廃墟
目的地の廃墟に着くと、すでにみんなは準備を整えていた。
全体的にほの暗く、放置されてから五十年は経っているのだろう。
外壁はかつて白だったのか灰だったのかも分からないほどに色褪せ、ところどころ塗装が剥がれ、下地のコンクリートがむき出しになっている。
窓枠は錆びつき、ガラスはほとんどが砕け落ちていた。残された数枚も、ひび割れたまま風に軋んでいる。
入り口の扉は半ば外れかけ、蝶番が悲鳴のような音を立てて揺れているありさまだ。
建物の周囲には雑草が生い茂っている。夏の夜なら絶好の肝試しスポットになるだろう。
「遅いぞー、
秋風が肌を刺すような寒さを運ぶ中、なぜおまえはそんなにも元気なのかと突っ込みたくなる男が出迎えてくれる。
彼は秋物のコートを腕まくりしていた。
「……なんで、おまえがいるんだ? 陸上部だろ」
「
片目をつぶりながら、ちらりとこちらを見る男。
「それ、僕のことか?」
「さぁ、誰だろうね」
前の前で肩をすくめながら笑っている男の名は、
聡は、陸上部らしく引き締まった体つきをしている。
肩幅が広く、腕には無駄のない筋肉が乗っていて、荷物のひとつやふたつなら軽々と持ち上げてしまう。
短く刈り込まれた髪と精悍な顔つきが相まって、どこか野性味のある印象だ。
けど、そんな外見に似合わず表情はいつも明るくて、冗談ばかり言っている。
僕とは小学校からの付き合いだ。
高校で縁が切れると思っていたのに、どういうわけか大学まで一緒。しかもクラスまで同じとくれば、これはもう腐れ縁以外のなにものでもない。
「あ、久住先輩、おはようございます」
「おはよう、仲原さん。部長は?」
僕は近くの花壇に腰を下ろした。
「部長は先に中を見てくるって、一人で行っちゃいました。私たちは待機です」
ポニーテールを軽く揺らしながら答えてくれたのは、仲原
一年生で、僕の後輩。この写真部のモデルをしてくれている。
僕の身長は平均だけど、仲原さんは僕より頭ひとつ分ほど小さい。
小柄で、小動物のような人だ。
元気に動き回るその様子は、どこか子どもっぽい無邪気さを感じさせて、つい微笑んでしまう。
本人に言うと真っ赤な顔をして怒るので、口にするのは控えているが。
「寒いですね。先輩、指真っ赤ですよ」
「たしかに、冷たいな」
指を握ると冷気でかじかんでいた。
まだ手袋は早いと決めつけた自分が悪い。こんなことなら途中で熱い缶コーヒーでも買ってくればよかった。
「寒いですもんね。紅茶出しましょうか? 少しは暖かくなるかもしれませんし」
「出しましょうかって、仲原さんここ屋外だけど」
「ふっふっふ、抜かりありません! ジャン! 魔法瓶~」
高々と掲げられたのはオレンジ色の魔法瓶だ。ペイントされている花柄がなんともかわいらしい。
「お、いいねぇ。比奈ちゃんの紅茶は美味しいもんな」
「嬉しいお言葉です、有川先輩」
元気にそう言って仲原さんは紙コップをさらに出して悟に紅茶を渡す。
「はー、五臓六腑に染みわたる。これで茶菓子があれば言うことなしなんだが」
有川の言葉に仲原さんは嬉しそうにバッグを漁った。そこから出てくるお菓子とお菓子。女子のバッグは異次元だと聞いたことがあるが、本当にどこに入っていたんだと思うほどに出てくる。
「おまえ、ここになにしに来てるんだよ。菓子が目当てなら帰れ」
「もー、恭介の怒りんぼさん! わかってるって、写真撮影だろ。肉体労働は任せろ」
そう言って悟は鍛えた上腕二頭筋を見せてくる。
見せられて嬉しがることもない僕は、さっさとしまえと手でジェスチャーをした。
「聡、おまえ紅茶の味なんてわかるのか?」
「美味しければなんでもOK」
ずずず、と品のない飲み方をしながら聡が答える。
「有川先輩にそう言っていただけて光栄です。久住先輩はどうします?」
「せっかくだし、もらうよ」
仲原さんを見て苦笑すると、彼女は少し顔を赤らめながら水筒のカップに紅茶を注ぎ、そっと渡してくれた。
彼女は趣味で紅茶を淹れていて、部室にいれば毎回、美味しい紅茶を淹れてくれる。今日は野外だからと期待していなかった分、少しだけ気分が上向く。
いつの間にか僕の隣に座っていた聡が、大きな肩を揺らして機嫌よくハミングしている。
「うぉーい!」
声の方へ目を向けると遠くで写真部の部長、香奈枝先輩が手を振っているのが見えた。
「有川、ちょっとこっちに三脚とレフ板持ってきて」
「ふぁ!? ひょ、香奈枝先輩、いま口のにクッキー入ってるんれしゅけどー!」
「はぁ? 聞こえなーい。ほら、男でしょ。はい、走る!」
「ふぁあい! んぐっ」
大声で怒鳴られ、でかい体を恐縮させたかと思うと、聡はレフ板と三脚を軽々と持ち上げ、口に入っていたものを無理やり飲み込んだ。
頬にクッキーの残りがついていたけれど、注意してやる気にはなれない。
「じゃ、俺ちょっと行ってくるわ。恭介も、ぼーっとしてないで比奈ちゃん撮ってやれよ」
土埃でも舞い上がりそうな勢いで走っていく聡。
その後ろ姿に、僕と仲原さんはそろってため息をついた。
「有川先輩、すごく力持ちですね」
「それだけが取り柄だしな」
「あ、私はいいですよ。久住先輩は、自分の好きなものを撮ってくださいね」
「うん、ありがとう」
仲原さんは、僕に気を遣ってそう言ってくれた。
僕は、人間がうまく撮れない。
もちろん技術の面では他の部員に負けない自信はある。けれど、人を相手にすると、どうしても納得のいく写真が撮れない。
モヤモヤした感情が残って、好きになれない。
笑顔を撮っても、泣き顔を撮っても、どれもこれもが作り物のようで、決められたポーズのようで。
それに僕の写真には、ときおり、いてはいけないものが映る。
黒い靄だったり、不自然にゆがんだ人影だったり、誰もいないはずの場所に浮かぶ顔だったり。
レンズ越しに見えなかったものが、現像された瞬間そこにいる。それは人物を撮ったときほど、頻繁に現れる。
これも自分の写真を好きになれない理由のひとつだ。
所在なさげな仲原さんを見て、僕はつたない世間話を始めた。
「あのさ、今日ね、ここに来る前に死にかけたんだ」
「え?」
聞き取りにくかったのか、仲原さんは体をこちらに向けて首をかしげる。
「トラックにね、ひかれそうになった」
「だ、大丈夫だったんですか!? けがとかは?」
「大丈夫。女の子がね、助けてくれたんだ」
「女の子?」
仲原さんの大きな瞳が僕を見上げている。続きを聞きたいのだろうか。
水筒のカップを一度揺らすと、水面に映っていた景色も揺れた。
「変わった子だった。その子に言われたんだ、僕が“死に呼ばれた”って。どういうことなのか、ちょっと考えてた」
「死に呼ばれた……?」
「うん」
さわさわと風が鳴く。
風が寒くて、手をこすり合わせる。
「死を呼ぶから、写真がうまく撮れないのかな」
出した声は小さく呟きのようで、言葉は仲原さんに届くようなものじゃなかった。けれど彼女は俯く僕の前に座り込んで、僕を見上げて笑った。
「そんなことないです!」
「……ない。かな」
「死に呼ばれるとか、よくわかりませんけど、私、先輩の写真、好きです。どこがとか、うまく言えないですけど。きれいで繊細で、見てるとほわわってなるんです」
「ありがとう」
お世辞でも、嬉しかったので礼を言うと、仲原さんは不満そうな顔をした。
彼女はバッグに手を伸ばし、小さな琥珀色の瓶を取り出す。本当に、なんでも入っているバッグだ。
「おまじないです」
そう言って、蜂蜜をスプーンですくい、紅茶に混ぜてくれた。
淡い琥珀色が、ゆっくりと濃くなっていく。
一口飲むと、ほんのり甘くなっていた。
「先輩の写真のこと変に言う人もいますけど、気にしちゃダメです。心霊写真とか、そんなの幽霊が勝手に先輩のカメラに映りたがっただけです!」
「そんな、はた迷惑な」
「そうです。先輩は迷惑だ! って、勝手にフレームインするなー! って怒るべきなんです」
「んははは」
心霊写真。それを指摘されて、いじめられたのは、ずいぶん前の記憶だ。
「僕は……写真を撮りたいのかな」
変な写真がいつも出るわけじゃない。
ただ時々、ふとした瞬間に現れる。
写真は嫌いじゃない。
でも今「どうしても撮りたいか」と聞かれたら、答えに詰まる。
では、なぜ撮るのか――答えは簡単だ。
それ以外に、できることがないから。ほかに興味もなければ趣味もない。交友関係は狭く、狭い世界しか知らない。そんな僕の唯一の手慰み。
「ごめんね、仲原さん。変なこと言っちゃって」
「いいんです。久住先輩の愚痴ならいつでも! 先輩を悪く言う人なんて、私が撃退しちゃいます!」
両手でこぶしを握り、怒りのポーズを見せる仲原さんは、しゅしゅと口に出してパンチを繰り出している。
小柄な彼女がやると威嚇というより、かわいらしい印象になる。
僕のために心を動かしてくれる、数少ない人。
口にはしないけれど、大切な人のひとりだ。
「ありがとう」
この言葉は嘘じゃない。
そうこうしているうちに仲原さんは何かを言いかけて、ためらうように唇が動かした。
「あ、あの、先輩!」
「ん?」
「さっきは好きなの撮ってくださいって言いましたけど……よかったら、私を撮ってもらってもいいですか? モデル、まだ経験不足ですけど、でも、頑張りますから!」
励ましてくれているのかもしれない。
でも、それ以上に精いっぱいの気持ちが伝わってくる。
この子の優しさを受け取れる自分は、幸せだ。
僕は腰かけていた花壇から立ち上がり、伸びをして頷く。
「うん、わかった。撮影に使えそうな場所を探してくるから、仲原さんは広げたバックの中身、しまっておいて」
「は、はい!」
嬉しそうに、すぐに片づけを始める仲原さん。
ふと、風が吹くと白いケープと長い黒髪がはためいていた。
少女が着ているのは間違えようもない、横断歩道で見かけた白いケープだ。
僕と少女の距離は、約二メートルほど。
声も出せずに驚いていると、彼女は首だけを静かにこちらへ向けた。
「あの子、見てないとダメよ」
そう告げる。
「君は、信号のところで会った……よね。覚えてる?」
僕の言葉に少女は返事をしない。
ただ、少しかげりのある顔を見せる。
「彼女も、死に引きずられてる」
「死に引きずられてる?」
問い返すと少女は小さく頷き、
「あなたも」
そう言って、落ち葉が茂る廃墟の方へと走っていった。
「待って!」
必死に追いかけるけど、風が邪魔をする。
どう考えても意図的に風が僕を妨げているようにしか思えない。歩行が阻害されるほどの強風なんて、そう吹くものじゃない。
視界をふさぐように木の葉が舞い上がってくる。
それが静まるのを待っている間に、少女は足音とともに姿を消していた。
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