水族館

 周囲には人のざわめきが満ちている。けれど、それはどこか遠くの音のように感じられた。

 ガラス張りの部屋。青く沈んだ光の中、魚たちが優雅に泳いでいる。

 水の向こうは静かで、冷たい。まるで時間が止まっているかのようだ。

 目を閉じれば、空調の冷気が肌を撫でる。ひんやりとした感触が、心の奥まで染み込んでくる。

 目を開けると、手すりに寄りかかりながら魚を見つめる仲原さんの姿があった。

「もう体調は大丈夫?」

「大丈夫です、もうピンピンしてますよ!」

 水槽の光を受けて笑う顔に、ほっとしてしまう。

 涼子が去った後、ほどなくして仲原さんは目を覚ました。最初は戸惑っていたけれど、どうやら寝不足だったのだと自分を納得させていた。

 そして数日後の今日は、誘われた水族館に来ている。

 まわりは親子連れやカップルばかり。

 そんな中を、僕らは中途半端な距離を保って歩いている。水槽のガラスのように、見えない仕切りがあるようだった。

「あ、久住先輩、ペンギンがいます! わー、いいなぁ。触ってみたい。お腹のとことか、フワフワなのかな」

「ざらざらしてたりして」

「う、それはイヤかもです」

 なんでもない時間。

 それは誰にでも許される、ささやかな幸せ。

 けれど僕の胸には、冷たい重さが沈んでいた。

 死者を見つけ、その人に告げなければならない。

 あなたはもう、死んでいるのだと。

 そして、その死を受け入れてもらわなければならない。

 水槽の奥に漂う魚のように、僕の思考も深く沈んでいく。

 このまま僕らが死に引きずられるか、それとも、あいつ一人を死に還すのか。

 どちらが正しいのだろう。

「先輩、どうかしました? 疲れました?」

 ぼんやりしていた僕に、仲原さんが手を振る。

 僕は急いで笑顔を作ったが、うまく笑えているだろうか。

「いや、なんでもないよ」

「あ、あそこ、休憩できるみたいです。行きましょう」

 人ごみの中、仲原さんが僕の腕を取って引っぱる。

 彼女の手は温かくて、現実の感触がした。明るくて、面倒見がよくて、僕の写真を好きだと言ってくれる。

 それは確かに、僕にとっての幸せだった。

 だから、今、僕は幸せなはずなのに――

 手を伸ばせば、分厚いガラスに阻まれて、魚には届かない。

 その向こうで、魚たちは優美に泳いでいる。

 もしも、あいつとの間にも、こんなふうに目に見える境界線があったなら、どれほどよかっただろう。

「ここ、座れますよ」

 休憩所には自動販売機と、数人の人影。

 仲原さんは財布を取り出し、自販機の前に立つ。

「あたしはポカリにしますけど、先輩はミルクティーとかですか?」

「適当でいいよ」

「はーい」

 二人で遊びに来ているはずなのに、僕は別のことを考えている。

 失礼だとわかっていても、どうしても頭から離れない。

 仲原さんがミルクティーを手渡してくれる。

「ねぇ、仲原さん。もし、死んだ人が生きてたら……嬉しい?」

「え?」

 驚いたように振り返ると、仲原さんは首をかしげる。

「部長も久住先輩も、変なこと聞きますね。死者に興味あるんですか?」

「部長が?」

「はい。この前、言われたんです。自分は、あの地震で死んだのかもしれないって」

 僕は返事の代わりに、ペットボトルを少し握った。ペコッと情けない音がする。

 仲原さんは僕の隣に座り、微笑んだ。

「でも、あたし言いましたよ。部長は生きてますって。だって、目の前にいるし、触れるし」

「そうだね」

 死者も、目の前にいて、触れて、声を出して、笑っている。

 あいつも、いつも通りなのに、もう死んでいる。

 そう思うと、どうしても気が沈んでしまう。

「カメラ、持ってくればよかったですね。記念に撮れたのに」

「インスタントカメラなら、売店で売ってるみたいだよ?」

「あたし、買ってきますね!」

 売店でカメラを買い、適当な場所で仲原さんが笑顔でポーズをとる。

 僕はシャッターを切った。

 ――どうして、知り合いが死んでいるという事実を、僕が伝えなければならないのだろう。



 パシャリ。



 なぜ、僕らなのだろう。



 パシャリ。



 音が響く。

 水の中に沈んでいくような、静かな衝撃。

 これは、悪い夢なんじゃないか。今でも、そんなふうに思ってしまう。

 だって、あまりにも普通すぎる。

 仲原さんが笑っている。僕は写真を撮っている。

 あいつも、きっとどこかで笑っている。生きている人と同じように。

 でも、この時間は、永遠には続かない。

 この状況を長く保つことはできない。

 水槽の中の魚のように、僕らの時間も、静かに流れていく。

「死者を死に還せ」

 その言葉が、冷たい水のように脳裏に張りついて離れない。

 親しい人との、永遠の別れ。

 どれほど辛くても、それをやり遂げなければならない。

 この手で、告げなければならないのだ。

 ――あなたは、もう死んでいるのだと。


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