少女
朝、寝癖のままの格好でベランダに出る。
ひんやりとした空気が肌を撫で、朝日がまぶたの裏まで染み込んでくる。
あくびをひとつ、かみ殺す。昨日は珍しく熟睡できたらしい。
気持ちのいい朝だ。
トーストを半分かじって、残りはココアで流し込む。甘さが喉を通ると少しだけ現実に戻ってくるような気がした。
スニーカーに足を通せば、昨夜河川敷を歩いたときの土がこびりついているのに気づいた。
学生のいない通学路を抜けて、商店街へ。シャッターの隙間から漏れる音と匂いが街の目覚めを告げている。
いつもの赤信号で、いつものように立ち止まる。
ふと隣を見ると、昨日見かけた黒猫がいた。
いや、同じ猫に見えるだけで、違う子かもしれない。
それでも昨日の気配を引きずっているような気がして、目を細める。
やはり僕には興味なさそうで、彼ないし彼女は、ふいっとどこかへ行ってしまった。その後ろ姿に、少しだけ置いていかれた気がしてしまう。
そして僕が立ち止まったのは――
「ギャラリー千葉」
昨日見学させてもらった写真展が入った建物の前。
コルクボードをよくよく見てみると、主催者は千葉
「時間は、あるよな」
昨日は途中で電話がかかってきて、最後まで見られなかったのだ。
今日はその続きを、ちゃんと見てみたい。
そう思ってエレベーターのボタンを押す。
チン、と小さな音を立てて扉が開く。
「昨日は『会いたい』って文字が壁に――っ!?」
僕が息をのむのと、エレベーターが展示フロアに止まるのは、ほぼ同時だった。
扉の向こうに立っていたのは、白いケープの女の子。
ガラスのような瞳で僕を見つめ、少しだけ失意の色を浮かべながら首をかしげている。
「ダメだって言ったのに」
その言葉は苦笑のようでもあり、非難のようでもあった。
「そういわれても困るかな。確認なんだけど、僕だけに見えてるってことある?」
「そうなの?」
「いや、聞いてるのはこっちで――まあいいか」
僕は苦笑しながら、少女の背後にある年季の入った扉を開けた。
少女は、なぜだかついてくる。
暗い部屋の奥からオーナーの千葉さんが顔を出した。
「いらっしゃい。あれ、君は昨日来てくれたね」
「久住といいます。また見てもいいですか?」
覗き込むと、千葉さんは朗らかに笑って手招きしてくれた。
手にはビニール手袋。奥の暗室では、赤いセーフライトの下で現像液に浸された印画紙をゆっくり揺らしている最中だったようだ。
薬品の匂いがほのかに漂い、静かな水音が部屋の奥から聞こえてくる。
「写真を現像中なの。誰もいないから、勝手に見てていいよ。お茶とかは隅の冷蔵庫にあるから」
「ありがとうございます」
「なにかあったら言って。ちょっと作業してるから」
そう言い残して、千葉さんは奥の部屋へと消えていった。
部屋には僕と、隣に立つ少女だけが残される。
僕は彼女に視線を向け、微笑んだ。
「君も写真を見に来たの?」
「違うわ」
「じゃあ、どうして」
「貴方に警告したのに。死者の存在を認めてはダメなの」
その言葉と同時に、ズボンの裾をぎゅっとつかまれる。
僕はその手をやんわりとほどくと、すぐにもう一度、握られる。
「こら」
強くない声で言えば、少女はズボンを握るのをやめてくれた。
ゆっくりと歩いて、椅子が並べられたスペースまで移動する。
「おいで」と椅子の座席をたたくジェスチャーをすると、少女は静かに近づき、椅子に腰を下ろした。
首をかしげて見上げてくれるそれが、道路で出会った猫を思い起こさせてくれる。
「ジュース飲む?」
「じゅーす?」
「そう、ジュース」
冷蔵庫を開けるとグレープジュースのパックを見つけたので取り出す。
近くにあったトレイに積まれたグラスに二つ注ぎ、一つを少女に手渡した。
少女はグラスを持ったまま、飲む様子がない。これは飲んで見せないとダメなのかと、ジュースを口に含んだら思ったよりもすっぱくて、顔が締まってしまった。
「っす、っぱ!」
「? すっぱ」
僕の真似をしたのか、少女も一口飲んでいる。けれど無表情のままだ。
横に座って唇をなめ、僕は尋ねた。
「君の名前は?」
「涼子」
「涼子か。僕は久住、久住恭介っていうんだけど。僕らは知り合いだったりする?」
「お兄さんとは、昨日初めて会ったわ」
「だよね。うーん、じゃあ君がダメって言ってた『死者を生かす』ってどういうことか、説明できるかな」
「貴方のそばには死者がいるの。その人を生かしてはダメ」
「死者って……死んだ人って意味であってる?」
少女は静かに頷いた。
会話は成り立っているように思える。けれど、どうにも納得がいかない。
死者が近くにいる。それを生かしてはいけない。
文字だけを見れば頷くしかないが、いかんせん僕の周りに死者はいない。
写真に写りこむ変なものがソレだと言われたら、確かに近くにいるのかもしれないが、それこそ専門家に依頼する内容だ。
「涼子はどうして僕にそんなことを教えてくれるんだい」
「私には、死者に引きずられる人が見えるの」
ガラスのような瞳が、じっと僕を見つめてくる。
正直、困っていた。
死者がそばにいると言われても、どうすればいいのか、まったく見当がつかない。
神社で禊でもすればいいんだろうか、それとも呪符を買う? 昔話にあるようにお経を全身に書き込むのは嫌だ。
「死者に引きずられると、どうなるの?」
「道ずれになるわ。生きている人が」
少女の唇から、聞きたくなかった言葉がこぼれ落ちる。
脳内では情報がめまぐるしく巡っているが、ただ一つ、どうしても聞かなくてはいけないことがある。
「その死者っていうのは……僕にとって、大切な人なの?」
この問いには、少しだけ時間が空いた。
涼子は小さな手でグラスをぎゅっと握りしめ、何も映していないような瞳を小さく揺らし
「そう」
と、答えた。
やはり、というか――少しだけ、心の引っかかりが取れた気がした。
身近な人がすでに他界していると知らされて、そこまで動揺しないのは、僕の感情が言葉の意味に追いついていないせいだろう。
死んだ人間がそばにいる。その人は僕にとって大事な存在。
このままだと僕もその死者の道ずれになり死ぬ。
「どうして教えてくれるの?」
グレープジュースを一口飲みながら、僕は問いかける。やっぱり驚くほどにすっぱい。
「お兄さん、死にたいの?」
「お兄さんじゃなくて、恭介でいいよ」
「……わかったわ」
僕の真似をするように、涼子もグレープジュースを一口飲み、そして頷いた。
「で、涼子は僕にどうしてほしいの?」
「彼ら――死者はね、生きている人から生命力を奪うの。だから、死者を生かし続けてはダメなの」
涼子の言葉によれば、死者に生命力を奪われている状態を《引きずられる》と呼ぶらしい。
最初は何も起こらない。
ただ、皮膚の下を何かが這っているような違和感が、じわじわと広がっていく。
眠気とも疲労とも違う、何かが抜けていく感覚。
気づいたときには、もう手足が冷たく、声も出せない。
命の根が、音もなく、静かに枯れていく。
「死者に悪気はないのよ。自分が死んだって自覚がないの。ただ、友達に会いたいとか、そう思ってるだけの人もいるわ。でも、彼らの存在を許していると、生きてる人が死んでしまうの」
そう言った涼子の表情は、どこか寂しげだった。
「君は、経験者なんだね」
なぜだろう、そう感じて問いではなく、確信として口にすると、涼子の眉がわずかに寄り、目元に涙が滲む。
それでも彼女は、必死にこらえていた。
その姿が、彼女がまだ幼い少女であることを思い出させてくれる。
「涼子、つらいときは、つらい顔をしていいんだよ」
「どうして?」
無感動な声が、モノクロ写真に囲まれた空間に静かに響いた。
写真の中の誰かが、こちらを見ているような気がした。
けれど、目を凝らしても、誰も写っていない。
僕は涼子の手を握る。
時には、悲しみに耐えることも必要だ。
でも、僕らはそんなに強くない。
緊張の糸が切れたとき、背負っていたものが重ければ重いほど、潰れたときの痛みは深くなる。
だから、少しずつでも「つらい」と自覚して、その重さを軽くしていかないといけない。
そうしなければいつか、哀しみの底で身動きが取れなくなってしまうから。
「つらさを押し込めていたら、いつか涼子自身が壊れてしまうよ。つらいときは、つらいって言っていいんだ。落ち込んでいいんだよ」
笑顔をきちんと作れているかわからないけれど、できるだけ安心できるように微笑んでみる。
そうしてぎこちなく頭をなでると、おずおずと涼子は僕のジャケットに手を伸ばし、つかんだ。
こういう時、知り合いなら抱きしめてあげるのがいいんだろう。でも僕らは初対面で、他人だ。
「うん、つらいよね」
きっと僕も、こんなつらさを味わうことになるのだと、確信がある。
僕の近くにいる人、大切な人が死んでいる。
誰かはわからない。
でも、その人の死に、向き合わなければならないのだと。
「妹がそうだったわ。最初は何も違和感もなくて、いるのが当たり前だった。でも、そのうち変なことが起こり始めたの。父も母も気だるいなって言い始めて、最後は死んでしまった。妹は泣いて、家を飛び出していったわ。探している最中に見つけたの。あの子の墓を。私の妹は、死んでいた」
「それで」
「私は妹にね『貴女はもう死んでるの』って言ったの。そう言うとあの子、消えちゃった。それから私は死に引きずられている人を見つけられるようになったの」
涼子はそんな人たちに警告して回っているそうだ。
「僕は、死に引きずられているんだね」
「そう」
「僕が死者だという可能性は?」
「……あるかもね」
意味深な言葉が、静かに返される。
不意に、地面が揺れた。まさかまた地震かと身構える。
ガタガタと音がして窓が震えて開き、強い風が吹き込んだ瞬間、空気が一瞬だけ冷たくなった。
僕のジャケットをつかんでいた涼子の手が、まるで霧のようにほどけて消えた。
そこには、何も残っていなかった。
「わわ、立てつけ壊れちゃったのかな」
千葉さんが小部屋から慌てて出てきた。
窓を閉めると千葉さんは、こちらに振り返って首をかしげる。
「久住くん。君、一人でいたんだよね?」
「えっと」
今この場にいない涼子の説明をどうしたものかと、言葉を探していると、千葉さんは腕を組んで、グラスに目をやる。
「どうしてグラスが二つも出てるの?」
その問いに、僕は答えられなかった。
彼女は、僕の見ている幻なのだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます