべてを諦めたように呟く。
「お父さん、いえ……お父様」
憑依を解き、表情を一変させて。
「私を見て何か、気づくことはないですか?」
冷淡な口調で問う。
それまで余裕を崩さなかった男の表情が、わずかにかげる。一呼吸の間が空き、「……何?」と漏らした。
「あなたはシオリを閉じ込めてから、彼女の元を一度たりとも訪れたことなどありませんでした」
断罪するように鋭い目つきが、男の表情をなぶって。
「いえ、元よりあなたは、私たちの顔をまともに見たことなんてなかったのでしょうね。そんなあなたが、私がピアスをしていない意味に、気づけるわけがない」
「何だ。さっきから何を言ってるんだ」
いよいよ、カオリたちの父親の顔に動揺の色が浮かんだ。
「私はシオリではありません。カオリです」
「……はっ?」
「シオリならとっくに、この家を抜け出していますよ。今朝、私の制服を着て、『行ってきます』と、元気よく返事をして」
カオリが不敵に笑って言う。
憎悪と憐れみ、そのどちらともとれる混濁色の表情で。
「私たちは入れ替わっていたんです。今日一日、地下室に閉じ込められていたのは私。シオリではなく、カオリだった。そのことを、お父様も、家政婦の方々も、お父様が見張らせていた部下の方も、誰一人見抜けませんでした。
お父様。何も知らないのはあなたの方だったんです。私が、家政婦の方にあえて電話を聞かせていたことも、お父様の部下が家を見張っているのを知っていたことも、それを利用して、私たちがあなたにわざと見つかったことも、あなたはすべて、気づけなかった」
「……シオリはどこだ」
男の態度がガラリと変わっていた。目を泳がせ、明らかに余裕を失っている。
「アイツの姿を誰かの目に触れさせるわけにはいかない。あのバイク事故の顛末を怪しみ、嗅ぎまわっている記者が何人かいる。万が一の可能性も残すわけにはいかない。すぐ教えろ、シオリは今どこにいる?」
「もう、手遅れですよ」
冷たい表情のまま、カオリが返す。
「お父様。これが最後のチャンスだったんです。もし、あなたが私の正体を見抜くことができたら、もしシオリの願いに、少しでも耳を貸す態度を示していたら、私は違う選択肢を取るつもりでした。死亡偽造の罪を自ら世間に公表し、名家の看板を捨て、シオリと共に一からやり直しましょう。お父様に、そう進言するつもりでした。でも」
芯から無念そうにつづける。
「あなたはそれをふいにした。だからもう、遅いんです」
「さっきから何を言っている。いいから答えろ。シオリはどこだ」
もはや男に、大病院の院長たる貫禄はなかった。
こんな奴のために、シオリは人生を奪われ、カオリは長い間罪の意識に悩み苦しみつづけたのか。こんな男を、自分は今まで畏怖していたのか――
「いいか。お前らは私を出し抜いた気でいるのかもしれんが、私が本気になれば、シオリの捜索なんぞ一日もかからんのだ。すぐに見つけ出し、アイツをまた地下室に閉じ込める。今回のようなバカ騒ぎを二度と起こさんように、今後、カオリとの接触を一切禁ずる。お前らのやっていることなんぞ、やはり悪あがきにすぎん。だから大人しくシオリの居場所を」
「わかってます」
ピシャリとしたカオリの発声が、男の口をふさぐ。
「だから私たちは、お父様が犯した罪、バイク事故の事実改ざんを、シオリの死亡偽造を、世間に公表します」
「はっ」
わざとらしく両手を広げたカオリたちの父親が、吐き捨てるように言う。
「だからお前らはガキだというのだ。一体どこに公表する気だ? 出版社にでもタレ込むか? 交番に行っておまわりさんにでも言いつけるか? 何の証拠も持たないお前らの戯言に、耳を貸すほど奴らは暇じゃない。それくらいのことが、どうしてわからない? カオリ、お前はそこまで愚かだったのか?」
「愚かなのは、あんただ」
乾ききった唇を剥がし、久方振りに声を発する。
「いくらあんたが権力者でも、見ず知らずの、名前も顔も知らない奴の口を止めることなんてできないだろう」
「何?」
おもむろにズボンからスマホを取り出した。カオリたちの父親に近づき、画面を見せる。
「流れている映像は、渋谷の通りを定点カメラで映したライブ配信。Youtubeを通じて24時間、誰でもアクセスして動画を観ることができる」
「……それが、何だ」
動じない様そうで言い放つも、その声音からは不安が漏れ出ていた。意図が読めないからこそ、恐怖なんだろう。
「そのまま、映像を観ていてください」
説明や補足を加えることなく、カオリが言った。不可解そうな表情で、男はスマホの画面を注視する。
そしてその目が、みるみる間に大きく見開かれはじめた。
額にしわが何本も走り、心が外に飛び出したような表情で言う。
「おい、これは何の冗談だ」
空を掴むような口調。声はかすれていた。
「どうしてだ。どういうことだ」
とうとうスマホを奪い取り、画面に食い入る。哀れな怒声を。
「何で……何でシオリがここに映っている!?」
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